第10話
マノンは屋敷の侍女に手当を受けながらもさめざめと泣いていた。侍女も、「可哀想に」と眉尻を落とす。
真っ赤に腫れ上がった右頬はたしかに痛々しく、同情を引くには十分だった。ライナスはわざとらしいとすら思える涙に、感動も何もないと小さなため息を漏らす。
明日にはどんな噂が流れているだろうか。婚約者がいながら別の女に手を出した浮気者と指さされることは怖なくはない。しかし、エレナを貶めるような噂も同時に流れることが怖かった。
手当の間、寄り添うわけでもなく、部屋の隅でただ、様子を見るに徹する。今は自身の不甲斐なさへの苛立ちを抑えるのがやっとであったのだ。
「庭園で何があったのか教えて頂けますか?」
ゆっくりと息を吐き出し、落ち着かせた後だったが、思いのほか声には苛立ちが混じっていた。その声に肩を震わせたのは、マノンではなく、彼女の手当をしていた侍女だ。
関係のない者を怖がらせてしまったことに眉根を寄せる。
分からないことが多過ぎるのだ。短い間にどんな話が行われたのか、庭園で何があったのか。何より今、エレナがどうしているのかの方が心配であった。
兄であるケイトが側にいるのだから、一番安全で安心であることは間違いない。それでも、その場に自身もいられたらと思ってしまうのはわがままであろうか。
「私のせいなんです……私がエレナ様を怒らせたから……」
マノンは座っていた椅子から崩れ落ち、床に膝をついて涙した。ライナスはそんな彼女をどこか冷めた目で見やる。
まるでつまらない劇でも見ているような気分だった。
「なんと言ってエレナを怒らせたのですか?」
ライナスはエレナが怒ったところを見たことがない。ケイトに言わせれば、いつも怒っていると言うが、エレナはいつも楽しそうに笑っているばかりだった。
そんなエレナにどんなことをすれば怒るというのだろうか。
「それは……その……女同士の話ですので……」
「そうですか。女の、ね……」
ライナスはそれだけ言うと、マノンから目を外す。それに合わせ、侍女が手当を再開する。彼女が手当の終わりを告げた時、ライナスは彼女の手に貨幣を握らせた。
「少しだけ席を外していて下さい。このことは内密に」
「か、かしこまりました」
侍女は少し頬を染めるとライナスの言葉に素直に従い、すぐさま席を外す。マノンはそんな侍女を見ても狼狽えるどころか、どこか嬉しそうに笑った。
「さて、話を聞きましょうか」
「何のことでしょうか?」
「エレナに関して伝えたいことがあったのでしょう?」
「……さあ……どうだっかしら……」
マノンは、ガーゼを被せられた頬を撫でる。腫れを隠したはずなのに、その姿は痛々しく見えた。
「私、凄く怖かったんです……突然叩かれて……それにドレスも破かれてしまって……」
「怒らせるようなことを言ったのでしょう?」
マノンはライナスの元に駆け寄ると、胸の中に飛び込んだ。胸を強調するように押し付ける。
「私、ちゃんと伝えたんです。たまたま会ったって……だけどエレナ様、『ライナス様は私のモノよ』って……」
マノンは目を伏せ頬を撫でる。エレナから突然叩かれたのだと主張したいのだろう。
「それは私の婚約者が迷惑をかけましたね」
「ライナス様、お可哀想……あんな方が婚約者で」
マノンはライナスの胸にべったりと寄り添う。もしも他にこの姿を見ている人間がいたとしたら、恋人のように見えるだろうか。
小さなため息が漏れた。
「心配には及びません。話がそれだけでしたら、今日はもう帰りなさい。お詫びに我が家の馬車を貸しましょう。行き先は御者に伝えてください」
「ライナス様が送ってはくださらないのですか?」
「……なぜ?」
ライナスは首を捻る。ドレス姿の女にその足で帰れと言っているのではない。
「なぜって……私、怖いんです……一人で馬車だなんて……」
「そのような繊細な方には見えませんが」
「そんなっ……酷いわ……」
マノンは目を伏せると、その瞳から涙を流した。
「あまり、馬鹿にしないでください。そんな涙で絆されるほど、私は優しい人間ではありません」
ライナスは吐き捨てる。もう、触れられているのも不快だと、マノンの体を引き剥がした。大きなため息を吐けば、彼女は僅かに眉根を寄せる。
「……どういう意味ですか?」
「どうもこうも、あなたの自作自演に騙されるほど私は馬鹿ではありません」
「なにを……なにを言っているんですか……これはエレナ様がっ!」
「エレナはそんなことしませんよ」
「そんなの、分からないじゃないですか」
「エレナはそんなことするような子ではありません。それは私がよく分かっています」
エレナが感情に任せて手を出すような少女でないことは、ライナスがよく知っていた。理不尽を前にして尚、自身が何が悪いことをしているのではないかと悩むような性格の子だ。
婚約者が別の女を連れても尚、頬を打ち、ドレスを裂くような真似をするとは考えられなかった。だからこそ、今どうしているか心配なのだ。
「エレナ様、ライナス様の前では猫をかぶっていたのではありませんか? 私の前ではまるで――」
マノンは口早にものを言う。これ以上聞きたくはないと、ライナスは彼女の頬を掴んだ。
「エレナは右利きです。感情に任せて叩くのに、左手は使いませんよ」
マノンの頬から手を離すと、静かに背を向けた。これ以上聞くことも何もない。同じ部屋にいることすら不快と感じた。――扉に手を掛けたその時だ。
「良いんですか? このまま私を放っておいたら、あることないこと人に言ってしまうかもしれません」
「どうぞ。お好きなように」
「なぜ? あの婚約者が可愛くないの?」
「エレナはもう既に傷ついています。あなたが何かを言っても言わなくても、一人歩きし始めた噂を止めることはできません。ですから、あなたに交渉の余地はありません」
「そんな……」
「我が家の御者には伝えておきますから、少し休んだら帰りなさい。では」
ライナスはマノンの顔も見ず、部屋を出て行った。
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