第9話

「なあ、何か楽しいことはないか?」

「ご自分でお探しなさい」

「固いこと言うな。王太子という身分はどうも身動きがとりにくい。面白いことを探すのも大変なんだ」

「その王太子の道づれで執務室に篭っている私がどう面白い話を入手するのでしょうか」

 

 ライナスは少しばかり苛立っていた。いや、これはいつものことである。できれば執務など手伝いたくない彼からしてみれば、ジークフリートの手伝いは面倒以外の何物でもなかった。

 

 しかも、最近は特に忙しくなかなか婚約者であるエレナの元にも行けていない。彼にとってエレナの笑顔こそが生き甲斐である。その生き甲斐にもう随分と長い時間会えていなかった。

 

 原因を作っているジークフリートの呑気な声を聞けば苛立ちもしよう。

 

「可愛い婚約者の代わりに俺の顔でも見て腹いっぱいにしておけ」

「こんな男の顔など見ていても、気持ちが晴れません」

 

 ライナスは大きなため息を吐き出すと、窓の外を見た。今、彼女はどうしているだろうか。そればかりを考える。長く会えなければ、次に話を聞く時間も長くなる。それはそれで楽しい時間となるのだが、代償が大きすぎる。

 

 彼女の一所懸命に話す姿はライナスの気持ちを和やかにさせた。

 

 背の低い彼女が見上げる度に、頬が緩まないようにするのが大変なほどだ。


 ライナスとてただの男。常に彼女の前では『良い男』でありたい。五つも年上なのに、緩みきった顔を見せるなど言語道断。

 

「ライナス。そろそろ一人でニヤニヤするのをやめて仕事を手伝ってはくれないか」

「うるさいですよ。休憩も与えないなど、人の上に立つ者としてどうかと」

「はいはい」

「はいは一回でよろしいといつも言っているでしょう」

「はぁい」

「そのような高い声を出しても可愛くもありませんよ」

 

 こんな時にエレナが側にいればと思わずにいられない。随分と見慣れてしまったジークフリートの顔を見ても気が晴れるわけがなかった。

 

 ジークフリートはペンを持つ手を止め、ニヤニヤと笑う。気味の悪い笑顔にライナスの眉根がピクリと動いた。

 

「どうせ今日会いに行ってもいないんだ。大人しく手伝え」

 

 愛しい婚約者に会いたい気持ちは分からんでもないが……と言いながらジークフリートは書類に視線を落とした。

 

 しかし、ライナスはすぐに頷くことができなかった。手にしていた書類を放り投げると、ツカツカとジークフリートの元へと近づいた。

 

「どういう意味ですか?」

「今日は茶会らしいじゃないか」

「誰が……でしょうか?」

「エレナ嬢に決まっているだろう。セルンの坊やが『姉の茶会にノーベンのお姫様が来る』と自慢していたぞ」

「何かの聞き間違いでは? エレナはセルン家とは交流はなかったかと」

「セルン家としては歴史あるノーベン家の娘であり、次期公爵夫人と仲良くなるのは悪くない話ではあるし、これを機にといったところじゃないのか?」

 

 ない話ではない。そのことをライナスも十分理解していた。それでも腑に落ちない顔をする。

 

「なんだ、連絡なしに茶会に出られて機嫌を損ねているのか? 心の狭い男は嫌われるぞ?」

「そんなことではありませんよ」

 

 ライナスは手を強く握りしめた。その真意が分からないのか、ジークフリートは首をかしげる。致し方なしと、ライナスはため息を漏らしながらも口を開く。

 

「以前、茶会は苦手だと言っていたんです」


 社交界にデビューする前のエレナからは、母親と共に茶会に参加した旨をよく耳にしていた。しかし、いつしか友人のキャロルとメリア以外の茶会には行かなくなっていた。


 ライナスはそのことを尋ねたことがある。彼女は困ったように笑うと、「なんか苦手で」とだけ言った。その顔があまり幸せそうには見えず、苦しかったのを覚えている。


「心境の変化でもあったんじゃないか? 女心は移ろいやすいものだろう?」

「移ろったくらいで苦手な場所に赴くものでしょうか?」

「さぁな。だが、社交を無理強いされる家でもないだろう? なら、彼女の意志だろうよ」

 

 右の口角を器用に上げると、ジークフリートは書類に目を通した。視線は紙に書かれた文字を辿っている。エレナのお茶会の参加に関しては興味を失ったのであろう。しかし、ライナスは「そうですね」で終わらせられる筈もなく、険しい顔を更に歪めた。

 

 ジークフリートはライナスを横目で見る。ほんのすこしニヤニヤとしているのは、気のせいではない。エレナのことでライナスを揶揄するのはいつものことだった。

 

「ジーク、この書類を終わらせたら今日は帰ります」

 

 ライナスの机に乗った書類は山のようであった。普段であれば、夜半までかかるような代物だ。ジークフリートはそれに返事はしなかったが、是であることは明らかだった。

 

 彼の返事を待つわけでもなく、ライナスは自身の書類へと向き合う。その後は何にも勝る勢いでその山を崩していった。ペンを置くこともせず、なんならため息の一つも吐くことはない。彼の顔が鬼気迫る形相であったことは間違いなかった。

 

 彼が羽ペンの先をナイフで削る度にジークフリートは小さく息をついた。

 

 ライナスが書類の山を全て片付けたのは、日が暮れるよりも前のことだ。

 

「では」

「恋する男というのは厄介だな」

「恋を知らない男には分からないでしょうね」

「一生分からなくていいさ。エレナ嬢によろしく伝えておいてくれ」

 

 ライナスはジークフリートの言葉を最後まで耳に入れる前に、足早に執務室を後にしたのだった。

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