第175話 人生最良の一夜 - 01 -
――
誰もが最終学年に迎えるこの日を夢見て、ラーゲン魔法学校に入学する。煌びやかなホール、厳かな音楽、いつもと違う学友達。
人生で一番着飾った自分を、人生で一番着飾ったパートナーがエスコートしてくれる、人生で一番素晴らしい一夜である。
にもかかわらず。
「じゃあ、オリアナ。ちゃんと寝ていてちょうだいね。窓は少し開けておくけれど、閉めちゃ駄目よ」
「あい……」
オリアナは真っ赤な顔で、布団の中から正装に着飾ったヤナに手を振った。
――人生最低の一夜の幕開けだ。
***
オリアナははしゃいでいた。
人生で初めて出来た最高の恋人と行く舞踏会に、それはもうはしゃぎまくっていた。
しかしまさか――この年になってまで、はしゃぎすぎて知恵熱が出るとは思っていなかった。
昨晩から様子がおかしいと思っていた。だがあまりのはしゃぎっぷりに、気のせいだろうで片付けた。その結果、朝には立ちあがることも出来無くなっていた。
父が丹精込めて仕立ててくれたドレスには、袖を通すことすら出来ていない。ハンガーに吊され、壁の花さながら、壁の華やかさに一役買っている。
風邪の心配が無いため、医務室から自室に戻されたオリアナは、舞踏会の準備に上を下への大騒ぎな女子寮の中で、一人涙を流しながら静かに眠っていた。
(ブランデーのお供みたいに、「オリィは小さな頃、はしゃぐとよく熱を出していてな」ってお酒を飲む度にパパに言われてたけど……)
何故よりにもよってこんな日に。オリアナを見る友人ら全員の目が、そう語っていた。オリアナだって思った。
心底悲しかったが、真っ直ぐ歩くことすら出来ないこんなフラフラの体では、ヴィンセントに迷惑をかけるだけだ。オリアナは泣く泣く、舞踏会を欠席することにした。
最高に可愛い格好に身を包み、いつも以上にいい匂いのしたヤナが、オリアナの現状をヴィンセントに伝えに行ってくれた。ヤナはきっと今頃、ホールで旦那様にエスコートされて幸せの真っ只中にいるだろう。
(なのに、私ときたらベッドの中……)
せっかくの舞踏会に出席できない事を、自分で謝ることすら出来ない自分に、また涙がこぼれる。
風邪では無いため、喉も頭も痛くない。少しの悪寒は、体を丸めていれば落ち着く。
階下から、舞踏会に参加せずにチキンパーティーをしている女子らの声がする。楽しそうな笑い声は、今のオリアナにとっては毒でしか無かった。
眠ってしまおうと、きつく目を瞑る。
(舞踏会、行ってみたかったな……美味しいご飯に、オーケストラ。それに……ヴィンセントの正装……)
一度だけ見たことがあるヴィンセントの正装を思い出す。オペラ劇場で偶然会ったヴィンセントは、心底格好良かった。
だがきっと、今日のヴィンセントはその比では無かったはずだ。なんと言っても、今日のヴィンセントはオリアナの恋人である。それに、オリアナのために着飾るはずだったのだ。そんなもの、誰よりも美しいに違いない。
(なのにこんな……知恵熱って……馬鹿じゃ無いの……)
せめて風邪ならよかった。集団生活をしてるし、仕方が無いね。そういうものだしね。と自分を慰められただろう。なのに、知恵熱だ。百二十パーセント、自分だけのせいである。
「うぅう……会いたいぃ……」
濡れた枕を抱きしめていると、ガタリと部屋のどこかで音が鳴った。緩慢に顔を上げ、オリアナはきょろりと、薄暗い部屋を見渡す。
続けて、ガタガタと音が鳴る。怯えたオリアナは、ベッドの上で枕を抱きかかえた。
皆がいる下の談話室に降りようか考えていると、少し開いていた窓に、外から手がかかった。
悲鳴をあげそうだった。息を呑むオリアナが見守る中、窓が大きく開く。
(どうしよう、泥棒? どうしよう、どうしよう!)
