第8話
呆然と二人の男女を見つめていた時間は僅かなものだっただろうか。私には永遠のように長い時間に感じた。
ライナス様の隣にいる女性が、親密そうに耳元に顔を寄せる。その女性はどうやら私の姿に気づいたようだった。二人の視線と私の視線が交わる。
ライナス様の表情はあまりよく分からない。少しくらいは驚いてくれただろうか。きっと、お兄様の思惑とは違う驚きだろうけど。
彼を前に何て言えばいいんだろう?
けど、悩む必要はなかったようだ。私を見つけた女性が、ライナス様の腕からするりと離れると少し急ぎ足で私に向かってきた。
段々と近づいてくると、顔がはっきり見えてくる。えっと……見たことのある顔だ。どこだったかな。どっかのお茶会で会ったことがあると思う。
彼女は私の前で立ち止まると、笑顔を見せた。それは勝者の笑みにも見てとれる。
「エレナ様。ごきげんよう。マノンです。憶えていらっしゃいますか?」
マノン、マノン、マノン……思い出すのよ。エレナ。色んな人の顔と名前を思い出す。しかし、これだ! という人が出てこなくて首を傾げた。
「ええと……」
「覚えていらっしゃらないのも無理ありません。ナンシー様の親戚の。セルン家のお茶会で初めてお会いしたではありませんか」
そういえば、初めて参加したお茶会でそんな名前の女性がいた。
「あ……! ごめんなさい。雰囲気が変わったので気づきませんでした」
「私みたいな下級貴族の娘など憶えていなくて当然です」
マノンが顔を伏せて明らかな落胆を見せた。悪い事をしてしまったと罪悪感が満ちる。だって、本当に雰囲気が変わったのだ。初めて会った時は控え目なドレスと装飾品だけだったのに、今は流行りの色を着ている。
お化粧だって、随分と派手になったと思う。お茶会でナンシーの言葉に頷いてばかりだったマノンだと誰が気づくだろうか。
違う。彼女も努力したのだ。だから、ライナス様の隣に立つことができた。そこは私の場所だよ。なんて、言えるわけもない。だって、もう彼の中では違う人が――マノンが隣に相応しいと思っているかもしれないのだから。
「よろしかったら少し外でお話ししませんか?」
マノンの誘いに私は驚いた。彼女は、視線で庭園を差す。ライナス様は私達の会話には入ろうとせず、お兄様と遠巻きに私達を見ていた。少し驚いたけど、彼から離れたい私にはちょうど良い誘いだ。
今、どんな言葉も出てこないもの。
「はい。少しで良ければ……」
「では、行きましょう」
マノンは陽気に私の手を引く。お兄様と目があったけど、何も言うことができなかった。少しだけだし、良いよね。
帰りにお兄様に何て言われるかなぁ。怒られるかなぁ。私、いつ婚約破棄されるのかな。もっと、早くライナス様の理想の女性像に気づけていれば、こんなことにならなかったのかな。
庭園は人がいなかった。みんな社交に勤しんでいる証拠だ。薄暗い中だし、夜の外は寒いもの。
「本日はいらしていたんですね。それなのに気づかずに……」
マノンはちらりと屋敷の方を見る。「気づかずに彼にエスコートして貰ってごめんなさい」こんなところだろうか。
「いえ、お気になさらず。今日、来る予定ではなかったのですが、兄と急遽来ることになったんです」
「そうだったんですね。最近、どこのお茶会でも見かけないから心配してました」
それは、多分変な噂が立ったからだと思う。彼女に言っても仕方ないかな。彼女は知っているのかもしれない。私が「悪役令嬢」になった訳を。この口ぶりだと、色んなお茶会に顔を出しているみたいだし。
「そうだわ。よろしかったら今度、ナンシー様の主催するお茶会にいらしてくださいませ」
「えっと……よろしいのでしょうか? その、私に変な噂が立っているらしいのでご迷惑になるのでは……?」
何だか知らないけど、恐がられているのよ? ああ、でもナンシーはこの前、臆せず私に話しかけて来たから彼女には話がいっていないのかもしれない。
侯爵家のナンシーの主催するお茶会ってきっと人も多いんだろう。そんな子羊が沢山集まる中、狼が参加したらどうなるだろう。いや、私は全然狼の要素ないんだけど。
「そうなんですか? 知りませんでした。でしたら、余計参加してください。ナンシー様にお願いすれば、きっと誤解もとけます」
マノンがぎゅっと私の手を握る。まるで優しい友人のようだ。
「帰ったら、ナンシー様にお願いしてみますわね。是非いらして。またゆっくりお話しが聞きたいもの」
「ありがとうございます」
そこで誤解がとければ、日常が戻るかもしれない。その時には、もうお茶会に参加する理由もなくなっているのだから、皮肉なものだ。
「そろそろライナス様が心配するかもしれませんね。戻りましょうか」
突然、彼の名前が出て肩が跳ねた。
まだ、会って話す勇気は湧いてこない。今戻ったら大勢の前で振られるかもしれないし……。
「あの、マノンさんだけ先に戻ってください。私、もう少し外の空気を吸いたくて」
「中は人が多いですものね。では、伝えておきます」
「はい。よろしくお願いします」
私は静かにマノンの背を見送った。込み上げる不安を落ち着かせるために、胸元のネックレスを握り締める。これも、返した方が良いのかもしれない。
ライナス様の大切な物なのだろう。もう婚約破棄される筈の私が預かっていてはいけないのだ。
それに、彼の瞳と同じサファイアを今後見る勇気なんてなかった。
目頭が熱い。泣いたらいつもと一緒だ。だから、必死に唇を噛み締めた。
「笑顔、笑顔」
頬を押し上げても全然笑顔になった気がしない。このままじゃ会場に戻れないなぁ。
結局涙をこらえることはできず、一人でしゃがみ込んでしまった。かっこ悪い。これで「悪役令嬢」だなんて、本物に笑われてしまうわ。
それから私が会場に戻ることができることはなかった。その前に、お兄様が庭園に探しにきたのだ。
「おい、エレナ。何があった?」
「……へ?」
肩に置かれた手を辿って視線を上げる。凄い形相のお兄様がいた。
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