スメルズライク リノリウムスピリット
不可逆性FIG
Smells Like Linoleum Spirit.
12月の廊下はシンとしている。
それは窓ガラスからひんやりと伝わる冬の気温であったり、夕暮れの静まり返った空間に響く僕の上履きの音だったりするのだ。階段を登り、僕のクラスがある3階に到着すると、まるで廃墟のように薄暗い。廊下の向こうまで、窓から柔らかく差し込む四角いオレンジ色が年季の入ったリノリウムに淡く注がれていた。
終業式は一昨日のこと。
置き勉派の僕は、全て持ち帰ったはずなのに世界史の教科書だけロッカーに忘れたことに気付き、どうしても課題に必要だったため学校に取りに来たというわけだ。当直の先生に理由を話し、教室の鍵を借りる。「戸締まり忘れるなよ」との注意には生返事。職員室には不思議なくらいお馴染みの顔が揃っていて、なんだかそれが無性に笑えてくる。
灯油ストーブの焦げた匂い、掲示された謎の賞状、乱雑に積まれたプリントの束、奥で眼を光らす痩せぎすの教頭先生。笑えるくらい平常通りに忙しなくて、退屈そうな空間だった。
「大人って飽きないのかな」
扉1枚を隔てた喧騒と静寂。普段よりもそのコントラストが強めで、僕は思わず足音をいつもより派手目に鳴らしながら、職員室を後にした。
グラウンドを回遊する群れから届く運動部の太いかけ声、ひとつだけ不規則に点滅を繰り返す通用口の蛍光灯、保健室の前を通るといつも鼻を掠める消毒液の香り。そのどれもがいつも通りなのに、こんなにも僕だけが世界から切り離されていると、全てが水彩画で描かれたどこか遠い異国の日常に思えてくるから不思議だ。
「さてと、さっさと用事を済ませるか」
*****
3階の廊下に敷かれたリノリウムは綺麗にワックスで磨かれ、天井の蛍光灯が薄く映り込むほどだった。そして、非現実に近い場所には非現実的な光景が当たり前のように横たわっていたりする。
「……なにしてるの?」
僕は、文字通り廊下のリノリウムに顔を伏せて横たわる女子生徒を見下ろして声をかける。なんだか見知った背格好と髪型だった。知り合いだと嫌だなあ、と思ったが赤の他人だったほうがもっと嫌だと気付いたので前言撤回。消去法で前者を支持したいと思う。
「リノリウムを感じてるだけー」
さらり、と。何事もないように返答する。オレンジの鈍い陽光が、彼女のスカートから伸びる未発達なふくらはぎにあたって歪な四角が出来上がっていた。
「そっか、ほどほどにね。冬の廊下はきっと冷えるよ」
「お気遣いありがと。優しいんだね、アキトくんは」
彼女はリノリウムに顔を伏せたまま、僕の名前を迷う素振りもなく言い当てるのだった。でも、僕も少し会話を交わしてようやく気が付く。その低体温な声。華奢な身体。広がった髪のインナーカラーにダークな色合いのローズピンク。ある意味、この学年の有名人で問題児。
「なんだ、ちびっこか。心配して損した」
「ちびって言うな。ちゃんとシズクって名前で呼んで」
彼女はシズク。見ての通り、生活指導の常習犯。度重なる校則違反は逸脱した恰好によるものばかり。しかし、それでも学校側が彼女を即刻退学に出来ないのには理由がある。――シズクが描く、美術コンクールの出展作品が常に全国レベルなのである。学校名の広告塔をおいそれと追い出すほど強気にはなれないのだ。
「で、どうしてシズクは僕のクラスの前で這いつくばってるワケ」
「次に描きたくなった絵のイメージをロケハンしてるのー」
そう言ってる間にも、顔は左右に動いていてリノリウムに頬ずりを繰り返す変人が僕の足元には居た。
聞けば、次作は学校がモチーフらしい。どうしてもリノリウムの色合いや質感が上手く出せなかったそうで、この奇行に行き着いたらしい。なんでも、漫画からヒントを得たようで、いたって真面目な顔で講釈を垂れるのだ。
