第9話
これを不運だと言わなければなんと言うのだろうか。多くの人の前では天を仰ぎみることも許されず、表情は強張るばかりである。
執務の都合で遅れて参加する予定だった夜会。この夜会は人を狂わせる毒――南の悪魔に関わっていると予想される者が参加する。少しでも接触できればと参加を決めたのは昨日のこと。
ケイトが参加することは事前に連絡を受けていた。まさか、エレナを連れているとは思わなかったのだ。
マノンと名乗る女性と会ったのは、馬車を降りてすぐだった。
「もしや、ライナス様ではありませんか?」
見覚えのない女性に声をかけられることはよくあるが、その程度のことで立ち止まるつもりもなかった。ライナスにとってこの程度のことはよくあることである。
「あのっ! 待ってくださいっ! 私、マノンと申します。エレナ様のことでお耳に入れたいことがあるのですっ!」
しかし、婚約者の名前を出された途端、その足が止まった。
「エレナのこと、とは?」
「その……ここでは……」
入り口のフットマンの顔を見る。彼は置物のように静かに佇んだまま、視線を落とした。
しかし、この辺で話のできる場所など限られている。話を聞くだけとはいえ、女性と二人で馬車に乗ることは躊躇われた。
「もしよろしかったら、中に連れて行ってくださいませんか? 中ならゆっくりお話しする場所もあるでしょう?」
「あなたは今日、ここに招待されたのでは?」
若い女性が一人で夜会参加することはあまりない。共に参加する者がいた筈だ。ぐるりと見回したが、それらしい者の姿は見れなかった。
フットマンも彼女の扱いには困っていたようで、ライナスに見えるように眉尻を落とす。
「それが、ご一緒する方が急に体調を崩されて……。ですが、本日ライナス様がいらっしゃると聞いたので待っていたのです」
「そうですか。しかし、あなたを責任持って最後まで送り届けることができません。ここでできない話なら、別日に予定を組みましょう」
ライナスはマノンの親戚の類いではない。血の繋がりもない女性をエスコートすれば、どのような目で見られるかは明らかだ。しかも、ライナスにはエレナという婚約者がいる。この会場にいる大抵の者なら知っている事実でもあった。
婚約者がいるのにも関わらず、女性に手を出す男と言われれば、エレナの名誉と心が傷つくことは明らか。自身のことだけならばまだしも、彼女の笑顔が消えるようなことはしたくない。
しかし、マノンは少し悩んだ素振りを見せる。
「夜会の会場に二人きりで話せる場所など殆どありません。それに、若い男女がこそこそとしていれば噂も立ちます」
「私は……それでも構いません」
「あなたが構わなくても私が構います」
噂になってまで伝えたいほど、マノンはエレナと仲が良いのだろうかと首をひねる。いつだってエレナの口から出てくる名は友人のキャロルとメリア、そして侍女のケリーばかりだ。
最近はお茶会にも参加するようになったが、数回あったくらいで仲良くなるだろうか。仲が良いなら余計に噂が立つことは避けるだろう。
無表情のまま考えていると、マノンがライナスの腕に器用に絡まった。彼女の胸を強く押しつけられ、その意図を強く理解したのは言うまでもない。
「エレナをだしに使うつもりでしたら――」
「おお! ライナス君、誰かと思ったら君か!」
マノンの腕を振りほどく前に、背後から声を掛けられた。ライナスの父の狩り仲間の一人である男は、奥方とは思えぬ若い女性を連れていつの間にか後ろに立っていたのだ。
「これは……お久しぶりです」
「ああ、久しぶり。婚約者と仲睦まじいのは良いことだが、こんなところで立ち止まっていては駄目だよ。さあ、中へ入ろう」
男はフットマンに指図してドアを開けさせた。ライナスが止める間もなく、扉は開かれてしまう。
