第153話 星の墜落 - 08 -


 ――幼い頃、腕を失いそうになった事がある。


 エテ・カリマ国は、多くのことを力が支配する。そして、アズラクは力を持っていない者だった。





 八歳になるまで、王子らと共にハーレムの中で育ったアズラクは、悪意渦巻くハーレムの中でやっかまれる存在だった。


 ザレナ家は古くから王に仕える血筋ではあるが、到底王子と対等に話せるほどの出自では無い。

 しかし、乳兄弟である第八王子シンラは、アズラクを本当の兄弟、もしくは一番親しい友人のように慕った。

 そのため、幼いアズラクには、使用人としての自覚が芽生えておらず、周りからやっかまれていた。


 まだ七歳だったアズラクは、簡単に貶められた。


 シンラとシンラの母が住む部屋から、カーテンのタッセルが紛失したのだ。


 タッセルが無くなる直前に出入りしていたアズラクが、窃盗犯と罵られ、ハーレムの管理人である宦官かんがんに、ハーレムの広場まで引きずられた。


 いつもアズラクの傍にいたシンラは、シンラの母と共に王に呼ばれ、ハーレムには不在にしていた。庇護者であるシンラらがいない時を見計らって、他の使用人がアズラクを陥れようとしたのだ。


「お許しください。まだ幼い子どもです。咎なら私が。どうぞ、どうぞお許しください」


 シンラの乳母であるアズラクの母は、地に額をこすりつけて、してもいない息子の罪を詫びた。


 窃盗は重罪。顔に焼き印を押され、一生消えない罪を背負う。

 だが王族の所有物を盗んで、火傷程度で済むはずが無い。


 地に伏せたアズラクは、上から管理人に押さえつけられた。アズラクの細い腕が、他の宦官に押さえつけられる。


 管理人の腰にはかれた鞘から、鈍い色の刃が抜き出される。アズラクの見開いた瞳から止めどなく涙が溢れる。喉が枯れるほど叫んだ「やっていない」という言葉を、もう一度叫んだ。


 首を捻って管理人を見上げる。無罪を叫ぶアズラクの目の前で、太く湾曲した刃が持ち上げられる。太陽の光が鈍色に輝く刃に反射して、アズラクの目に陽光が走った。


 その時だった。


「お前達の捜し物は、これ?」


 鈴が鳴るような軽やかで美しい声が、興奮渦巻く広場に響く。

 カチリ、とタッセルに着いている玉同士がぶつかって、小気味いい音が鳴った。


「アッズァはやっていないわ。きちんと捜しもしないなんて。王に言いつけてやろうかしら」


 五歳のヤナが無邪気に笑うと、アズラクを取り巻いていた大人達が飛び退いた。潮が引くようにアズラクの周りから人がいなくなる。


 恐怖で全身を汗や尿でぐっしょりと濡らしたアズラクに、ヤナが手を差し伸べる。


「アッズァ、いらっしゃい」


 アズラクは力の入らない膝でなんとか立ち上がり、ヤナの元に逃げた。ヤナはアズラクが汚れているのもかまわず、ふらふらとよろけるアズラクを抱き留める。

 そしてアズラクの手をぎゅっと握りしめると、そのまま彼女の部屋に連れ帰った。


 後に、ヤナが持ってきたタッセルは、彼女の部屋の物だったことがわかった。召し使いによって奪われたシンラの部屋のタッセルは、最後まで出てくることは無かった。


 ヤナが持ってきたタッセルを、シンラ達が「私の部屋の物だ」と言い張ったことも、人づてに聞いた。

 そして、ヤナの部屋のタッセルは、ヤナがお転婆をした際に無くしてしまったという理由で、新しく買い足された。


 仮に、シンラの部屋の物で無いとあの時にわかっていたとしても、ヤナに逆らう者はいなかっただろう。


 それほどヤナとそれ以外の者には、力の差があった。


「お前が怖い時は、私がいるわ。これからはずっと、一緒よ」


 ヤナから差し伸べた手だった。


 その手に縋ったのは、アズラクだ。


 縋られた手を、ヤナはずっと放さなかった。ハーレムではありきたりな話。きっともう、あんなに小さな頃の話を、ヤナは覚えていないだろう。


 けれど、アズラクは忘れられるはずが無い。


 悔しかった。


『やっていない』


 王の娘と言うだけで、同じ言葉の重みが違う。


 ――誰もを退かせられる力が欲しいと思った。


 一介の使用人でしかないアズラクには、武力しか選べる道が無かった。

 幸い、年を重ねるごとに体格に恵まれていった。シンラのコネで師にも恵まれ、アズラクはめきめきと上達した。

 八つになりハーレムから生家に住まいを移しても、シンラとヤナの遊び相手として王宮の出入りを許された。そして後に、ヤナの護衛に抜擢される。


 わかりやすい力が欲しかった。


(あんなに小さな手に、守られなくても済む力が)


 ヤナを守れる力が欲しかった。


(導かれるのでは無く、ともに歩む力が)


 それからヤナとアズラクは、誰よりも近くにいた。アズラクを傍においてから、途端に聞き分けが良くなったヤナは、我が儘もほとんど言わなくなっていた。欲しい物も言わず、好きな物も言わないヤナだったが、唯一、アズラクと握った手だけは放すことは無かった。


 何の干渉を許さないほどに、互いにとって特別な存在だと、アズラクは思っていた。


 だから――


「ヤナ。お前をアズラクと添わせる」

「あらお父様。それだけは、絶対に嫌ですわ」


 あの言葉を聞いたとき、世界が揺らいだのかと思った。


 自分の抱えていた物が、身の丈に合わない恋心だったのだと、遅まきながら気付いた。


 婚姻を拒否されても、ヤナから寄せられる信頼は変わらなかった。

 そしてやはり、ヤナはアズラクの手を放さなかった。


 試練の護衛として、誰よりも近い場所で、ヤナを守ることを許された。


(ならば今度こそ、俺がヤナ様を守ろう)


 己の恋心など捨てるに値する存在だと、とうに知っていた。




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