「まずさー、リノリウムを具現化しようと決めてからはイメージ修行なの。最初は実際のリノリウムを一日中いじくってたっけ。とにかく四六時中だよ。目をつぶって触感を確認したり何百枚何千枚とリノリウムを写生したり……」
「念能力でも開花させる気?」
どこぞの鎖使いみたいな荒行を実際にやる馬鹿はいないと思ってたけれど、意外と世間は狭かった。
「まさかとは思うけど、床を舐めたりはしてないよね」
「――――――――ヤッテナイヨ?」
はい、アウト。
少し跳ねた肩とか、妙な沈黙とか、そういうのを僕は見逃さない。嘘が壊滅的に下手だなと感じた。というか、問題はそこじゃない。それ以前の話だ。
「まあ、シズクが何かを感じ取れたなら別にいいんじゃないの。邪魔して悪かった。誰にも言わないから、続けていいよ」
すぐ横にある引き戸に鍵を差し込み、解錠する。僕の目的は忘れ物の回収、それだけだ。
他はどうでもいいのだ。忘れよう……僕は何も見なかった。
*****
「私とアキトくんって実は話が合うと思うんだ、きっと」
他はどうでもいいはずなのに。
それなのに、こうして変人シズクと教室でお喋りに興じている自分が不思議でたまらなかった。ロッカーにあった教科書をバッグに押し込み、振り返ると開きっ放しの扉に寄りかかるようにして彼女が僕を見ていた。
「私もニルヴァーナ結構好きなの。1週間くらい前、駅で私服のキミを見たときバンT着てたよね。声掛けようか迷ったけど女の子と一緒だったし、私ってば空気読んであげた」
「そりゃどーも。てか、Smells like teen spiritだけ知ってるとかは無しね」
よく居るのだ。服のブランドみたいになってからは特に多い。眼が×マークのスマイリーを、パブリックなロゴデザインとして認知されていることに違和感を憶えるのは僕だけじゃないはず。
「お姉ちゃんの元カレが聞いてて、私も結構好きになったよ。あの、ほら、えーと、まあ一番好きな曲忘れちゃったけどさー」
眠そうな眼と平坦な声で、はははと笑うシズク。どこか遠い世界の住人だと思っていた彼女との接点が一筋だけ繋がった気がした。だけどそれは、整然と並ぶ机の群れに阻まれて僕らを隔てたまま、結局は何も変わることのないメタファーのように感じられて仕方がなかった。
「でも、知ってるのは本当だよ。ネヴァーマインドとかインユーテロとか、ちゃんと聴いたし。アキトくんと音楽談義したいのも本当の気持ちだもん」
ふふん、と鼻を鳴らしそうな態度で腕を組み、ニヤリと薄く微笑む。彼女が僅かに首をかしげたとき、ふわりと髪が揺れて隙間から見えたのはインナーカラーのローズピンク。
なるほど、こういうふとした瞬間に良いアクセントになるのか、とまったく話題とは関係のないことで僕はひとり感心をしていた。
いつもの階段を登って、降りての繰り返しでも僕らの青春は切ないほどに摩耗していく。例えそれは、一段飛ばしで駆け下りても、中央の白い線だけ踏んでいても、薄緑色したリノリウムの継ぎ目をつま先で削ろうとしても、だ。
曖昧に過ぎていく日々は、何か指針が必要になる。無個性なチャイムが響くたびに、静かに足元から水かさが増していき、気が付けば焦燥感という息苦しさに支配され蝕まれてしまうのだ。何も持たずに生まれ落ちた僕らは早かれ遅かれ、この辺りで呼吸を充分にするための何か縋るものを求めて皆一様に彷徨い始める。
「ねー、途中まで一緒に帰ろーよー」
「リノリウムの研究はもう終わり?」
「あれはいつでも出来るから。今はアキトくんとお話したい気分なの」
人によってそれは勉強であったり、友達であったり、音楽であったり、恋人とのアレコレであったりする。何を信じるかは個人の自由である。僕らそれぞれの心を奮い立たせるほど信じたモノに善も悪も介在せず、そこに漠然と存在するのは残酷なまでに無垢な正義だけなのだ。
