第193話 春の中月の十七日 - 05 -
雨は、昼過ぎから降り始めた。
しとしとと降っている雨は、そのうち土砂降りになるだろう。談話室の暖炉に竜木の確認に来ていたヴィンセントは、窓を見た。もう十三年も前のことなのに、強い雷でこの部屋が真っ白になったことを、今でもよく覚えている。
「終わった?」
「ああ」
有言実行のミゲルが、東棟の談話室の扉を出たところでヴィンセントを待っている。今日も授業の合間を縫って東棟まで何度か来たが、その全てにミゲルは付いてきた。
「暇だな。君も」
ヴィンセントが呆れて言うと、ミゲルが笑う。歯の隙間から咥えているスティックキャンディが見えた。オレンジ味を舐めているようだ。
「次は何処行くの」
「竜木に行ってみようと思う」
この雨の中、竜木を折りにいく馬鹿もいないとは思うが、そもそも竜木を折ること自体が馬鹿なのだ。馬鹿の思考回路は、ヴィンセントにはわからない。
「えー。雨なんですけどー」
「無理についてこなくていい」
「駄目駄目。オリアナに監視報告もしないといけないしな」
またその冗談かと、ヴィンセントが冷たくミゲルを睨む。ミゲルはへらりと笑った。
「オリアナ、今何してるん?」
「錬金術学室で、第二の女子らとお菓子を作ると言っていた」
「コンスタンツェ達か。それだと確かに、彼氏の浮気現場は見なくて済むな」
「なんだ。本気で誘ってたのか? 鈍くて悪かったな」
ミゲルのローブの襟元を掴み、ヴィンセントは顔を近づけた。ヴィンセントの冷ややかな視線を受けたミゲルは「ごめんって」と謝る。
いつまでもくだらない冗談を続けるミゲルにふんと息を吐いて、ミゲルのローブから手を離した。
「ヴィンセント、ピリピリしすぎ」
(ピリピリしたくもなる)
ヴィンセントにとって、あと数時間が勝負なのだ。あと数時間で、ヴィンセントとオリアナは、死ぬかもしれない。
「君の冗談は笑えない」
「オリアナに元気もらいに行く?」
顔を見に行くかと聞かれ、ヴィンセントは首を横に振った。
「まだ行かない」
オリアナはヤナ達に任せている。ヤナが傍にいれば、必然的にアズラクも傍にいるだろう。
一巡目と二巡目の死亡原因が他殺で無く本当に竜木なら、オリアナに直接的な被害が及ぶことは無い。それでも、今日この日にオリアナの傍にアズラクがいてくれることは、ヴィンセントを安心させた。
東棟の入り口まで来ると、寮から持ってきていた傘を広げる。二つの傘が咲いた時、視界の隅に動くものが見えた。
めざとく見つけたのはヴィンセントだけでは無かった。ミゲルが大きなコンパスで一足飛びに移動し、ヴィンセント達から隠れた者――二人の男子生徒を捕まえた。
「知り合いか?」
ミゲルが放り投げた傘を拾い、ヴィンセントがミゲルに差す。
「いや。逃げたから、反射的に」
首を横に振り、ミゲルは二人を屋根のある場所まで引っ張った。男子二人はおどおどとついてくる。
「す、すみません。逃げたわけでは――」
「タンザインさん達がいらしたので、邪魔になったらと思って、咄嗟に」
二人の男子は見覚えの無い顔をしていた。背丈からしても下級生だろう。二人とも雨に濡れているせいか、かわいそうなほどに顔を青くして、胸元を両手で押さえていた。
二人の男子は実習着を着ている。今日は薬学の授業があったのだろう。実習着は泥まみれだった。
「どうした。何故そんなに濡れている――言い辛いことでも起きているのか?」
ヴィンセントの脳裏に、一つの懸念が浮かび上がる。
大人が立ち入らない閉鎖的なラーゲン魔法学校では、時折、上級生による下級生への過激な躾が問題になることがある。
雨の日に傘を差さないのは、アマネセル国において一般的なことでは無い。傘を奪われ、その上泥まみれになるようなことをされたのかと心配したヴィンセントは、険しい顔で尋ねた。
「い、いえ。そんな」
「僕たち何も」
下級生二人はおどおどとして、ヴィンセントと視線を合わせない。
「なら、何故こんなに濡れて、汚れている」
「これは部活で……」
「部活?」
思いがけない言葉に、ヴィンセントは片眉を上げた。
ラーゲン魔法学校には部活動がある。ヴィンセントは二巡目も三巡目も入っていなかったため詳しくないが、乗馬や盤上遊戯を嗜んでいる特待クラスの生徒も数人いた。
「こんな雨の中?」
「練習してると他の生徒に怒られるから、雨の方が誰もいなくて都合がいいって、先輩達が……」
「馬鹿、言うなって」
「ご、ごめんなさい」
ヴィンセントはミゲルと目を合わせた。ミゲルも、流石に部活内のことに口を出す気は無いらしい。
「そうか。部活なら顧問の先生がいるだろう? あまり上級生が無理を言うようなら、きちんと先生に相談しなさい」
「は、はい」
「ありがとうございます」
下級生達が膝に手を当て、勢いよく頭を下げる。
その時、下級生の服の下から、ぽとりと何かが落ちてきた。ぎょっとして、ヴィンセントは目を見開く。
それは、竜木の枝だった。
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