第4話 雪解けの前触れ
楯が護衛として派遣されてから一週間が過ぎた。
護衛対象である氷翠には何度も接触を図っているが、雪解けには至っていない。
護衛として身辺警護ができないでいる楯。けれども、殊更暇なのかと言えばそんなこともなく、どういうわけか早朝のキッチンで皿洗いに勤しんでいた。
「睦葉さん。お皿洗いは終わりました。他に仕事はありますか?」
「仕事はありますが……神門様がここまでする必要はございませんよ?」
楯は濡れた手を拭き、新たな仕事を睦葉に求める。その恰好はシルトクレーテの制服ではなく、執事服。やたらめったら着こなしており、元から屋敷に居た使用人と言われてもあっさりと納得されてしまいそうなほどだ。逆に、護衛と言われても飲み込めまい。
当然、護衛として雇われた楯に使用人としての業務はないのだが、氷翠との交流という建前で率先して手伝いに回っていた。
「いえいえ。やることもありませんし、ただ座っているだけというのも落ち着きません。それでお金を頂くというのであれば猶更です」
「一目見ることすら叶わぬお嬢様の護衛をして頂くという、無理難題を押し付けているのはこちらです。優人様からも神門様のお世話をするように仰せ付かっております。神門様は雪白家に雇われておりますが、雪白家が招いた客人でもあります。神門様が気にする必要はございません」
「日がな一日客室でだらけているというのは、あまりにも落ち着かないんですよね。なにより、氷翠様の身の回りのお世話をするというのは、氷翠様とお近づきになる第一歩ですので」
「それは伺っておりますが……働き過ぎだと思うのです」
護衛として接するのではなく、使用人の一人として、氷翠に生活の一部として認めてもらう。
楯が執事として働くのは、あくまで護衛をするために必要な手段であったはずなのだが、睦葉から見ると、手段が目的になっているようにしか見えなかった。
朝日が顔を出した頃、他の使用人たち同様楯は起き出し、朝食の準備を始める。それから屋敷内の掃除や洗濯にまで手が伸びる。昼になれば昼食の準備と、他の使用人となんら変わらない働きをしている。たかだか一週間でその域に至るのだから、使用人としての技量の高さが窺い知れるというもの。
しかし、だ。何度も言うようだが、楯は使用人として雇われたのではなく、護衛なのだ。氷翠に信頼してもらうためと言うが、それとは関係ない仕事すらこなしているのだから、一週間、楯のやりたいようにやらせていた睦葉もひとこと言いたくもなるというもの。
流石に自覚はあるのか、困ったような睦葉に見つめられ、楯はついっと視線を逸らす。
「……どうにもじっとしていられない性分で」
「仕事中毒の方でしたか。こちらのことはお気になさらず、ぜひ、この機会に趣味の一つでも見つけるのはいかがでしょうか?」
「あははー。大丈夫ですよ、趣味ならあります」
「そうなのですか?」
意外と睦葉が思っていると、楯が聞こえるか聞こえないかの小さな声でぼそりと呟く。
「はい。……社長のお世話や、社内の掃除とか色々です」
そのどうしようもない返答に、睦葉は笑顔で返す。満面の笑みである。仮面を張り付けたような、という文言が頭に付くが。
「…………素晴らしい会社愛ですね。ところで、休日はなにをしておいでですか?」
「部屋の掃除や洗濯、料理などを……」
「いらぬお節介かと存じますが、ご自身を労わる時間を作りませんと、仕事を辞めた後辛いですよ?」
冗句ではなく、心の底から労わる睦葉。
あまりにも真摯な反応に身をつまされた楯は、ぐうの音も出ず俯くしかないのであった。
――
「まさか、たかだか一週間でワーカーホリック判定されるとは……」
あの後、楯はあまりのいたたまれなさにキッチンから逃げ出すように「氷翠様を起こしに行きます」と廊下へと飛び出した。
睦葉に指摘をされても、楯に確かな自覚はない。本人としては、お世話をするのが好き程度の気持ちであり、仕事中毒というわけではないと考えている。
とはいえ、たった一週間接した程度の睦葉にそのような指摘をされることに、思う所がないわけではない。特に仕事を辞めた後という言葉には、ドキリとさせられた。
「大丈夫大丈夫。仕事を辞めるつもりはありませんし、会社に行かなくてもやることぐらい……この先は考えるのを止めようか」
シルトクレーテを辞めた後の自分を想像し、自宅でぽつねんと寂しく過ごしている姿が思い描かれたところで思考を打ち切った。とても心に悪い想像であった。妙な現実味があって、否定できないところがまた辛い。
暗雲立ち込める未来にどんよりと気分を落ち込ませていると、いつの間にやら氷翠の部屋の前まで歩いていたようだ。
今は自身のことより仕事と、ネクタイをきゅっと締め直し、服装と共に心を正す。
そして、煩くしないよう、けれど耳に届くように丁寧なノックをする。
「氷翠様。おはようございます。そろそろ朝食のお時間となりますが、起きていらっしゃいますか?」
声を掛けるが返事はない。
これまで、散々拒否されてきたが、一言も帰ってこないということはなかった。
まだ寝ているのか、それとも遂に無視を決め込まれてしまったのか。距離を縮めるはずの対応が、逆に心の距離を遠ざけている可能性にショックを受ける。先の悲しい未来予想図もあり、楯のメンタルは脆くなっているのだ。
とはいえ、ショックを受けて呆然としている時ではない。もしかすると、室内でなにかがあった可能性もある。
しつこい可能性もありますが……。
更に嫌われるかもしれないと思いつつも、再びノックをしようとしたところで、扉越しに微かな声が聞こえてきた。
『……どうして帰ってくれないんですか?』
か細く、ともすれば楯の届く前に溶けてなくなってしまいそうな儚い声。
拒絶以外の言葉を掛けてくれたことに楯は一瞬驚いたが、反応があったことが嬉しく、自然と笑みが零れる。
「それが仕事ですので」
この返答が氷翠の望むものではないことを楯は理解している。嘘ではないが、全てではないからだ。
案の定、むすっとした感情の乗った声が返ってくる。まともに顔すら会わせられていないが、写真で見た印象よりも感情が豊かだと楯は感じた。
『執事の仕事を護衛がやる必要はありません』
「おや? 護衛とは認めて頂けると?」
『……~~っ!!』
完全な上げ足取り。
なにやら、室内でじたばたしている音が聞こえる。
『知りませんっ!』
「それは残念です。ところで、朝食はお運びしますか? それとも、食堂で――」
『部屋に持って来て下さい!』
ぴしゃりと告げると、扉から離れる足音が聞こえる。どうやら、これ以上問答をするつもりはないようだ。
怒らせてしまったかと思いつつも、楯の表情は柔らかい。少しだが、氷翠との距離が近付いたように感じたからだ。
少し前ならほっといて下さいで、部屋に持って来いとは言いませんでしたからね。
「かしこまりました。氷翠様」
確かな成果を感じつつ楯は胸に手を当てると、美しい所作で扉に向かって頭を下げた。
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