「話って何をさ。ニルヴァーナについてとか?」
「そういうのとか、もっと色々なこととか」
「色々って……今さらだけど、シズクとそんなに接点あるっけか」
「気にしなーいの。これから沢山見つけられればいいじゃん」
僕らの心に宿る生まれたての正義は棘だらけで、不用意に手を伸ばすと指先に鋭く刺さってしまう。滲む血を何度も舐めて、涙の堪えかたを学ぶ頃になってようやく、自分と相手は違う生き物だと気付き出すのだろう。
それと同時に、棘だらけの僕らを収容する教室の狭さにも気付いてしてしまったりする。誰もが一度は後ろめたさを犠牲に、仮病を使って手にした物憂げで透明な自由に、世界の輪郭が午後の青空の遥か彼方に垣間見えた気になったりもして。
それでも僕らは不思議なことに、再びこの狭い教室へと収束していくのだ。
覚えたてで、まだ覚束ない言葉を交わしながら少しずつ歩み寄っていくように。互いの棘がギリギリ届かない距離感や、互いの心にある棘のない柔らかい部分を探り合ったりするように。
「まあ、いいけど。じゃあ僕、職員室に鍵返しに行くから、靴履いて待ってて」
「はいよー。あ、ついでに美術の先生に用事終わったから帰りますって言っておいて」
階段を降りきったところで、未だシズクとの距離感を測りかねている僕に向かってパシリを要求してくるハートの強さは見習いたいものだ。当然のことながら選択肢は拒否。
「それくらい自分で言えばいいじゃん」
「えー、めんどくさーい。じゃあ、特別にちゅーしてあげるからさー」
突然の報酬提示に条件反射で鼓動が一瞬高鳴ってしまう。変人とはいえ、学校の有名人である彼女の唇に触れる権利が目の前にぶら下がっているのだ。冗談なのか、本気なのか、どうするのが正解なのか。僕は気持ちを整理できないまま、一番初めに思ったことを素直に伝えることにした。
「うーん……いや、リノリウムと間接キスしたくないわ、やっぱ」
「けち。別にいいじゃん、それくらいさ」
「じゃあ、今度会ったときちゅーするのなら良いよ」
シズクは僕の肩を小突く。含みのある笑みと相変わらずの低体温な声音は「もう、えっちなんだから」と言葉を紡いだ気がした。だけど、それは冬の重たい空と燃え尽きそうなオレンジの眩しさに霞んで消えてしまったことにして僕は職員室の扉を開けることにした。
12月の廊下はシンとしている。
昇降口までの帰り道では、もはや窓ガラスからひんやりと伝わる冬の気温だけの意味で、凛とするほどの静けさはシズクと僕の会話が少なからず掻き消してしまっていた。
「――あ、思い出した私の一番好きな歌」
「へえ、教えてよ」
薄緑色のリノリウムには強い白色の蛍光灯と、四角に切り取られた柔らかな夕陽が規則的な位置で反射している。放課後、いつも見ている光景は終業式の後もこうして何も変わらず続いていることを知った。きっとこの先、僕らの関係性が変わって、ほつれて、繋がって、零れて、巡り廻って、掬い上げたとしても、永遠を謳うように曖昧な世界のまま存在していくのだろう。
それはおそらく学校という名の傍観者の特権。幾度も乱反射してきた願いや祈りを未来の予感に託すための白昼夢。それ以下でも、それ以上でもない空間。
少しだけ何かが変わった今日の日を想う。それから、僕らは上履きからローファーに履き替えて生徒の誰もいなくなった校舎を出ることした。
「ほら、あの、えーと、リノリウムみたいな名前の」
「それ、Lithiumな」
〈了〉
スメルズライク リノリウムスピリット 不可逆性FIG @FigmentR
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