第2話 ところで君は誰なんだ?

「…………………………」

 俺は考えに考えることにした。先ほどの彼女の文章の1つ1つを。

 お久しぶり? そもそも記憶がない。

 サキュバス? フィクションの話だろうか。

 結婚してください?

「……結婚してください!?」

「はい、紗智さんに結婚を申し込みに来ました!」

 彼女は眩しいばかりの笑顔でこちらを向いた。

 い、いやいやいや。なんでそんなに笑っているんだ君は。

 結婚という言葉のインパクトが強すぎて、以前会ったかどうか、サキュバスがなんなのか、なんてことはどこかに飛んでしまっていた。

 どうして俺は見ず知らずの女性に結婚を申し込まれてしまっているのだろうか。というか、見ず知らずの男と結婚して君は幸せになるのか!? というか、告白ってもっとロマンチックにするものだろ寝込みの男を襲うな! というか、まず付き合ってから婚約だろ!!

 そんなことを心の中で思っている俺なんてお構いなしに、彼女は再び俺の胸に手を置き、あろうことか顔を近づけてきた。

「結婚……、してくれますか?」

 可憐な顔が近づく。あ、可愛い。一度そう思うと、近くなった彼女の色々な部分を見てしまう。赤い唇、きめ細やかな肌、大きな目、綺麗な発色の、長い金髪……。

 視線をどんどんとずらしていくと、眼鏡を掛けていないのでぼやけているが、机の上に置かれた参考書が見えた。数学Ⅱ、英語文法、化学、物理……。

 自分は学生だった。そんなことを思い出し、俺は急に現実に返った。

「と、とりあえずどいてくれないかな!」

 危ない。色仕掛けに落ちるとこだった。

 まさかここで結婚を受け入れるなんてできない。というか、基本的にいきなり結婚を迫られても出来ない。順序を大切にして欲しい。婚約とは、相手の寝込みを襲うものではない……と思う。

