第3話
開けていた窓から強い風が吹いた。
日付を越えたことを知らせる鐘がなったばかりの真夜中のことだ。
風に煽られて机の上の書類が数枚床に散らばったことで、ライナスとジークフリートは手に持っていたペンを置く。
窓をしめようと立ち上がったところで、異変を感じた。――窓枠には、ここにはいる筈のない男が優雅に腰かけていたのだ。
「やあ、ライナス、久しぶり。ジークも元気してた?」
「……ケイトさん。今何時だと思っているんですか?」
ケイト・ノーベン。ノーベン家の長男だ。この半年、遊学という名目で隣国へ行っていた。帰国を促したのひと月ほど前のことだ。ここに訪れたということは無事に帰国したということなのだろう。
いつも神出鬼没で、何にも囚われることのないこの男は、ここが四階にも関わらず何事もなかったかのように現れる。
いつもどうやって四階の窓から現れるのかは、秘密らしく教えて貰えた試しはない。
「夜中の鐘がさっき鳴ったから、十二時は過ぎたんじゃないかな? こんな時間までご苦労なことだね」
闇に溶けそうな黒いコートを脱ぎ捨てると、ケイトは足元に散らばった書類の一枚を拾った。
栗色の髪が風に吹かれて揺れる。婚約者に似通った髪の毛に、ライナスは目を細めた。
彼女と何日会っていないだろうか。そんな思いを見透かすように、ケイトの口角がわずかに上がる。
「久しいな! ケイト。元気そうで良かった」
「ジークも元気そうだね? 本当に困るよ。折角あっちで可愛い恋人ができたところだったのに、帰れなんてさ。人使い荒いんじゃない?」
「悪いな。こっちで新しい恋人を探してくれ」
「ジークならそう言うと思ったよ。ま、良いけどさ」
ケイトは軽やかに床に散らばる書類をかき集めると、ポンッとライナスの机に乗せる。鼻歌でも歌いそうな雰囲気のまま、近くの椅子に腰かけた。
「随分と早い帰国でしたね」
「まぁね。ちんたらしているのは性に合わなくてさ」
「それで、旅の供に無理をさせたのですか?」
「男に優しくする義理はないからね」
ケイトの帰国は予定より十日も早い。強行だったことは簡単に想像できた。そういえば、半年前、体力のある者ばかりを選んでいたなと思い出す。
ライナスは横暴な主人を持ってしまったノーベン家の者達を憐れんだ。
「それで、ケイト。今日は何しに来たんだ? あまりここには来るなと言っているだろう?」
ケイトとジークフリートの関係は知られてはならない秘密だった。永きに渡り王家とノーベン伯爵には裏の繋がりがある。
それを知る者は殆どいない。
決して外に漏れてはならない関係だ。それだというのに、ケイトは度々こうしてジークフリートの執務室に現れる。
「今日だからここに来たのさ。私はまだ旅の途中でね。供の者は三つ隣の街に宿泊させてある。明日の夕刻まで、私はここにはいない人間なんだ」
「そこまでして私達に会いに来たということは、何か重要な用事でも?」
「勿論。二人には直接渡したくてね。はい、お土産」
ケイトは上機嫌に笑うと、懐から小さな袋を取り出した。わざわざ直接持ってくるくらいだ。貴重な物なのだろう。ライナスが向かう前に、ジークフリートが待ちきれないとばかりにそれを手にする。
袋の中から出て来たのは手のひらに乗る程度の黒い粉末だった。
「これか。南の悪魔――人を狂わせる毒というやつは」
「そう。たったそれだけの量で、人一人の人生を一瞬で狂わせることができるらしいよ」
「たったこれだけでねぇ……」
ジークフリートはまじまじと手に乗る粉末を見る。どこにでもありそうな薬のような代物だ。これをひとたび吸えば、夢の世界に誘われるというのだから驚きだ。
ライナスはジークフリートの手から指で掬い取る。
舐めると世界が変わってしまう代物だというのが理解できないほど他の薬と何も変わらない。だからこそ気持ちが悪いと感じた。例えば、薬だと偽られてしまえば、人は簡単にこの薬を口に含むだろう。
