第6話 死を告げる悪夢 あるいは予言
白いカーテンに囲まれたてんがいつきベッドで眠っていた氷翠は、ガラスの割れる音に驚き目を覚ます。
薄いカーテン越しに見えるのは割れた窓ガラスと、黒い人影。
ガラスの破片を踏み付ける音がしたと思うと、ギョロリと人影の中で二つの点が氷翠を捕える。
「ひっ!?」
怪物を見たかのように、氷翠は怯え、本物のように大きなしろくまのぬいぐるみを縋るように抱きしめる。
ガラスの破片を踏み付けながら、黒い影が迫ってくる。徐々に大きくなる影に、氷翠は顔を青褪めさせ、金色の瞳に涙を溜める。
(殺されちゃう……っ! やっぱり、夢で見た未来は変えられなくて、私は殺されてしまうんだ……!!)
雪白家が代々受け継ぐ未来予知のディユギフト。現当主の娘である氷翠もその能力を受け継いでおり、夢という形で未来を見る。
ただ、氷翠はこの力をコントロールできていない。自身の意思で力を使えたためしはなく、お告げかのように不意に未来を見るのだ。
未来を見ると言っても、ほとんどは大したことはない。明日の夕飯のメニューを知るだか、失くしていた装飾品が見つかるとかその程度だ。
幼い頃は未来予知による夢なのか、本当の夢なのか分からなかったぐらいに差異はなく、違和感なく生活に溶け込んでいた。
未来予知という能力を明確に意識したのは氷翠が十二歳の頃だ。氷翠の運命が閉ざされた日。
その日になにか特別なことがあったわけではない。雪白家の令嬢として、マナーや習い事などの勉学に励み、優しい家族に囲まれ、日常の幸せを胸に抱き、眠りに付いた。
変わってしまったのは、夢の中。
暗いなにもない空間に一人、ただ氷翠が存在しているだけの空虚な夢。明確な光景はなにもなく、ただ意識だけがある明晰夢だ。
氷翠にとって明晰夢は身近なものだ。夢で未来を見る能力を持つが故に、夢の中というのは、氷翠にとって慣れ親しんだもう一つの現実に他ならない。
けれど、目を開いているかどうかもわからない、暗闇だけが続いている夢を見るのは初めてだった。ただの夢なのか、それとも未来予知なのか測りかねていると、黒い世界の中に赤い小さな点が二つ浮かぶ。
最初はなんだか分からなかったそれが徐々に氷翠へと近付き、目の前まで来てなにかの瞳であることを知る。
機械のように無機質で感情がない、血のように濡れた紅い瞳。星なき夜に浮かぶ不吉な赤月のようで、氷翠は不気味さを感じていた。
赤い瞳はじっと氷翠を見つめる。ただ、それだけだ。
光のない暗いだけの空間。闇に浮かぶ紅い瞳。
あまりにも不気味な夢に、早く目覚めないかと氷翠が思っていると、ぐしゃりと、なにかの潰れる音が耳を汚した。
『……え?』
声が出たのか、それとも思っただけか。
実感のないまま視線を落とすと、黒いなにかが氷翠の左胸を刺し貫いていた。
ごぽりと口から血が零れる。夢の中だというのに、息が苦しいと感じる。
痛みはなく、感覚もない。そのせいで、なにが起こっているのか理解が追い付いていなかった。
背中が痒い。その程度の気持ちで首を捻り、後ろを見て言葉を失った。
氷翠の背から伸びた黒いなにかに――弱々しく脈打つ肉塊が握られていたからだ。
『――あ』
ようやく氷翠は、自身の身になにが起きたのかを理解した。そして、自身を刺し貫いたなにかが持っている物が、どれだけ大切な物かを。
血が零れ、脈一つ打たなくなったそれを、五本の黒いなにかが覆う。
『止め――』
氷翠の悲痛な言葉は届かず、ぐしゃりと水気のある肉の潰れた音が響き渡った。
黒いなにかから零れ落ちる赤い血と肉の欠片。それは氷翠の胸の中にあった命であり、今は無残にも潰されてしまった心臓だ。
なにも感じない夢の中で、自身の死を実感した氷翠は絶叫した。
『いやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!??』
それからだ。氷翠が部屋に籠るようになったのは。
あれが夢であったのか、未来予知であったのか、未だに氷翠は分からない。
けれども、あまりにもリアルな死のイメージは、氷翠の心に傷を残した。未来予知を持つが故に、いずれ訪れる未来の可能性を捨てきれず。
近付く者の誰もが信用できず、伸ばされる手に怯える日々。部屋に籠り、大好きな両親とさえ必要最低限の接触しかしなくなった。
あれから五年。いくら月日が経とうとも、消えない恐怖が心臓を掴んでいる。そして、かつて見た夢が現実の物として氷翠の前へと姿を現したのだ。