男は未だマノンを婚約者だと思っているようだ。エレナを連れて参加した夜会では、会ったことがないため、誤解するのも無理はない。
きっとこのことはすぐに噂になるだろう。早急に釈明しておく必要がある。つまらない噂で、エレナの心が離れていくのは耐えられないからだ。
離れて欲しいのに、まるで蔓のように彼女の腕が絡まる。マノンがライナスの耳に唇を寄せてきたのはそんな時だった。
「ライナス様、本日はエレナ様もいらしていたんですね。これでは……エレナ様のことをお話しするのは難しそうですね」
マノンは笑顔を向けると、今まで絡みついていた腕をするりと解く。そして、一直線にエレナの元へと駆けて行った。
エレナの呆然とした顔が見える。
なんと釈明すべきだろうか。真実をありのままに伝えたところで、マノンを連れて夜会に来た事実は消えない。
そうこうしている内に、彼女に手を引かれエレナが庭園へと消えてしまった。呆然と見送ることしかできない自身を叱咤した。
肩を叩かれ、振り向けばケイトが満面の笑みで迎える。これが何を意味する笑顔か分からないほど、付き合いは短くなかった。
「ライナス、『うちの妹がいながら』とか怒った方が良い?」
「ケイトさん……。面目有りません」
「ライナスが妹のこと大切にしているのは知っているから、これには海よりも深い事情があるんだろうけど」
ケイトが庭園に通じる扉を見る。
「分かっています。今、エレナを酷く傷つけてしまいました。なんと弁明しても、苦しめる未来しか浮かびません」
「それに関しては、私も詫びるよ。妹をこっそり連れてきたのが裏目に出るとはね。喜ばせるつもりが悲しませてしまったし。このままじゃ三日どころか十日は口を聞いてもらえないかもしれない」
ケイトは珍しく眉尻を下げ、肩を竦めた。
「ライナス、今日のことを詳しく聞くのは後日にしよう。こんなところで妹に弁明を始めれば、良からぬ噂が立つだろうし。今日は妹を連れて退散するよ」
本当ならばすぐにでも説明をしたい。しかし、それが許されないのも知っていた。
「ケイトさん、ありがとうございます。明日、必ず伺います」
「そうして。うちの妹は察しがいい癖に、変な方向に妄想を働かせてしまうからね。もしかしたら、もう既にエレナの中では婚約破棄することになっているかもしれない」
ケイトが肩を二度叩くと、ライナスから離れて行った。エレナを迎えに行くつもりなのだろう。真っ直ぐに庭園に続く扉を目指す。しかし、その扉が開いたことによりその歩みが一度止まる。
扉から現れたのは、エレナではなくマノンの方だった。扉を抜けた彼女は右頬を抑え、身体を左右に揺らす。様子がおかしい。
二歩、三歩と進めたところで、膝から崩れ落ち声を上げて泣き出した。
「エレナ様が……」
大粒の涙が頬を滑り落ちる。涙を拭うのに頬から手が離れると、真っ赤に腫れていた。よく見れば、ドレスの肩の部分は破かれているようだ。
この状況では、エレナがマノンの頬を叩き、ドレスを破ったと皆が理解するだろう。
観衆が呆然とする中、ライナスとケイトが駆け寄った。ケイトが上着を脱ぎ、マノンの肩に掛ける。
「ライナス、すまないが彼女の方を頼むよ。私はエレナを見るから」
「……分かりました」
本当ならエレナの元へと走っていきたい気持ちが大きい。しかし、今それをすれば、マノンが誰かに有る事無い事言って回ることは間違いない。
ライナスは屋敷の者に声をかけ、手当を依頼した。後ろ髪引かれる思いで、マノンに付き添うことにしたのだ。
ライナスは天を仰ぎ見る。
今日はケイトにすべて任せておけば良かったのだ。そうすれば、エレナが来ることもなかった。マノンにしてやられることもなかったのだ。
ライナスが今できることがあるとすれば、マノンの計画を暴くことくらいしかない。
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