第四章
第1話
お気に入りのドレス。大好きな婚約者が用意してくれたとっておき。派手ではないけれど、華やかで、きちんと最近の流行りまで反映されているのだと、ケリーに教えて貰った。
今日はいつもよりもしっかりお化粧をして貰った。泣くと化粧が崩れてしまうから、絶対に泣かないぞというおまじないみたいなものだ。
彼の瞳によく似たサファイアのネックレス。小さなサファイアの数は数えたことがないけど、きっととても高価なものなのだろう。彼は私がサファイアを好きな理由をきっと知らない。
ただ一つ心配なのは、明日からサファイアを嫌いになれるだろうかということのみ。きっと私は、サファイアを嫌いにはなれないのだろう。
招待状に書かれていた通りの時刻に、ナンシーの屋敷へと降り立った。
もう既に、噂は広がってしまっただろうか。人の口に戸は立てられないもの。元々避けられているみたいだったし、悩んでも仕方ないよね。
ナンシーの屋敷につくと、ケリーは使用人用の控室に通された。これで私は一人きり。彼女に不安げに見つめられ、笑顔を返したけど上手くいったかはちょっと分からない。
私は、ライナス様から貰ったお気に入りに包まれながら、案内されるままに扉をくぐった。
広い室内には、もう既に大勢の女性が集まっている。同じくらいの年頃の女性が中心で、あとはデビュー前の女ん子を連れた女性も交じっていた。ここまで大規模なお茶会は初めてかもしれない。
侯爵家にもなると色々あるのだろう。あっちの顔も立てて、こっちの顔もとか。貴族にも派閥とか色々あると教えて貰ったことがある。公爵夫人になったら、そういうのも考えないといけない言われて戦々恐々とした覚えがある。そういうことももう考えなくて良いね。なら、婚約破棄も悪くないかもしれない。
私の入室が伝わると、みんな少し困惑気味に顔を逸らす。あからさまだよね。もしも、悪役令嬢ならどうするんだろう? きっと、気にした素振りも見せずにナンシーに挨拶するかな。
私は真っ直ぐナンシーの元へと歩いた。
「ごきげんよう、エレナ様」
「ナンシー様。この度はお誘い頂きありがとうございます」
「良いのよ。マノンにお願いされたら断れないもの」
ナンシーの唇が弧を描く。そう言えば、先日の夜会でそんな話をマノンとしていたっけ。部屋をぐるりと見回したけど、マノンの姿は見つからなかった。
「マノンさんはどちらでしょう?」
「今日は不参加なの。まだ頬の腫れが引かなくて、人に会えるような状態ではないのよ」
頬の腫れ? 何があったんだろう? そういえば、お兄様がマノンがどうとか言っていたような気がする。あの日は自分のことでいっぱいいっぱいで、お兄様と何を話したのか憶えていなかった。
マノンに会えなくて胸を撫で下ろす自身に嫌気がさす。だって、彼女はライナス様の気持ちを手に入れた人なんだもん。きっと、話せば話す程、自分との違いに苦しくなるだろうから。
「それは残念です」
「まあ、思ってもみないことを仰って」
ナンシーはコロコロと笑った。顔に出てたかな。ああ、そっか。ナンシーも知っているんだわ。マノンとライナス様が愛し合っていることを。従姉妹だもんね。当然と言えば当然か。
「今日は楽しんでいってくださいね。ほら、そこのあなた、お席にご案内して差し上げて」
側にいた侍女がナンシーに従う。彼女の案内した席は末席だった。
「申し訳ございません。急な申し出でございましたので……」
侍女の顔がとても不安そうだった。この人が用意したわけでもないのに、そんな顔しないで欲しい。
「良いの。この席、嫌いじゃないわ」
いつでも逃げ出せそうだし。なんて、言えるわけないけど。精一杯笑って見せれば、名前も知らぬ侍女もホッとした顔を見せた。