「え……? 結婚、してくれないんですか……?」

 彼女は俺の上から降りるのを渋り、困った顔で悲しそうな声を出した。子犬の様な女性だ。

 そっちが大きな提案しておいて、こっちの小さな提案には乗ってくれないのか。寝起きだということもあり、俺はつい大きな声を出してしまう。

「結婚なんてできるわけないよ!」

 言った後に、背筋が冷たくなる感覚がした。

 しまった。こんな怒鳴るような言い方しなくてもいいかもしれない。俺は、咄嗟に付け足した。

「こ、こんな状態なら屈服しか出来ない!」

 我ながら意味不明なフォローだ。そもそも、フォローになっているのだろうか。

「く、屈服ですか!? 別にしてほしくないです! どきます!」

 しかも彼女は、自分の先ほどの怒鳴り声を別段気にしていないようだった。屈服は別にして欲しくないという一心で、俺の上から降りることにしたようだ。

「よいしょ……っと。おかしいなぁ、夜這いをしろって教科書には書いてあったのに……」

 自分の上から女性が降りるのを見ている時間は、とても虚しい。

 彼女は俺から降りて、ベッドの横に立った。やっと重りが無くなったので、俺も起き上がって、眼鏡を取って掛ける。

「あ、眼鏡掛けるようになったんですか?」

 青色のカーテンの前に立っている彼女は、首を傾げた。

「私生活送る分には問題ないけど、勉強する時とかには付けるんだよ」

「へー! そうなんですね!」

 やはり俺は、彼女と以前に会っているのだろうか。彼女の口ぶりからするにそうなのだろうが、如何せん自分に覚えがない。

 彼女の前を通って、部屋の隅に積まれている座布団を1枚取る。

 敷いているカーペットの上に置かれているちゃぶ台の側、そこに座布団を置く。

「ここに座って」

「分かりました!」

 とても返事は元気だ。ちょこちょこと足を動かして移動し、そこに座った。

 座布団をもう一枚取って、彼女と対面する場所に投げた。着地する瞬間、彼女の髪が少しだけ揺れる。なんとなく申し訳ないことをしたなと思いながら、俺も座った。

「……で、なんだけど」

 本題はここからだ。

 俺は彼女から、一つずつ解説を求めなければならない。

「君は俺と結婚したいって言ってるけど……」

「ルナです!」

 俺の言葉を遮って、彼女は元気よく発言した。

「え?」

「私の名前、ルナ=クリムゾンって言います!」

 どうやら君と呼んだことが引っ掛かっていたらしかった。

「あ、そ、そうなんだ……。じゃあル、ルナ」

「はい!」

 質問の出鼻を挫かれたので少し引っ掛かりながら、俺は目の前のルナという女性に開設を求めていくことにした。

「俺と結婚したいって言ってるけど、それはどうして?」

 とても残念ではあるが、自分に求婚してくれている彼女のことを、俺は覚えていない。会ったことがあるかも分からない。

 どうして結婚したいのか。これは、真っ先に聞いておかないといけない謎だ。

 しかしこの質問はどうやら、ルナのスイッチを入れてしまったらしい。彼女は俺の言葉を聞くや否や、ちゃぶ台の上に手を勢いよく乗せて身を乗り出し、3D映画のような迫力で声を出した。

「それは、紗智さんが私の運命の人だからです!!」

「う、運命の人……?」

 とてもロマンチックな言葉だと思う。

(紗智は、私の運命の人だもんね)

 少し思い出したくないことを、思い出した。

「私達サキュバスは、生涯運命の人を愛し続ける種族なんです! 私にとっての運命の人が。紗智さん、貴方なんです!」

 なおも矢継ぎ早に彼女は喋った。

「そ、そうだサキュバス! そのサキュバスってのはなんなのさ!」

 自分が運命の人だという話題を逸らしたくて、出てきたサキュバスというワードに食いつく。説明してもらいたい言葉の一つだ。

 俺がそれについて言及すると、勢いづいていたルナは目を何回かしばたたかせ「そう言えば説明してなかったか……」と呟き、乗り上げていた体を元に戻した。

「サキュバスってのは、魔界に住んでいる魔族です」

 一つの単語の説明に知らない単語を二つ使われ頭を抱える。

「ま、魔界? 魔族?」

 正直、知らない単語を理解しようとするのは勉強に似ているので、話をそれ以上聞きたくなかった。

 お構いなしに彼女は説明を続けた。

「魔族が暮らしている世界を魔界って呼ぶんです。で、紗智さんが住んでいる世界は人間が住んでいるので人間界って言います」

「……じゃあ魔界では、俺達が暮らしている様に魔族が暮らしているってこと?」

「はい、そうなります!」

 奇跡的に理解できた。もしかしたらルナは勉強を人に教える才能があるのかもしれない。

 しかし、先ほどからの彼女の態度はずっと俺を困らせていた。彼女には協調性というものが欠けている。

「じゃあルナは、人間とは違う魔族ってこと?」

「はい!」

 目の前の金髪の少女は、笑顔で答えた。

 これが納得できない。というか、よくよく考えればもう魔界や魔族辺りからおかしな話だ。別に自分に危害を加えようとしてこなかったから話を聞こうと思ったが、やはりただの危険人物かもしれない。感づかれないように、警察に連絡をしよう。

 ベッドの横に置いてあるスマホを取りに行こうとする。

「あ、もしかして信じてないですか?」

 バレたみたいだった。

 俺が分かりやすいのか、彼女が察知しやすいのかどちらなんだろうか。

 通報しようと思っていたことをどう弁明しようか悩んでいると、彼女は手をポンと打つ。どうやらそっちの問題は解決したらしい。

「紗智さん、私のことを見ておいてください」

 何をされるのかと怯えていると、言われたのはそんなことだった。

「え……。わ、分かった」

 見ておいてと言われれば、まぁ見ておこうかという気持ちにはなる。少しロマンチストな言葉だしな、見ておいてくださいって。悪い気がするものではない。

 そんな楽観的なことを考えていられるのも束の間。俺はすぐに自分の目を疑うことになる。

「よい、しょっと!」

 ルナがそう言って伸びのような姿勢を取ると同時に――彼女の背中からコウモリのような翼が生えた。

 背中から出現した畳まれている翼が、まるで植物の成長を早回しで映すようにゆっくりと伸ばされていく。俺の部屋の横一杯に黒い翼が広がる。壁にぶつかるんじゃないかと心配になるくらいだ。