「やだぁ……やだよぉ…………死にたくない………………」
氷翠に近付いているのは人だ。手に握ったナイフで、氷翠の命を絶とうとしている。
けれど、氷翠には向かってくる暗殺者が巨大な怪物のようにしか見えなかった。氷翠の命を脅かす怪物。氷翠を定められた運命に導く執行人。
抗えない運命そのものが迫って来る感覚に、身体中が震え、指先一つ自身の意思で動かせない。
薄いカーテン越しに黒い影が蠢く。顔に当たる部分の無機質な赤い瞳が、氷翠を捉えていた。
その目を見た瞬間、ボロボロと氷翠の目から涙が零れ落ちていく。ベッドに落ちた涙は小さな染みをいくつも作り上げる。
恐怖に震え、涙する少女。
けれど、氷翠に救いを求める声を上げる希望は残っていない。予知で見た未来は絶対だ。どうあっても揺らぐことのない運命。助けを求める心は、既にあの夢で心臓と一緒に潰された。
ただただ恐ろしいと、氷翠は枯れることなく涙を流し続けるしかない。
唯一、氷翠と黒い影を隔てていたカーテンも引き裂かれ、赤い二つの瞳が氷翠を見下ろす。黒い影が光るなにかを掲げる。それがなんなのか、濡れた瞳で視界が霞む氷翠は分からない。
(あれで……きっと私は殺される)
ただそれだけを直観した。あの夢のように、氷翠の心臓を握り潰すなにか。
躊躇なく振り下ろされるそれを、小さく口を開け、人形のように虚ろな瞳で眺める。心臓に届く間際、
(ああ、死んだ)
と、かつてと同じように死を感じた瞬間、氷翠の視界が闇で覆われる。
痛みもなく死んだのか。未だ続く思考に疑問すら抱かずにいると、耳に聞き覚えのある声が届いた。
「――氷翠様になにをしている?」
落ち着いた声音とは対照的に、発せられた声には怒気が内包していた。その声は、氷翠が護衛を断りながらも、執事の仕事をしていたおかしな男、神門楯のものであった。
そこで初めて、氷翠は自身がまだ生きていて、目の前が暗くなったのが、先程の黒い影と氷翠との間に楯が割って入ったからだと気が付いた。
見上げた氷翠の視界には、右手に銃を構え、黒い影から氷翠を護るように立ち塞がる楯の姿があった。
「貴様っ!! 一体どこから――」
「黙って死んで下さい、無礼者」
銃声。ほぼ同時に、どさりと崩れ落ちる音。
楯の身体で塞がれた向こう側で、なにがあったのかは明白だ。
硝煙の噴き出す拳銃を降ろすと、楯は氷翠へと振り返る。
「氷翠様っ!! お怪我はありませんかっ!?」
先程孕んでいた怒気が嘘だったのではないかと思わせるほど、楯は悲壮な表情を浮かべて膝を折る。顔をくしゃりと歪め、申し訳ないという気持ちが言葉にせずとも伝わってくる。
魂が抜けたように呆ける氷翠を、上から下まで流し見た楯は見る限り怪我がないことを把握し、謝罪の言葉を口にする。
「護衛として雇われておきながら、氷翠様を危険に晒してしまい弁明の余地もありません。どのような罰も受ける覚悟でございます」
護衛対象の寝具の上というのも構っていられず、楯は深く頭を下げる。
大きい身体が丸まり、見た目以上に小さく見える。
その姿を見た氷翠の瞳に、僅かながら理性の光が宿る。氷翠はなにか口にしなければと喉を動かす。けれど、頭の中は霧が掛かったのように不透明で、嵐の海かのように思考が荒れている。
咄嗟に開いた口から微かな息を吐き出しただけで、空気を震わせることはなかった。
結局、考えはまとまらないまま、身体が真っ先に動いた。
楯へと倒れ込むように身体を倒すと、その勢いのまま縋り付く。
「あぁっ……。うわぁああああああああああああああああああああああんっ!!」
意味のある言葉はなく、ただただしがみ付いて泣いた。
自分が死ぬ夢を見た五年前からこれまで、死ぬことに怯えて震え、涙を流した日々。幾度も殺される悪夢に苛まれ、眠れぬ夜を過ごしもした。常に恐れが付き纏い、安堵した日はなかった。
けれど、今は楯の胸の中で安心して泣いていた。
迷子の子供が親を見つけたかのように。
怖くて、悲しいからではなく。
日常に帰ってきたという安堵と、護ってくれる人がいることに緊張の糸が切れ、次から次へと溢れる感情が涙となって零れていく。
楯は胸の中で必死に涙を流す少女の熱を感じ、微笑みを浮かべて優しく頭を撫でる。
「大丈夫ですよ……。貴女様を脅かすあらゆる危険から、私が必ず御護り致します」
流水のように清らかで美しい髪にそっと触れ、氷翠が落ち着くまで楯は胸を貸していた。
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