第26話 動き出した明けの明星

「紗智さん!」

 背中に、土の柔らかい感触がする。

 涼しい風が頬を撫でた。風に葉っぱが擦れる音がした。それが、とても心地が良い。

「紗智さん! 起きてください!」

「ん……、ん?」

 目を開けると、そこには赤い瞳をした女性がいた。長い金髪が似合っていて、とても綺麗だと思った。周りに生えているのか、それとも香水なのか分からないが、キンモクセイの、良い香りがした。

「お、起きたんですね!? よかったぁ……。私のこと、分かりますか?」

「ル……、ルナ?」

 仰向けに倒れている俺のことを覗き込んでいるのは、ルナだった。

 太陽は傾き、木々の葉っぱの間から夕陽が差し込む。

 口の中は、血の味がした。

「そうです、私ですよ! ほんっとに心配したんですから……。あそこで死んでたら、一生許さなかったです!」

 その赤い目が、少しだけ涙ぐんでいる。

 起きたばかりでルナがなんのことを言っているのかよく分からない。ただ、彼女を悲しませるのはダメだと思って、力が上手く入らない片手で頭を撫でた。

「ごめんね、心配かけたみたいで……」

 彼女は、頭に手を置いた時に少しだけ驚いていたが、次第に心を預けるように目を閉じた。

「もー。ほんと、こういう時だけズルいですよ。……でも、今回は生きていたことに免じて許してあげます。だから、もう少しだけこのまま、頭を撫でててください」

 可愛い彼女だと思った。

 やっぱり俺は、この人と一緒に幸せになりたい。

 ただ、そうなるためには、解決しておかないといけない問題が……。

 ――そうだ。恵美だ。

 俺は恵美に心中を誘われ、断り、そして二人で一緒に崖から落ちた。

 恵美は? そう思って周りを見渡すが、近くに人影は見えない。

 もしもあのまま死なれていたら、俺はどんな気持ちでこの先、生きていけばいいんだろう。

 ルナに恵美の所在を聞こうと思ったが、今の状態でそれは余りにも野暮なので、聞きたい気持ちをグッと抑えた。

「恵美さんのこと、考えてます?」

 ただ、どうやら俺の考えていることなんてバレバレのようで、ルナは片目を開けて、俺にそう言った。

「えっと……」

「本当に分かりやすいですよね紗智さん。いいですよ。幸せな時間はここで終わりです。また日を改めて、堪能させていただくとして……。

 ここからは、真剣な話をしましょう。人間界と魔界の国交問題になりかねない、重大な話を」

「じゅ、重大な話……?」

 張り詰めた弦のような、緊張感が辺りに漂った。

 いつにもましてルナの顔は真剣だ。受験に挑む学生のように。

「恵美さんは、ここにはいません。死んでもいません。魔族の力を利用して、どこかに逃げていきました」

 そして、端的に、恵美のことを教えてくれたのだった。

「ま、魔族の力……?」

 恵美と魔族の力が頭の中で繋がらなくて困惑している俺に、ルナはまたしても分かりやすく伝えた。

「今の恵美さんは、魔族です。完全な、とはいきませんが、本日中には完全に融合してしまうと思います」

 恵美が魔族になったから、恵美は魔族の力を使える、という単純明快な解を、俺に渡してくれた。

 しかし俺は、その事態をすぐに飲み込むことは出来なかった。

「……ど、どういうこと? 恵美が、魔族と融合……? だって恵美は、人間界で産まれた正真正銘の人間だよ?」

 恵美は決して、赤の他人ではない。かつて、ではあるが、実際に俺と深い関わりを持っていた人間だ。

 そんな人間が、魔族と融合し魔族になる?

 そんな事態は、魔族が彼女として自分の隣にいる今でも、飲み込みにくいものだった。

「はい。人間界で産まれた人間が、後天的に魔族となる方法はいくらでもあります。魔族と結ばれた人間が魔界で暮らすために自らも魔族になる、というのは決して珍しくありません。……しかしそれは、魔界で、での話です」

 彼女は一呼吸置いた。

 その先の言葉が、言いにくい内容だということは、空気から容易に分かった。

「人間界で、人間から魔族になるのは魔界の規則違反です。重罪です。なので、魔界が認知し次第、元人間の魔族は殺されることになっています」

 ころ……される?