この南の悪魔と呼ばれた毒がライナスやジークフリートの耳に入ったのはここ数年のことだった。この毒は人に快楽を与え、判断力を鈍らせる。死に至るには時間を要するが、一度毒を口に含んだ者はその毒を自ら乞うのだという。
この毒は人を操ることのできる悪魔だ。
それが隣国で広がり始めたのはここ一、二年のこと。国を手中に収めようとした貴族がいたらしい。
「もう既にこの国に入って来ているという情報は掴んでいる。だから、私が戻されたんだろ?」
「ああ、そうだ。この国が狂う前にどうにかしないといけない」
「私もこの国がこの悪魔に狂わされるのは見たくない。お隣でこれに狂わされた者達を見てきたが酷いありさまだったよ。ああはなりたくないね」
ケイトがわざとらしく体を震わせる。ジークフリートはそんな彼の様子に眉根を寄せた。
「これを作っている南の村はどうだった?」
「これの元になる花が見渡す限り一面に咲いていたよ。朝露に濡れる姿は不気味で、何度火をつけたいと願ったか」
今度はライナスが眉を寄せる番だった。そんなことをすれば、どんな問題になるか分かったものではない。そして、その花が火に炙られた場合どうなるのか、分かっていなかった。迂闊なことはできない。
「大丈夫、大丈夫。何もせずに戻ってきたさ。驚くことに、あれを栽培している村人はこれがどんなことに使われるのか知らないらしい」
「知っていたらこんなもの作れないだろうな」
ジークフリートは難しい顔をしながら納得顔で頷いた。しかし、ケイトはそう思っていないらしく、目を細めて笑う。
「それはどうかな。使い方を間違えなければ薬にもなる代物らしいからね」
「あの悪魔が薬になるというのですか?」
「そう、使い方を間違えなければね」
「私はそちらの方に興味がありますね」
「そう言うと思って、向こうの医者に色々と聞いてきた。後で詳しく報告するよ」
人を狂わせる悪魔が薬になるという情報は、この国には渡ってきていない。もしもその話が本当ならば、排除するのではなくうまく付き合わねばならなくなる。
「それで、今のところ、悪魔の使いになったのはどこの家か掴めたのかな?」
「ええ、いくつか絞り込めました。鷹か蛇か狼か……」
「そこまで絞れたなら、あとはこっちで探ってみるさ。ライナスはエレナとのんびりお茶でも飲んで待っていてよ」
「ありがとうございます」
「半年間、エレナとは仲良くやってた?」
「ええ、邪魔が入らない分」
「酷いなぁ。未来のお義兄様にむかって」
茶目っ気たっぷりに笑っているが、ケイトはエレナとライナスが二人でお茶をしていれば十中八九邪魔をしてくる。ライナスは今までのことを思い出しこめかみを押さえた。
またあの日々が始まるのかと思えば、頭痛もしてくるというもの。
「ケイトさんはそろそろ妹離れした方がよろしいかと」
「無理無理。あんな打てば響く妹、離れられないって。結婚までは諦めて邪魔されなさい」
結婚までというが、結婚してからもちょっかいを出すことは間違いない。結婚程度で引くような男ではない。
小さなため息が漏れた。
「約束はちゃんと守っているよね?」
「無論です」
「それなら良いんだ。それじゃあ、私はもう行くよ」
ケイトは脱いだ黒のコートを羽織ると、窓からひらりと消えて行った。窓の外には暗闇が広がる。身を乗り出して外を見ても、彼は見当たらなかった。
「忙しないやつだな」
「ええ、そうですね」
ライナスは肩を竦める他ない。
「そういえば、『約束』とはなんだ?」
ジークフリートは興味深げにライナスを見た。その瞳には好奇心の一言が浮かぶ。
「それはあなたと言えど言えません」
言えるわけがない。ノーベン家と交わした唯一の約束――結婚までは一線を超えない。など。
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