第6話

「エレナ?」


 どうやら人は恐怖状態になると、幻聴まで聞こえてくるらしい。ライナス様の声がする。あたりを見回したけど、姿は見えない。どうせなら姿も見せて欲しかった。


 ううん、現実的なこと考えないと。そうやって現実逃避しているからライナス様の声なんて聞こえるんだ。


 でも。


「ライナス様……会いたいよ」


 こうなったのは自分のせいだ。ここに来ると決めたのは私のだから。


 神様お兄様ライナス様。全部謝るから許してください。もう絶対怪しい話にはのらないし、ついていかないと約束するから。


 だから、ライナス様に会わせて。


「エレナッ! そこにいるのか?」

「……え?」


 確かにライナス様の声が聞こえた気がして、私はキョロキョロと辺りを見回した。勿論いるわけない。


 随分と都合の良い幻聴だ。こんな都合よく助けが来るわけがないのに。


 その間も扉は強い衝撃を受けて大きな音が響く。扉はもう半壊しかけている。


 この部屋に入られるのも時間の問題だ。


「エレナッ!」


 しかし、正気を保とうとどんなに頭を振っても、彼は私の名前を呼ぶ。


 もしかして、外?


 私は慌ててバルコニーの手すりまで寄った。ボロボロのバルコニーは、ところどころ煉瓦が崩れていて、寄りかかれば体ごと外に落ちてしまいそうだった。


 バルコニーから一階を覗き込むと、西日に照らされた金の髪が輝く。綺麗なサファイアが二つ。大きく見開いた。


「ライナス……さま……?」

「エレナッ!」


 ライナス様が叫んだと同時に、大きな音を立てて扉が開く。いや、これは壊れたと言っても良い。扉はもう形をなしていないのだから。男達は私が積み重ねたガラクタを追いやり道を作った。


 どうしよう……。


 もう逃げ道なんてなかった。二人の男とマノン――三人と戦えるわけもない。護身術って言っても大したことは習っていないのだ。


 思わず助けを求めてライナス様の方に視線を向ける。彼は険しい表情でバルコニーを見上げていた。


 彼はまだ私がどういう状況なのかわかっていない可能性がある。助けてと叫べば、来てくれるだろうか?


 駄目。今からライナス様が助けに来てくれたとしても、二階にたどり着く前に私が捕まってしまう。そうなったら、彼に迷惑がかかる。


 人質になるわけにはいかないんだ。


「エレナ様。みぃつけた」


 マノンが男達の間から顔を出す。唇は不気味なほどつり上がる。


 思わず一歩後ずさると、硬い何かを踏んでしまった。足を上げて顔を見せたのは、窓ガラスの破片。


 これだ!


 私は勢いよくそのガラスを掴んだ。


「来ないで!」


 大きな声で叫ぶ。そして、掴んだガラスは自分の首元に突き付けた。


 喉は急所だと、教えてもらったことがある。


「まぁ……! 死にたいほどあの薬がお嫌? あれでみーんな幸せになれるのに」

「幸せは自分で掴むものだと思うの。あんなおかしな薬でなるものじゃないわ」


 あのパーティにいた人はみんなどこか上の空だった。あれを幸せといっていいのだろうか。


 私の言葉にマノンはくしゃりと顔を歪ませる。


「あなたみたいな人、大っ嫌い。良い家に生まれて、婚約者にも恵まれて。全部自分で掴んだ幸せじゃないじゃない。それなのに、まるで自分の努力の結果ですって、当たり前みたいな顔をして言うのね」


 マノンが鼻で笑う。まるで蔑むよう目に手が震えた。時々ガラスの先が首元の皮膚に当たる。


 彼女には私はそんな風に見えてるんだ。


「でも、マノンさんだって……侯爵家と縁があるのでしょう?」

「縁が何? 田舎に生まれた平民すれすれの貴族の娘が恵まれてるっていうの?」

「それは……」


 正直分からない。田舎生まれでも平民でも、幸せな人は沢山いると思う。私は彼女がどんな人生を送ってきたか分からないのだから、彼女が恵まれているかどうかなんて全く分からない。


 理解できるほど、私は彼女と会話を重ねていないのだから当然だ。


「あなたみたいな箱入り娘大っ嫌い。死ぬなら死んで。さぁ、早く。それができないなら、大人しく薬を飲んで私の操り人形になって」


 死ぬか、人質になるか……。二つに一つしかないの?


 体が勝手に震えた。どっちも怖い。そんな時、大きな声で名前を呼ばれた。


「エレナッ!」


 思わずベランダから覗き込めば、ライナス様が両手を広げている。


 飛べってこと?


 ここは二階のベランダだ。そんな高いところから飛んだことはない。


「大丈夫。私が絶対受け止めるから」


 私の心の声でも聞いたのだろうか? ライナス様は優しく笑う。でも、こんな高いところから飛ぶなんて……。


 気づかないうちに力強くガラスを握っていたようだ。ガラスを伝って血が流れ落ちた。


 思わず手を離せば、マノンが笑う。


「手がちょっと傷ついて驚くあなたに、そこから飛び降りる勇気なんてある? お嬢様には高いでしょう? ……あの子を捕まえて」


 二人の男にマノンが命令する。黙っていた男達は、何もできない私を嘲笑うかのようにゆっくりと歩を進めた。


 心臓がいつもより早歩きだ。


 次第に近づく男達に背を向けると、私は崩れかけの煉瓦に足を掛けた。


 こわい……!


「大丈夫。私がエレナを受け止められなかったことがあるか?」


 大丈夫って言葉、信じてもいいよね?


 そう言って手を広げるライナス様の元へ、半ば落ちるように飛び込んだのだ。


 目は固く瞑っていたから、どんな風に落ちたのか分からない。でも、風を切る音を聞いた気がする。それよりも大きなマノンの叫び声を背に受けたせいで、そこまで鮮明には感じなかったけど。


 何か思う前に、強い衝撃を受けた。


 もっと痛いと思ったけど、そこまで痛くなかった。それよりも、その後に強く抱きしめられて苦しいと感じた。


 息ができるギリギリの強さで抱きしめられている。


 すぐ近くで、何かが通り過ぎる音が聞こえた。怖いもの見たさでゆっくり瞼を上げれば、兵士が物々しい様子で屋敷の中へと進んでいく。


「エレナ……」


 ライナス様は怒るわけでもなく、ただ私を抱きしめる。息が苦しいのに嬉しくて、私はよく分からないまま泣いた。


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