戦き、動転していると、窓枠に一人の男が乗っかった。
窓枠に座った男は、ベッドの上で目を見開いて凝視するオリアナを見て、優しく笑った。
「なんだ、寝ていなかったのか」
「……ヴィンセント?」
月明かりしか無いせいでしっかり見えないが、その声は間違い無くヴィンセントだった。
枕を抱きしめていた腕の力が、すぅと抜ける。倒れ込みそうなほど脱力するオリアナを支えに、ヴィンセントが大慌てで窓から降りると、ベッドに近付いた。そして、オリアナの脇に腕を差し込んで支える。
シダーウッドの香りがする。もっと匂いを吸い込みたくて、オリアナは無意識にヴィンセントの腕に顔を擦り付けた。
「辛いか」
オリアナの動きを、体のしんどさだと勘違いしたヴィンセントに、ゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫……何が起きてるのか、わかんなくて、怖くって」
「まさか、マハティーンさんは僕が来ることを伝えていなかったのか?」
そのまさかだと、オリアナは頷いた。ヤナのサプライズプレゼントは、苦く笑う。
「すまない。怖がらせたな」
「嬉しかったから、平気」
オリアナが微笑むと、ヴィンセントは一瞬動きを止める。そしてゆっくりとオリアナから距離をとると、ベッドに横たわらせた。
「少しゆっくりしていてくれ」
ヴィンセントはベッドから離れると、窓辺に立った。何をしているのだろうと、ぼんやり見ていると、ロープをたぐり寄せていた。よく見ると、窓辺に置いてあった椅子の脚に、ロープがくくりつけられている。
きっとヤナが手引きしたのだろう。そのロープを辿って、ヴィンセントはここまで上ってきたのだ。
「……危ないこと、しちゃ、駄目だよ」
ロープを隠したヴィンセントがこちらに戻ってくると、オリアナは言った。熱のせいで口が渇いて、上手くしゃべれない。それを読み取ったヴィンセントが、サイドボードに置かれているポットから、コップに水を注いだ。
「安心して欲しい、無理なことはしない。――飲めるか?」
「飲めなぃ」
「頑張って飲むんだ。褒美を持ってきている」
ご褒美という単語に励まされ、オリアナは手を差し出した。くすりと、ヴィンセントが笑った声がする。
ヴィンセントはオリアナの腕を取ると、オリアナの背にも腕を回して起き上がる補助をしてくれた。そして自分にもたれ掛からせると、コップをオリアナの手に渡そうとする。
「飲ませて、くれないの?」
「自分で持ったほうが飲みやすいだろう」
「飲みにくくても、いい」
ヴィンセントは戸惑いながらも、オリアナの口元にコップを当てた。オリアナが飲もうとするタイミングと、コップを傾けるタイミングが合わずに、コップの端から水がこぼれ落ちる。
ヴィンセントはコップをサイドボードに置くと、慌てて濡れた箇所を自分のローブの袖で拭く。
「ほら、言っただろう」
「口移ししてくれたらいいのに」
「……そういうことは、体調が万全な時に言ってくれないか」
ちぇ、と心の中で毒づくと、今度は自分でコップを持って飲んだ。それだけでも疲れてしまい、オリアナは再びベッドに横になる。
「飲んだよ。ご褒美ちょうだい」
「取り立てのようだな」
ヴィンセントがベッドに腰掛けた。笑っているのが、声の調子でわかる。オリアナは途端に目頭が熱くなった。
「――ヴィンセント、会いに来てくれて、嬉しい。熱出しちゃって、ごめんね」
「舞踏会なんか、これからまたいつでも行ける」
「ヴィンセントは、そうだろうけど――」
熱のせいで本音が飛び出してしまい、オリアナは口を閉ざした。ヴィンセントは黙った後、少し怒った声で「だろうけど?」と、オリアナが飲み込んだ言葉を促した。
「……私は多分、ヴィンセントと行けるの、これが最後だったし」
オリアナはもごもごと口ごもった。熱のせいだけじゃ無い。あまりにも、言いにくい事実だった。
――ヴィンセントとオリアナの恋人関係は、一時的なものだ。
ヴィンセントは卒業後、然るべき家柄のお嬢さんと結婚する。オリアナの手が届かない人になることは、誰もが知っている公然の事実だった。
オリアナは、成績オール優保持の”最も都合のいい女ベストオブラーゲン”である。
学校中の、誰もが知っている。だから大げさに騒がれても、オリアナを面と向かって批判するような人はいなかった。
どうせ、卒業までの関係だと知っているからだ。
だがそんな事情とは関係の無い部分で、付き合い始めたばかりの恋人が別れを匂わすことは、ルール違反だろう。
いつか別れることなんて、わかってる。
それに、どれだけ条件の合う二人でも、別れが訪れることはある。だから、別れがくるその日まで、自分達はずっと一緒にいるんだとでも言うような顔をして愛し合うのが恋人のルールだと、オリアナは思っていた。
「最後じゃない」
固い声で、ヴィンセントが告げる。
「これから何回でも、何百回でも、舞踏会を開こう」
「……え、ホスト側なの?」
「引っかかるところはそこか?」
ヴィンセントが笑って言う。こんなひどいことを言った恋人に、笑ってくれるヴィンセントの優しさが痛かった。
「ありがとう」
「冗談だと思っているだろう」
「え?」
冗談、もしくは慰め以外の、何だと言うんだ。
「君が望んでくれるなら、十分に心積もりがある。悪あがきをし続けててよかった。頼むから、一人で結論を出さないでくれ――熱が下がったら、またちゃんと話そう」
寝転がったまま、きょとんとしているオリアナを見て、ヴィンセントがベッドに手をつき、体重をかけた。
突然、横になっているオリアナに、ヴィンセントが覆い被さった。
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