「それって、恵美が……?」

「はい。今回の場合だと恵美さんが、罰の対象になります」

 唾を飲む。

 恵美が殺されるかもしれないという事象が、現実味を帯びてきた。

「……恵美は、まだ完全な魔族じゃないんだよね」

「そうです。だから、今はまだ、規則違反とはなりません」

 一回でも魔族になれば、魔界からの制裁対象となる。

「恵美が、完全に魔族になる猶予は……?」

「さっきも言った通り、今日中です」

 空はもう、オレンジ色だ。

 明日になれば恵美は、命を追われる身となる。

「恵美を、人間に戻す、方法は……?」

 途切れ途切れになってしまう。答えを聞いてしまうのが、どうも怖い。

 これで無いと言われてしまえば、俺に恵美を救う手立てはもうない。

 恐らく、恵美が幸せになれることも、もうない。

「あるかどうかは、分からないです。ただ、無い、とも言いきれません。恵美さんがどんな方法を使って魔族になったかによるので」

 その答えを聞いて俺は、少しだけ緊張がほどけた。

 良かった。まだ、万策尽きたわけじゃないらしい。

「……分かった」

 何をやればいいのかは、正直分からない。魔族を人間に戻すために、どんなものが必要なのかも分からない。

 ただ、ここで恵美を見殺しにすれば、自分が後悔することは、分かる。

「紗智さん、私は……」

 立ち上がろう上半身を起こすと、珍しくルナの歯切れの悪い声が聞こえた。

 彼女を見る。すると、眉をひそめ、少し困ったような顔をしていた。

「私は、ここでじっとしてて欲しいです。それか、今から魔界に行って恵美さんのことを伝えれば、明日中には魔界から精鋭が来て、恵美さんを捕まえてくれると思います」

 ……確かにそうすれば、安全に事が運ぶ。

 違反した者だけが処罰を受けて、俺は誰からも危害を受けることなく、素敵な彼女がいる平穏を手に入れられる。

「ねぇ、紗智さん。今回の事件は、ほぼ間違いなく魔族が関わっていると思うんです。それも、恐らく渡航資格を持たない、規約違反の魔族です。極悪です。それと関わって、紗智さんにもしもがあれば……」

 ルナは、俺の身を案じて、そう提案してくれていた。

 自分でも、そう思う。ここは動かずに安静にして、自身の保全を優先するべきだと。

 俺には、俺と親しくしてくれる存在が居る。

 父や母、紗奈、叶、シャンテさん。そして、ルナ。

 家族や友達、恋人がいて、きっと皆、俺が危ない橋を渡ると知ったら心配してくれるはずだ。そしてその心配は、その人への負担になる。

 そんな橋は、渡るべきじゃないんだ。平和が一番だし、幸せが一番だし。

 この夏休みを終えて、学校で勉強に頭を悩ませながら、休み時間に友達と馬鹿話している日常が一番だって。

 そこに彼女がいればもう言うことは無いって、ずっと思ってたはずなんだ。

「ルナ。これは、俺のわがままだと思う。それは、分かってる。恵美と関わる事は、ルナに助けられっぱなしだ。でも、だからこそ。

 恵美とルナが女の闘いをするっていうなら、俺は今、男の闘いをしてるんだ。ここで恵美を見捨てたくは、ないんだ」

 ここで恵美を見捨てれば、ルナの彼氏だと胸を張って言える自信がない。

 その本音は、自分の中に仕舞っておくことにした。

 だって、そんなことを言われても困るだけだと思うから。

 俺の自分勝手な言葉を聞いて、ルナはしばらく俯いていた。

 長い時間、顔を下に向けて考え、そしてその顔を上げたときには、彼女の中で答えは決まったようだ。

「私からしたら、彼氏が元カノを救いたいって言ってるんですからね。紗智さんの心配、恵美さんへの嫉妬、そういうのも全部あるんですからね」

 目を細め、溜息を吐いたあと、彼女は続ける。

「ほんと、難儀で律儀な人を好きになっちゃいました。私は知りませんからね! 好きにしてください、ほんと」

 彼女として許してくれるらしい。

 本当に、頭が上がらない。まだ付き合って一週間ほどだが、これが終わったら俺はもう尻に敷かれ始めるだろう。

「本当に、ありがとう。お前と付き合えて、俺は幸せ者だ」

「はいはい。調子の良いこと言わないで下さい。あと、危ないと思ったら位置情報貼り付けてメッセージくださいね」

 なんだかんだ、優しいと思った。

「分かった」

 自分の出来る事がどれくらいのことか分からないが、精いっぱいのことはしようと思う。今から陽が沈んで、日付が変わるまでの何時間かしか残されてないんだ。

 それだけの時間なら、死ぬ気で頑張れるだろう。人の命が、掛かってるんだ。

「……紗智さん。まずは、恵美さんの家に向かうのが良いと思います。人間が魔族になるための最もポピュラーな方法は、対価を支払い、魔族と契約を行うことです。もしかしたら、家の中に契約の痕跡があるかもしれません」

 本当に、ルナには頭が下がらない。

「……ありがとう。絶対に、無事でいるから」

「それを期待して、信じて、待ってます」

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