第24話 君の存在が心の中から消えない

 山道に入る前に自転車を止めて、あまり舗装されていないその道を登る。

 ここに来るのは、ルナに告白して以来だった。昼に来るのは、いつぶりだろう。

「はぁっ、はぁっ」

 ベンチがある開けた場所までは、木々が鬱蒼としていて暗い。少し大きな石があればつまづいてしまいそうだ。

 上を見ると、開けている場所からこっちに光が入ってきていて眩しい。完全な逆光だ。しかし、その光の中に人影が入っていくのが見えた。ルナだろうか。

 そこまであと少し。余り運動していない体を無理やり動かして、急いで駆け上がる。

 そして、視界が開けた。

「ルナっ!」

 暗い場所から明るい場所に一気に変わったため、視界が一瞬ホワイトアウトする。

「来てくれたんだ」

 視界が真っ白の中、目の前から声が聞こえた。

 しかしそれは、ルナの声ではなかった。

「紗智」

 段々と視力が戻ってくる。見えるようになってくる。

 そこに居たのは、恵美だった。恵美一人だけが、そこに立っていた。

「え、恵美……。ルナはどこだ!」

 先ほどのテレパシーを考えると、恵美がルナに何かをしたのだろうか。

 そう考えて恵美に所在を求めると、彼女はいつもの蛇のような笑い方で、俺の意見を一蹴する。

「ルナちゃんはいないよ、ここには」

「どこにやったんだよ!」

 恵美の言い方が紛らわしくて、自分の中の焦る気持ちも抑えられず、つい大きな声を出してしまう。

 しかし怒鳴られても、彼女は飄々としていた。

「知らない。家でくつろいでるんじゃない?」

「は、はぁ……?」

 恵美の言い方に違和感を覚える。

 だって、ルナのテレパシーに言われた場所に行ったら、恵美がいたんだ。恵美がルナをどこかにやったんだろ?

 なんで、知らないんだよ。

 ……ん? というか、家でくつろいでる……?

「なんでテレパシー、ルナちゃんのだと思ったの?」

「え……?」

 テレパシーが、ルナのではない……? 確かにあれは、文字だけが脳に浮かんでくるから、誰が送って来たのかは分からないけど……。でも、魔法が使える奴なんて……。

 と、というか。

「なんでお前がテレパシーのこと知ってるんだ?」

 俺の質問がよほど面白かったのか、恵美は腹を抱えて笑った。

「アハハハハ! なぁんで知ってるんだろうねー?」

 目を細めて、笑顔でこちらを見ている。よく見る恵美の顔だ。

 その表情に、水族館で会ったときのような悲壮感は漂っていない。何かを吹っ切ったような表情だ。

 それに俺は、少しの恐怖を感じた。

「ど、どういうことだ恵美! 説明しろ!」

 すると恵美は、先ほどまで笑っていた顔から表情を消し。

「どうでもいいじゃん、そんなの」

 そう俺に言った。

 そして立て続けに話す。

「それよりも紗智。今、私の後ろにはこの街を一望できる崖があるわけだけどぉ」

 嫌な予感がした。自分の額に、冷たい汗が流れる。

「ここから飛び降りたら、人間はどうなるでしょう?」

 彼女は、一歩後ろに下がった。

「……お、おい」

「ねぇ紗智」

 その声は、透き通っていた。

 まるで何も知らない、無垢な少女のような声で、裸足で花畑を駆ける、童話に出てくるような少女の声で。

 俺は少しの間だけ、彼女と付き合った日のことを思い出した。

 そうだ。俺はその日、お気に入りのこの場所で、彼女と。

 彼女のことを幸せにするって――。

「紗智はどうしてここに私がいるのか知らないけど、私はここに紗智が来ること、知ってたよ」

 後ずさりしながらそんなことを呟く彼女の顔は、とても純粋に笑っている。目尻は優しく垂れて、頬は自然に上がっている。

 付き合い立ての頃は、彼女はそうやって笑っていたことを思い出した。

「ねぇ、紗智。助けて?」

「や、やめろって。恵美」

 俺がそんな言葉を投げかけても、彼女は一切、止まる様子を見せない。

「もう、疲れたの。足、止まらないの。だから……。

 ――私のこと、助けて?」

 俺の足は前に動き出した。

 今から走れば、まだ間に合う。きっと、俺が手を伸ばして、彼女が手を伸ばせば。

「恵美!」

 彼女の足が、半歩、崖からはみ出る。そして、もう片方の足がその後ろに下がり、完全に空中に飛び出した。

 彼女の体がゆっくりと空に飛び出し、落ちようとするその瞬間。

 俺の手は彼女の手をなんとか掴んだ。

「だ、大丈夫」

 すると彼女は。

 その掴んだ手を、彼女自身の方向に引いた。

「ばーか」

 そう言った恵美の顔は、酷く歪んで笑っていた。

 彼女の手に引かれ、俺の体は彼女の体が今ある空中へと飛び出す。

「え……?」

 俺の視線から見えるのは、恵美と、恵美の肩越しに見える、遥か下にある林だけ。

「一緒に、死のっか」

 その言葉が聞こえると同時に、凄まじい風切り音が俺の耳をつんざいた。

 下からの強風が俺の体を叩く。地面が、地面が着実に近づいてくる。

 落ちている。俺と恵美は、間違いなく落ちている。そして、あの地面と衝突した瞬間、死ぬ。

 恵美は、笑顔だ。

 なんで、どうして笑顔なんだ。

(紗智を奪う方法なんて、いくらでもあるから)

 水族館での彼女の発言が反芻はんすうされた。

 そういうことか。

 俺をルナから奪うって、そういうことか。ここで一緒に死んで、ルナから俺という存在を奪うということか。

「ね……、ない」

「?」

 俺は精一杯の空気を肺から絞り出して。口を開いた瞬間、肺に空気が入りむせるのを我慢してでも、空気を肺から出して、恵美に聞こえるように叫んだ。

「死ねない! 俺は、ルナを置いては……!」

 地面が刻一刻と迫る。もう、きっと半分以上は落ちている。

 あと数秒で俺と恵美は死ぬだろう。

「……ふぅん。そっか、つまんないの」

 恵美がなんと言ったかは、正確には聞こえなかった。

 風の音、そして感触、あと、地面が近づいてくる恐怖で、俺はもう気を失いそうになっていたからだ。

「紗智さん!!」

 ただ、意識が途切れる瞬間、恵美の目に景色が反射しているのが見えた。

 必死な顔をしている俺と、俺に伸びている手、そしてコウモリのような黒い翼が見えた気がした。

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