第28話 代償

「わざわざそっちから来てくれたんだ。律儀だね、紗智」

 さすがに声で分かる。恵美の声だ。

「そっちからって、言うのは……?」

 言いながら、急いでメッセージを菫さんに送り、続けてルナに位置情報を添付したメッセージを送った。

 そして俺は振り向く。

「今、スマホ触って何してたの?」

 さきほど振りに見る恵美の姿は、随分と変わっていた。

「お前……!?」

 Tシャツの袖から出ている腕は、紫色の甲殻のようなもので覆われていた。足も、肌が露出している部分にはそれが見える。

 そして、両手からは一〇センチほどの爪が、お尻からは紫色の甲殻で覆われた細い尻尾が、それぞれ生えていた。

 瞳の色は、黒色から黄色に変わっている。

 どこからどう見ても、人間では無かった。

「これが、魔族としての私の姿だよ。驚いた?」

 恵美は、歪に笑った。

 その表情は、人間の時と何一つ変わらない。

「おど……ろくだろ、普通。昔馴染みがそんな風になってたら……」

 俺がそう言うと、恵美はその場で跳ねて喜んだ。

「ほんと? 私、人のこと驚かすの好きなんだ。ほら、いたずらっ子だから」

 鋭い爪を持っている魔族の姿と、幼い子供のような純粋な喜び方が、とてもミスマッチだった。ご飯の上に溶けたチョコレートをかけている気分だ。食い合わせと気持ちが悪い。

「そんな、無邪気な……。らしく、ないじゃないか」

 つい思ったことを口に出してしまった。

 しかし彼女は、俺のそれを悪口として受け取らず、褒め言葉として受け取ったらしい。ますます上機嫌になり、幼気な反応をする理由を俺に教えてくれる。

「魔族になると、体がフワフワしてね、何も考えなくていいの。自分の将来とか、幸せとか、そんなことに悩まなくていいんだよ。それがもう、楽しくって」

 なるほど、確かに。目の前で嬉しそうにしている恵美に、かつての彼女の暗い表情は見えない。

 ただ、それは。

 必要以上に考えて悩むというのも困りものだが、全く考えないというのは、それは。

「……恵美、お前がやっていることは」

「現実逃避って、言うんでしょ」

 俺の背筋が伸びる。

 こっちを見る恵美の視線が、人を攻撃する、鋭いものとなったからだ。

「ねぇ、逃げて何が悪いの? 辛いことから目を背けて何が悪いの? じゃあ、俯いている私の顔を、紗智は上げてくれるの? 肩を貸して、一緒に前を歩いてくれるの?」

 そう言いながら彼女は近づいてくる。次々と言葉を出してくる剣幕は、まるで悲劇を演じる役者のようだ。

「違うんだ、恵美。辛いことから逃げてもいい。だけど、お前は――」

「うるさい!! 私を裏切った男が講釈垂れるな!」

 俺の言葉を遮り、大声を出す。どうやら俺の言葉は、彼女にはもう届かないらしい。

 息を吸うこともせずに、彼女は次の言葉を出す。

「ここに来た時点でお前が死ぬのは決まってるんだ、紗智。マブズ、早く出て来てよ!」

 腰を後ろから、トンと小突くような感覚がした。

 それが、俺が背にしている机の引き出しが開き、ぶつかった感覚だということは、すぐに分かった。

「俺のこと、呼んだか……?」

 部屋の中に、低く重い声が響く。

 後ろを向く。すると、開いた机の引き出しの中から、真っ黒の影がどんどん出て来ていた。

「呼んだよマブズ。代償が、ここにいるんだ」

 その影は、引き出しから机の上を這い、そこから壁に移動し、そして壁を登り切ると天井にまた移動した。

 そして、恵美の上まで影が移動すると、その影は巨大な雫となって、天井から恵美の真横に垂れた。

「そうか。この男が代償か」

 垂れた先の床に、丸い影となってデーモンはいた。まるで落とし穴のようだ。穴の中から、赤い目が二つ、こちらを見ている。それ以外は暗くて、何も確認できない。

