第5話 悪魔の贈り物
夜深く、日が変わる時刻。
月明りに照らされた廊下を、一人のメイドが音もなく歩いていた。
衣擦れの音一つ立てず彼女が向かうのは、この屋敷の主人の娘である雪白氷翠の部屋だ。精巧な装飾の施された扉を前に、メイドは銀色の鍵を取り出すと、そっと鍵穴に差し込む。
ゆっくりと、時を刻むように鍵を回す。開錠音はせず、何事もなかったかのように鍵を抜く。けれども、閉ざされていた扉の錠は外され、ドアノブに手を掛け捻れば抵抗なく扉は開く。
そのまま、眠れる姫の部屋へと入ろうとした瞬間、
「――誰ですか? 貴女は」
折れるのではと思うほど力強い力で手首を掴まれる。
振り払おうとするが、どれだけ力を込めてもびくともしない。手首を掴む力は徐々に強まり、逃がさないと如実に物語っている。
視界に映る手を伝い、顔を見上げれば、そこには黒曜石のように煌めく瞳に敵意を宿した神門楯が居た。
捕まったメイドは観念するように肩を落とすと、苦笑する。
「屋敷の誰もが寝静まった深夜に、強引に女性を捕まえるのは、褒められた行為ではないと思いませんか? 神門様」
「それはこちらの台詞です。見も知らぬ不審者が護衛対象に近付けば、警戒もするでしょう?」
「うふふ……。見も知らぬとは、おかしなことを仰いますのね。改めてご挨拶が必要でしょうか?」
「お名前は?」
「――近衛睦葉。氷翠様のメイドでございます」
月光によって現れたのは、白と黒のどこか和風な装いのメイド服を着た、栗色髪のメイド、近衛睦葉であった。
「ここ数日、ご一緒にお仕事をしていたはずですが、お忘れになってしまったとは悲しいですね」
「忘れていませんよ、睦葉さんのことは」
「……不思議な表現を使うのですね」
「ところで、氷翠様のお部屋になにか御用でしょうか?」
にこりと楯は笑う。
ただ、その笑みに昼間見せた親しみはない。笑顔の仮面を張り付けた楯から発せられるのは威圧のみ。未だ、彼女の手首を離すことはなく、警戒心を高めている。
男と女。それに、体格さもある楯に圧せられながらも、睦葉は柔和な笑みを崩さない。冷や汗一つ流さないその姿は、この状況下では逆に異常さを示していた。
「この時間、氷翠様は眠られないことが多いので、様子を見に参りました。眠れないようであれば、ハーブティーでもお淹れしようかと思いまして」
「それはそれは。気が利く女性なんですね、貴女は。言葉通りなら」
「このような遅くに氷翠様の部屋を訪れて、警戒させてしまったのですね。申し訳ありません。神門様に一言お伝えしておくべきでした。ところで、手首……離して頂けませんか? 痛くて痛くて、泣いてしまいそうです」
くすんと、睦葉は空いている方の手で目尻を拭う。
その態度に毒気を抜かれたのか、楯は俯いて深くため息を付く。そして、顔を上げると、そこには笑みはなく、獲物を前にした黒狼が牙を剥いていた。
「――白々しい。いい加減に化けの皮を剥いだらどうですか?」
睦葉の身体が震える。血に飢えた肉食獣の前に姿を見せてしまった草食動物のように恐れを抱いたが故に。
「ば、化けの皮とは異なこと仰る。私のどこがおかしいと?」
「睦葉さんは氷翠様とは呼びません。氷翠お嬢様とお呼びしている」
値踏みするような黒曜石の瞳に、睦葉の姿をしたメイドが身を竦める。
「他にも、歩き方、息遣い、所作、あらゆる点で別人です。見目こそ良く真似ていますが、それ以外はお粗末なものです。なにより――」
女の顔に手を伸ばす。
びくりと身体を震わせるのも構わず、楯は女の頬に手を添えると、親指でそっと目元を這わす。
「――左目の下に、泣き黒子がありません。得意の変装ですらこの程度。恐らく、対象とした人物に化けるディユギフトなのでしょうが、過信し過ぎですね。ああ、それとも、イービルギフトと呼んだ方が宜しいか?」
「――っ!!」
ディユギフトとは神から与えられた贈り物。人類の誰もが生まれた時から持っている特殊能力の総称。
