第18話 月下美人

 かつて二人で上った山道を、一人で上る。

「はぁっ……、はぁっ……」

 急がなくてもいいかもしれない。そうは思いつつも、逸る気持ちを抑えられない。一応は道になっているが、舗装されているというわけでもない砂道なので、足を取られたりしながら、なんとかして山頂に辿り着いた。

 不思議と、ここに来ることを迷うことはなかった。

「はぁっ……!」

 そこには、シャンテさんが言っていた通り彼女がいた。

 長い金髪が、満月の光を反射している。こちらには背中が向いているので何をしているのかは分からないが、恐らく月を見ているのだろう。

 彼女にゆっくりと近づき、俺は声をかけた。

「ルナ」

「ひぃっ!」

 彼女はこちらを振り向き、とても驚いた様子で俺を見ていた。そりゃそうか。

「さ、紗智さん!? どうしてここに……」

 ルナの顔は一日ぶりだ。しかしその顔が、とても懐かしいように思えた。

 その顔をもう一度見れてよかった。

 俺はずっと、彼女にしたかったことをすることにした。

「ルナ、ごめん! 俺が憶病だったせいで、傷つけちゃって……」

 頭を下げる。

 もしもこのまま会えなくなったらと、思った。会えなければ、謝ることもできない。

 そんなことを考えている俺はやはり、臆病なのだろうと、自分の中で一度深く飲み込むことが出来た。

「あっ、えっ? そ、それはこちらのセリフで……。というか、いきなり会って謝罪ってなんですか! ちょっと急すぎますよっ!」

 彼女に肩を持たれて、顔を上げられる。

「あ、謝られたら、こっちだって謝りたいことはありますし……。そもそも、まだ紗智さんと会う心の準備が出来てません……! 昨日、喧嘩したばかりなのに、どんな顔して会えばいいんですかっ」

 プイッと横を向いた。

 頬は少しだけ朱色に染まっていた。

「いや、それは、ごめん。あの、会いたくなって……」

「なっ……」

 彼女の顔が更に赤くなる。その変化に気付いて、自分の失言に気付いた。

「あ。い、いや違うんだ! そういうわけじゃなくて!」

「どういうわけでそんな言葉言うんですか? ほんと、いざ会わなかったら会いたくなって、なんて……。紗智さんは、ズルイです」

 やばい、怒らせてしまったかもしれない。

 そう思ったが、ルナの顔は特に怒った様子ではなかった。

「ずっと悩んでいた私が、馬鹿みたいじゃないですか」

 むしろ、笑っていた。柔らかく微笑んでいる。

 辺りは完全に暗くなり、家々には明かりが灯っていた。この高台からは、それらが夜景としてくっきりと浮かび上がっている。

「……悩ませて、ごめん」

「いいんですよ。これ以上、謝らないでください。私も少し、感傷的になってしまってたんです。昨日は恐らく」

 夏の夜の風は湿っていて、どうしてか懐かしい子供の頃を思い出させる。

 俺とルナはしばらくそうやって、夜風に当たりながら夜景を見ていた。

「魔界には、さ」

「はい?」

「夜景って、あるの」

 俺はルナの方を見ずに、夜景を見ながらそう言った。

 純粋に、気になった。ルナは、果たして夜景を見たことがあるのだろうかと。

 俺は夜景が好きだ。見ていると、ワクワクしてくる。

 そんな自分が好きな夜景を、果たして彼女は好きなのだろうかということが、気になった。

「夜景、ですか? んー、近しいものはあります、よ。でもあっちの世界は全体的に暗い雰囲気なので、ここまで煌びやかなものはないですね」

 彼女は静かに答えた。周りから聞こえてくる虫の声を邪魔しないように小さな声にしたのかもしれない。

「そうなんだ。……夜景は好き?」

「好きですよ。綺麗なもの、好きだから。……でも」

「でも?」

 何を言うのか気になって、彼女の顔を見た。

 彼女は顔を夜景から月に向けた。

「私は月を見ている方が好きです。下を見るより、上を見ていたいじゃないですか」

 月光を浴びている彼女は、今まで俺が見たルナの中で一番、綺麗だった。

 まるで童話に出てくる異国のお姫様のようだ。

 俺はその姿に、しばらく見惚れてしまっていた。

「……見惚れてます?」

「あっ、ごめん」

 ずっと見ていたのを咎められたのかと思って焦る。

 しかし、そうではないらしかった。

 彼女は月を見上げたまま、視線だけをこちらによこした。

「――ずっと見てて」

 彼女は俺が視線を外すことを、咎めた。

 いつもとは口調が違う。

 その不思議な魅力に、俺は心を囚われてしまった。

「な……に?」

 視線が外せない。

 戸惑う俺を見て、彼女は優しく微笑んだ。

 ただ、その彼女の笑い方は、獲物を見つけた狩人に似ていた。

「私のことを見てて欲しいの」

 ルナがそう言った瞬間、彼女の姿が変わる。

 口端から覗く八重歯は長く伸びて牙となり、頭からは短い双角が出現する。

 背中からは翼が徐々に生え始め、長く伸びた金髪は自らキラキラと黄金色に輝き始めた。

 そして、彼女の瞳は赤味を増し、ついには血を思わせる紅蓮となった。

「こっちでは好きな人には、月が綺麗ですねという言葉を贈ると習いました。でも、私は嫌なんです、その言葉。だって、好きな人には月じゃなくて、私を見ていて欲しいから」

 月光が照らす彼女はまさに妖艶だった。妖しく、艶めかしく俺を魅了している。

 彼女の言葉は、俺の芯に透き通るように入ってきた。俺の全神経は今、彼女の言葉を聞くために使われていた。

 月光の中で彼女が輝いているのではなく、月光がまるでスポットライトのように彼女の姿を追っている。そんな気さえした。

「欲張りなんです、私。紗智さんを、自分のものにしたい」

 シャンテさんが言っていたように、これだけルナは俺のことを想ってくれている。自分にここまで情熱的になってくれている。

 それは自分にとって、確かに初めてのことで。

「ルナ。俺も、言いたいことがあるんだ」

 そんな彼女を見て、俺も変わろうと思えた。一歩を踏み出そうと思った。

「なんですか?」

「俺がルナを幸せにできるかどうかなんて関係ない。

――ルナ、俺と一緒に幸せになってほしい」

 自分だけが幸せを作るんじゃない。

 ルナと一緒なら、幸せを二人で作れると思った。

「つまり、そういうことでいいんですか?」

 それを自覚したときに、俺は人生で初めて。

 人を好きだと心から思えた。

「うん。

ルナ、俺と付き合ってほしい」

 それを聞いた彼女はとても嬉しそうで。

「――はいっ!」

 満面の笑みで答えてくれた。

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