「そう。これが紗智。私が、最も憎んでいる人間だ」

 怖い。俺は、足が竦んでいた。

 サキュバスは、まだ人型だったし、見た目が可愛かったし、自分に好意を持っていたから、魔族と言う異形な存在でも受け入れることが出来た。

 しかし、目の前のデーモンという魔族は、低い声をしていて、良く分からない形で、それでもって自分のことを殺そうとしている。

 同じ魔族でも、俺からすれば全く違う存在だった。

 マブズという名前らしいデーモンは、恵美に話しかける。

「良かったな。これでお前も、デーモンになれるぞ」

 ということは、恵美もこんな影の化け物になるのだろうか?

 そんな、今はどうでもいいことを考えていると、その穴の中から真っ黒な腕だけが出てきた。

 手の平に俺が丸々スッポリと入ってしまうくらい、とても大きな腕だ。

「じゃあね、紗智」

 その手が、俺に近づいてくる。

 逃げないと。ここは逃げないと。

 頭の中にルナの笑顔が浮かんだ。

 ここは絶対に、コイツから逃げないといけない。

「っ!!」

 俺は、竦んでいる足を殴り、感覚が戻ったことを確認した後、窓の方へ駆けだした。

「逃げれると思ってんの? 殊勝な悪あがきだね」

 後ろから聞こえる恵美の言葉を無視し、先ほど自分が閉めてしまった窓を思いっきり殴る。

 ゴン、と鈍い音がした。

「いって……!」

 強化ガラスらしい。堅固な家だ。骨にひびくらい入ったかもしれない。

 影がどこまで迫っているか確かめる時間などありはしない。俺はその殴った腕をそのまま鍵のとこまで持っていき、震えるのを抑え、なんとか開錠した。

 そして逆の手で、窓を開け……。

「逃がすと思うか?」

 その声がした瞬間、俺の体は全く動かなくなった。

「かっ……」

 声を出そうとするが、喉から絞った息しか出ない。

「上位の魔族は魔法を使うことが出来る。お前の体くらい、どうとでもなるぞ」

 デーモンはそう言った。

 あの大きな手が、近づいてくるのが分かる。首は動かせないが、背後に気配がした。

 ここからどうすればいいのか。俺には、何もアイディアが浮かばない。

 ただ、あの手が自分を包み込むのを、待つしか。

 目を閉じることも許されない。

 自分の前に太い指が見えた。ということは、俺の体は既にデーモンの手の平に囲まれているということだ。

「終わりだな」

 そんな声とともに、デーモンは俺の体を握った。

 体を、強張らせる、こともできない。

 俺は成すがままに、体が捕まえられるのを待った。

「……あれ?」

 その疑問は、恵美の声だった。

 デーモンの指は、俺の体に近づき、そして俺の体をすり抜けたのだ。

 触られた感触も、何もしない。ただ霧のように、デーモンの指は通り過ぎて行った。

「な、なんだ? どうして握れない?」

 先ほどの低い声は、焦ったのか、俺のことを何度も握ろうとしては失敗していた。

 何が起こっているのか、俺にも分からない。この場にいる三人が全員、疑問を浮かべたことになる。

 どう、すればいいのだろうか……?

「マブズ……? なんで握れないの?」

「お、俺にも分からん……。いや、待て、この状況は……」

 デーモンは何か分かったようだ。もったいぶらないで早く教えて欲しい。俺は今、身動きが取れない。

 少し考えたのか、間が空き、そしてデーモンは低い声で答えた。

「恵美、お前……。本当にこの男が、最も憎んでいる人間か?」

「え……?」

 恵美が困惑した声を出したのと、ガラスが割れた音がしたのは同時だった。

「紗智さん!」

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