 そして翼が現れるのと同じように、彼女の頭から二本の角が、口から牙が生えてきた。短い角に口から覗く牙は、まさに悪魔といったような雰囲気を醸し出している。

 魔族。間違いなくそれが、俺の部屋に座っていた。

「ぁ……」

 声も出せない程驚いてしまう。なんだかんだで、彼女の話を信じていなかった証拠だろう。

「どうですか?」

 翼や角が生えた彼女であるが、相変わらず可愛らしい笑顔は変わっていない。悪魔らしい部品とその顔が不釣り合いの様な、かえって可愛らしさを増幅させているような、絶妙なバランスだった。

「ほ、本当に……?」

 実際に目の前で見せられても、まだそんなに素直には飲み込めない。

 というか触ってみたい、翼を。想像をしたことはあるが見たことはなかった悪魔の翼に、俺は興味が湧いていた。

「触りたいですか? いいですよ」

 すると、俺の気持ちを察したのかルナが翼を近づけて促してくれる。

 というか、やはり俺は分かりやすいのだろうか。どうして今、触りたいという気持ちがバレたのだろうか。

 目の前にある、黒く少し光沢を帯びているその大きな翼に、恐る恐る手を近づけてみる。すると、触れようとした瞬間に翼がヒョコリと動いた。

「うわぁっ!」

 ゴキブリを潰す時のようにゆっくりと触ろうとしていたので、唐突に動いたそれに驚愕する。後ろに下がった俺は、ベッドの外枠につまづいてベッドに尻もちをついてしまった。

 ルナを見ると、片目をつぶって舌を出している。

「えへへ。ちょっとしたいたずらです」

 その姿が可愛ければ可愛いほど、憎しみが湧いた。

「ふ、ふざけないでよ!」

「ごめんなさい。でも、これで信じてもらえましたか?」

 確かに、これでルナが魔族だということは信じれそうだ。というか、目の前で悪魔に変化されて翼を動かされたら、信じざるをえないといった感じだろうか。

「受け止めるのには少し時間がかかりそうだけど。それでもまぁ、信じるよ……」

 さきほどの件で強烈に驚いた俺は、心臓が跳ねて少し痛い胸を抑えながら、彼女の対面にまた座った。

「で、どうして俺なのさ」

「はい?」

 一度、仕切り直して、再び彼女の話の疑問点を聞く作業に戻る。

「運命の相手って、どうして俺なの?」

 何度も言うように、ルナは俺の名前を知っている。その理由を知りたかった。

 彼女は俺の質問に答える前に、少し上を見上げた。何か、考え事でもしているのだろうか。俺も少しだけ天井を見た。なんてことはない、真っ白な天井だ。よく見るけど名前は分からない素材で出来た張り紙だ。

 視点を彼女の顔に戻すと、彼女はもうこちらを向いていた。いつの間にか人間の姿に戻っていた。

「――紗智さんは、覚えてませんか?」

 そう言う顔は、真顔だった。覚えていなくて悲しいとか、そういったニュアンスは全く感じられない。事実確認という感じだ。透き通った声に、透き通った紅い瞳だと思った。

「……そう、だね。俺は覚えてない」

「四年前。暑い夏の日の夕方。人間界で迷っていた私を丘の上まで案内してくれたのが、紗智さんでした」

 ルナは淡々と、その時の状況を述べた。俺の顔を覗き込むようにこちらを見ていた。

「思い出せそうですか?」

 その言葉がまるで鍵のように、俺の記憶の扉を開けた。

 それと同時に、どうして俺がそれを覚えていないのか、分かった気がした。

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