第5話
ライナス様が手を取れば、少しだけ目の前の世界が明るくなったような気がする。
彼の繊細そうな手が私の手を引く。会場に入る前から私の世界は輝いて見えていて、たった一枚扉の向こうに行ったくらいでは変わらなかった。
会場に入った途端、多くの人の視線が集まる。彼が美しすぎるせいだと思う。いつも次期公爵という身分のためだと本人は言うけど、身分だけで人はこんなにも一心に視線を送るだろうか。
ある令嬢なんか潤んだ目で見ている。多分隣に立つ私が見えていない。
ライナス様は少し自身の人気というものを理解した方が良いと思うのだ。理解したところで、視線の量は変わらないし、私の立ち位置に変化があるわけではないのだけど。
「そわそわしているね」
ライナス様が耳元で囁くものだから、胸が跳ねた。やっぱり唐突にくるのは反則。心の準備が必要なの。
「ひ、人、いっぱいいるなぁ〜って思って……」
「そうだね。みんなエレナの可愛い姿に釘付けだ。……やっぱり来るんじゃなかったかな」
笑ってみたり不機嫌そうに眉を寄せてみたりしているけど、今あなたが感じているのはみんなライナス様に向けられた視線だよ。これだけ見られて彼は本気で「私が見られているのは家柄のせい」とか思っている節すらある。
私はこういう時、毎度誤魔化すように笑ってしまう。ライナス様の言葉に頷けるくらいの器量の良さと自信が欲しい。
せめて綺麗な金髪だったら自信がついたのかな?
「ライナス様、ごきげんよう」
様子を見ていた人達が隙を見てライナス様に話しかける。気づけば知らない顔に囲まれてしまった。紹介されたことはないと思う。親しげに声をかけているし、彼の交友関係内の人だろうか。このまま話をする前にきちんとご挨拶した方が良いよね。「あの子、挨拶もできないの?」とか思われたら大変だもの。
「初め――」
「最近顔を見ていなかったから寂しかったですわ」
声が被ってしまった。恥ずかしい……。声に負けて私は口を噤む。彼女達は一所懸命にライナス様に向けて話す。とはいえ、挨拶しないという選択肢はない。
緊張はするけど、もう一度挑戦しよう。
言葉が途絶えた瞬間を狙って口を開いた。
「はじ――」
「今度、我が家のお茶会にいらっしゃらない?」
隣の私なんて見えていないみたいだ。これは多分静かに待つのが正解かな。必要ならライナス様から紹介があるよね。
彼はというと、ちょっと面倒そうに短い返事をしていた。少し不機嫌そうだ。目がいつもよりほんの少し細い。機嫌が悪いことを隠したくて仕方ない証拠。昔からこの癖は治らない。他の人は気づかないかもしれないけど、婚約者という特権を生かして日々観察を怠らない私には分かってしまう。
こういう部分を見ると、ああ、こんな綺麗な顔の人にも人間らしいところがあるんだな。って安心する。そんなこと本人に言えないけどね。
今の私にできることはあまりなくて、「大丈夫?」という意味を込めて、彼の手を強く握ることだ。
彼は少し目を見開くと、私に向かって笑顔を見せた。あれ? 機嫌直ったのかな?
「さあ、エレナ。行こうか」
淑女の皆様に取り囲まれているというのに、涼しい顔をして私の顔を覗き込んだままだ。いつも眩しい顔が更に輝いて見える。私はというと、「この人達は良いの?」なんて彼女達の前で聞けるわけもなく、口をパクパクさせてしまった。
すると、私の代わりに真っ赤な唇をした女性がその口を大きく開ける。
「まあ! もっとお話ししたいわ」
「わたくしも。ぜひお話しいたしましょう?」
何人もの女性が一番に口を開いた人を援護する。しかし、彼はそれを気にした様子もなく私ばかりを見ていた。
「えっと……良いの?」
ちらりと周りの女性を見る。真っ赤な唇が弧を描いた。
ちょっと……怖い。「早くどこか行きなさいよ、このちんちくりん!」くらいのことは思ってそう。それくらい、目が笑っていないのだ。
「良いも何も、私の大事な婚約者の挨拶を無視するような人と会話をしていても楽しくないだろう?」
「私は平気だよ?」
黙っているだけだし。それでライナス様の面目が潰れないなら、笑顔で黙ってみせるよ!