神から与えられたとされているが故に、誰もがその能力を尊い物として扱っている。けれども、どんな世界にも悪人はいる。それは、桜の大樹を神と崇める
ディユギフトを悪用し、犯罪を起こす者。
そのような悪人に神の加護をあるわけがない。誰が最初に言い出したのかは分からないが、ディユギフトを悪用した犯罪者のギフトを皆、口を揃えてこう呼んだ。
イービルギフト。悪魔からの贈り物、と。
「っ!! 死ねっ!!」
睦葉の顔をした女は、豹変したように殺意を露わにすると、スカートの中からナイフを取り出し楯を刺そうとする。
「やっぱり暗殺者かっ!」
慌てて掴んでいた女の手首を離すと、突き出されたナイフを避け、女の腹部に蹴りを入れる。
「ぐっ!?」
暗殺者は苦悶の表情を浮かべると、蹴られた腹部を押さえて後退する。
しかし、睦葉の顔をした暗殺者の瞳に陰りはない。もう一本ナイフを取り出すと、両手に構えて突撃してくる。その動きは身軽で、呼吸を乱した様子もない。
(蹴りは綺麗に入ったはずですが、防具でも仕込んでいるんですかね。いまいちダメージが入っていません)
旭陽でも名のある雪白家を襲うだけあり、暗殺者の技量は熟練だ。目、首、心臓と、的確に急所を狙ってくる。
月の光に反射し、走る銀閃を楯は紙一重で躱し、時にはいなしていく。
表情こそ似ても似つかないが、造形そのものは近衛睦葉そのままだ。雪白邸に来てから良くしてもらった楯としては、やり辛いことこの上ない。
「いい加減正体を現したらどうですか?」
「知り合いの顔を殴りたくはありませんか?」
嘲け、揶揄するように丁寧な口調になる暗殺者。自身の持つ能力の強みを理解しているのだろう。その声には余裕を取り戻しつつある。
「いえいえ。そもそも――」
楯は軸足を残し、暗殺者の顔面を蹴ろうとする。
咄嗟に腕で守りを固めた暗殺者は――顔にめり込んだ蹴りによって地に伏す。
「――女性を殴るのが性に合わないのですよ。根が紳士なもので」
口の中を切り、血を吐き出す暗殺者は困惑していた。
(なんだっ、今のは!? 腕をすり抜けた!? ガードは間に合っていたはずだっ!!)
なにをされたのかが分からない。明滅する視界。痛む顔。混乱する頭では、冷静に物事を判断できない。
ただ、このままではまずいと震える手を地面に付き起き上がろうと顔を上げると、額に黒い銃口が突き付けられた。
「……そのようなものまで、お持ちだったのですね?」
「丁寧な言葉遣いを止めて頂けませんか? 元は汚らしい暗殺者に見合った言葉遣いでしょうに」
「あら、お気に召しませんか?」
「とても」
暗殺者を冷たい瞳で見下ろす楯は、引き金に手を掛ける。
「最初から銃を使えば良かったじゃないか」
「夜分遅くに迷惑でしょう?」
「思ってもないことを。銃声で人質を増やしたくなかっただけだろうに」
「気を遣うのも、私の仕事なものでね。さて、このまま貴女には捕まって頂きますよ。依頼主や侵入ルート、貴女には話して頂かなければならないことを沢山あります」
「私はこれでもプロの暗殺者だ。命惜しいとでも?」
「話させる、と言っているのですが?」
楯と暗殺者の瞳がぶつかる。
互いに冷え切った瞳。けれど、既に勝敗は決した。楯は地に立ち、暗殺者は地に伏している。
だというのに、睦葉の顔をした暗殺者は薄暗い、三日月のように怪しい笑みを浮かべた。
「私はプロだ。依頼を遂行するためならば、命は惜しくない」
その態度に楯が違和感を覚えた瞬間、氷翠の部屋から窓の割れる音が、屋敷内に響き渡った。
「殺せるならば、私の手でなくてもいい」
「もう一人――っ!?」
釣られた。
そう楯が思った瞬間、撫でるように銃を握っていた手を掴まれる。
一瞬の意識の空白。致命的な隙。
眼前に広がる道化師のような下卑た笑み。
「――お前を殺すのは、私だけどなぁあああっ!!」
暗殺者の手に握られたナイフが、楯の心臓へと吸い込まれるように空を走る。
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