第8話 蛙を睨む蛇
自分の家に帰ると、母親が俺を迎えてくれた。
「恵美ちゃん来てるわよ」
それだけ伝えて、台所に戻って行った。
俺の部屋は2階にある。急いで階段を登り、深呼吸をし鼓動を整えてから、俺は自分の部屋の扉を開けた。
そこには、本当に、別れた彼女である先鉾恵美がいた。
ショートの黒髪に、鋭い目。体格は平均より小さく、Tシャツとジーパンというラフな格好で、ちゃぶ台の前に座っている。
4年前に別れたとき以来だったが、少し大人っぽくなった以外は、全く変わっていなかった。
「久しぶり。どうしたの、そんな顔して」
恵美は、ちゃぶ台の上にある飲み物に口をつけた。恐らく、母親が客人のために用意したのだろう。
自分がそこにいるのは当たり前という雰囲気だ。まさに、威風堂々としていた。
「……なんでいるの」
当然、俺の中にある疑問をぶつける。
しかし、その言葉を聞いても彼女は飄々としていた。
「私、元恋人じゃん。別に他人じゃないんだから、元カレの家に入っても良くない? まぁ、話したいことがあったんだけど」
本当に、変化していない。記憶の中にある、恵美のままだった。
話したいことがあるからここに来たというのなら、話を聞かなければ彼女は帰らないのだろう。俺は、彼女が一体何を話しに来たのか、聞くことにした。
ちゃぶ台を挟んで、彼女の対面に座る。
その構図は奇しくも、昨晩、ルナと喋った時と同じものだった。
「……話って?」
俺が促すと、彼女はその鋭い目でこちらを睨んだ。
「その前に、ちょっといい?」
「え?」
それは、彼女が俺を責める時によくする表情だった。
「紗智、彼女出来た?」
背筋が凍った。
まるで、自分の首に刀を置かれているような感覚だった。
別に、彼女が出来たわけではない。ただ、自分の振る舞いから、そのような女性がいることが見抜かれたのかと思うと、もう恵美の前で何かを話す気力など湧いてこない。
「い、いや別に……。どうして?」
出来る限り動揺を見抜かれないように俺は答えたつもりだ。しかし、人に見抜かれやすい性格らしいため、もしかしたら全て見抜かれているかもしれない。
「私の知らない、匂いがするから」
恵美は目を細めて、こちらを見ながら笑った。
今なら蛇に睨まれた蛙と一緒に盃を交わせそうだ。未成年だからお酒は飲めないけど。
内心、かなり焦っている俺を傍目に、恵美は「まぁいいや」と言って話題を変えた。これ以上話すとボロが出そうだったため、そこで彼女が引いてくれてとても安心した。
もう全て見透かされているのかもしれないけど。
しかし、一旦、落ち着きを取り戻した俺の心臓は、再び鼓動を速めることとなる。
恵美は、ちゃぶ台の上に置いてある、飲み物が入ったグラスを見つめながら、口をニヤリと歪ませた。
「私と寄りを戻さない?」
元カノからの連絡、と聞いて、正直その可能性は考えなかったわけではなかった。
でも、まさか。恵美がそれを俺に言ってくるかもしれないという可能性を、考えたくなかった。
「私達、1度
ずっと、自分の中に、喉に刺さった魚の小骨のように残っていた記憶が呼び覚まされる。
(幸せにしてくれるって言ったじゃん)
あの時の光景は、人生の汚点だった。変えたい転機点だった。間違いなく、人生をやり直せるなら、俺はあの時に戻ってその体験をやり直すだろう。やり直したいと、何度も思った瞬間だった。
自分は人を幸せにできないと、胸の中に刻み込まれた瞬間だった。
今、付き合えば、変わるかもしれない。
もしかしたら、あの時をやり直せるのかもしれない。
目の前の人間を、俺は幸せにできるのかもしれない。不幸にしたという事実をかき消すことが出来るのかもしれない。
「それは……」
――いいかもしれない。そう言いかけて、ルナの顔が浮かんだ。
何を考えてるんだ俺は。幸せにできないという理由でルナを振っているのに、恵美は幸せにできるとでも思っているのか?
ここで恵美と付き合うという選択は、努力を放棄するということだ。俺は、人を幸せにできる人間になるために、勉強をしているんだ。今の俺は、恵美と拗れた時の自分と大して変わっていない。付き合ったって、またお互いを傷つける。
何より、ここで俺が付き合えばルナを傷つけることになるだろう。
「ごめん。俺は……」
断る言葉を出そうとすると、それよりも先に恵美が喋った。
「気になっている人いるでしょ」
それと同時に、恵美は身を乗り出し俺の頭を手で掴んだ。そのまま、彼女の顔を俺の顔に近づけてくる。
あまりにも突飛な行動だったので、情けないことに体が固まった。明確な命の危機だと脳が警鐘を鳴らしている。心臓が痛いくらいに鼓動を打った。
「え、恵美……?」
細く震えている声が口から出た。俺の怯えた姿を見て、彼女は意地悪そうに鋭い目を細めた。
「でもきっと、その人と付き合ってもまた不幸になるよ。そして不幸にする。あんたって、そういう人なんだから」
彼女はそれを言って満足したのか、俺の頭を掴んでいる手を放し、そして立ち上がって背を向けた。
「今は答える気ないみたいだから、また来るね。ちゃんと、考えておいてね」
こちらを向くことなくそう放って、部屋から出て行った。
残された俺は、しばらく呆然としていた。まさに、放心状態だった。
頭の中で彼女に言われた言葉が何度も巡る。情報量が多すぎて、よく考えられない。
ただ、1つだけ、自分の中で明確に分かっていることがあった。
――その人と付き合ってもまた不幸になるよ。そして不幸にする。
「……そんなこと、言われなくたって」
いきなり自分の前に現れた彼女が何を企んでいるのかは分からない。
ここ2日で増えた自分を取り巻く問題の量に、俺は頭を抱えた。
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