私の隣に案内された人は絶望ともいえる表情をしている。そりゃあそうだよね。よく分からないけど、悪役になってるみたいだし。もしかしたら、この前の夜会のことも色々と酷い噂になっている可能性だってありうる。
みんな噂話が好きなのだ。きっと私のことも当分はネタにされるのだろう。でも、そのうちもっと新鮮なネタが入ってきて、消える。だから、それまでの辛抱。
家には迷惑かけちゃうかもしれないけど、もうどうしようもないもの。謝るしかない。
「……本当、よく来れたものね」
「私だったら絶対に無理。さすがは次期公爵夫人様ねぇ」
聞こえるように悪口を言われた時の対処法なんて本が有ったら買ってたなぁ。覚悟していたけど、やっぱり苦しいものだ。何食わぬ顔で紅茶を口に含むこと五回。さすがに胃がキリキリしてきた。
「そのドレス、先日も見たわ。センスも感じられないし……。ノーベン家ってお屋敷も古いし、相当お金に困っているのかしら?」
クスクスと小さな笑い声が広がった。頭の中の何かがプツンッと切れたような音がする。今私の中にあるものは、悲しいとか悔しいとかそんな感情ではない。
気づけば扇子で口元を隠して笑う女性の前にいた。
「何かしら?」
「今すぐ謝って」
「まあ、こわぁい」
目の前の女性は、余裕たっぷりに扇子をあおぐ。
「このドレスはライナス様が私のために選んでくれた物なの。私が勝手に気に入って何度も着ているだけだわ。センスがないように見えるなら、私がうまく着こなせていないせい。我が家は確かに古いけど、歴史を大切にしているだけ」
彼女は私の言葉に苛立ったのか、立ち上がった。座っていた椅子がカタリと音を立てる。
「だから? なによ?」
「何も知りもしないで、私の大切な人のことを貶さないで。悪口が言いたいのなら好きにすれば良いわ。でも、私のことだけで充分でしょう?」
「よく回る口ね。本当うるさいっ」
彼女は顔を歪めると、私を力一杯押した。最悪なことに、私の足は他の人の足に躓き床に転がってしまう。その拍子にどこかに引っかかってしまったのだろうか、ネックレスが私の首から離れ床に落ちてしまった。
それはライナス様の大切な物だ。夕方にはお返ししなきゃいけないの。慌てて手を伸ばしたけど、遅かった。
影がサファイアのネックレスを覆う。私の目には、何重にも重なったスカートの裾しか見えなくなっていた。
金属の奏でる高い音が耳に入る。
「あら、やだ。ごめんなさい。気づかなかったわ」
女はクスクスと笑いながら、一歩後ろへと下がった。私の目の前にはバラバラになったサファイアが転がる。
「ひどい……」
「まぁ、ごめんなさいね。こんなところに置いてあるから気づきませんでしたわ。でも、ノーベン家でしたら、この程度の物いくらでも買えるのでしょう?」
彼女の唇が弧を描く。何がそんなに面白いのだろうか。これは、大切な物なのに……。
私は全部拾い集めて握りしめた。
どうしよう。なんて言って返せば良いんだろう。こんなことになるなら、つけてこなければ良かった。これを見たライナス様は最後まで私を見て落胆するだろうか。
全然うまくいかない。
私は逃げるようにお茶会の会場を出た。笑い声が背中にまとわりついて気持ち悪い。ライナス様がくる時間にはちょっと早いかもしれないけど、帰ろうかな。
このネックレスもどうにかしなければ。両手の中のネックレスは、無残にも原型をとどめてはいなかった。
一つ一つ取れて、これではただの宝石だ。全部あると良いのだけれど……。
「エレナ様?」
突然声をかけられて、肩が跳ねる。真剣にサファイアと睨めっこしていて、背後に人が来ているなんて気づかなかった。
慌てて振り返ると、そこにはマノンが立っていた。
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