「エレナは優しい子だからね。でも、私は心が狭いからそういうところ許せないんだ。我儘を聞いてくれる?」
「そう言われると……」
嫌とは言えない。それに、特にここに居たいわけでもないのだ。空気のように佇むのは苦手じゃないだけで、空気になりたいわけでもない。横目で女性を見れば、唇の端が僅かに震えていた。
やだなぁ。私が怒られている気分。
「ありがとう。さあ、行こうか。殿下が沢山話したいと言っていたからね。待たせると後が怖い」
王太子の名前を出した途端、輪の一部が裂けた。奥へと行けるように、人一人分の隙間が空く。
「では」
冷たくて短い挨拶と共に、ライナス様は私の肩を抱いて輪の中から抜け出した。私はというと、挨拶するべきか悩み小さく頭を下げただけ。
それに何かを返してくれた人はいないけど、そんなものよね。みんな最後までライナス様を見つめている。
「エレナは本当に……」
「なに?」
ライナス様の難しい顔。ぎゅっと眉根が寄る時は、何かに葛藤している時だけだ。王家の血筋にあって次期公爵の彼はきっとそうやって言いたいことを我慢することが多々あるのだろう。私にくらいは言いたいこと言って欲しい。
「いや、そこがエレナの良いところだからね」
ライナス様がそっと頭を撫でる。整えた髪の毛に気を使ってか、いつもより優しい手つきだ。
子供がされるみたいで不服なんだけど、今は心地いい。
「もしかして、変なことしちゃったかな?」
今の対応は駄目だったのかも。ああ、挨拶しようとしたことがそもそもいけないことだったのかもしれない。迷惑をかけてやしないか不安になる。けれど、彼は頭を横に振って否定した。
「そんなことはない。それよりも、彼女達にエレナを紹介しなくてごめん。あまり関わって欲しくなくて、敢えて紹介しなかったんだ。不安にさせたね」
「大丈夫だよ! だったら、私の自己紹介が不発に終わって良かったのかな?」
あまり関わって欲しくないということは、ライナス様もあまり関わりたくないのだろう。彼は返事の代わりに肩を竦めた。
「さあ、面倒だがあいつのところに行こう。遅いと後で文句を言われる」
「殿下はそんなにせっかちなの?」
「ああ、それはもうせかせかしているよ。生き急いでいる節もある。急がないと……ほら、あっちから来た」
彼の視線の先を辿っていけば、そこには煌びやかな衣装に身を包んだ長身の男性がまっすぐこちらに歩いて来ていた。
遠目でもよくわかる。みんなの挨拶に手を挙げて返す姿はまさに威風堂々。
思わず身を縮めてしまうのは防衛本能からだと思う。
「遅いぞライナス」
「もう少し静かに話せないんですか? エレナが怖がっているので黙ってください」
王太子殿下の第一声は強く勇ましいものだった。それをすぐにライナス様がたしなめる。いや、これをたしなめると言って良いのかな? どこか冷たくて、それにすら肩が震えそう。
でも、いつもと違う彼の顔だ……!
そう思うとちょっと興奮しちゃうかも。だって私の前ではいつも優しいお兄さんなんだもん。
「おいおい。これでも一応王太子なんだが。そんなに邪険に扱って良いような相手ではないぞ?」
「ほら、またそうやってエレナを怖がらせる。にこりと笑って肖像画のように黙っていられないのですか?」
二人がポンポンと会話を続けている間、私はだらしなくぽかんと口を開けて眺めてしまっていた。それにいち早く気づいたのは、隣に立つライナス様だ。すぐに殿下の口を止めると、視線で私を指す。
本当、王太子殿下にこんな扱いできるのはライナス様くらいだと思う。
親戚だもんね。ひいお爺様が同じなんだっけ?
彼だからこそ咎められずに済んでいると言っても過言ではないのかも。他の人がこんな風に殿下のお相手をしたら不敬罪とか言われちゃいそう。
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