第131話 泣き顔は見せないで - 01 -


「最近よく、ぼうっとしているな」


「えっ」


 驚きすぎて、インクが跳ねた。

 跳ねたインクがレポートと、隣に座るヴィンセントの腕にかかってしまった事に気付き、さーっと顔を青くする。


「わー! ごめん!」

「ローブだから気にするな。それよりも、声が大きい」

「重ね重ね……ごめんなさい」


 自習室にいる人々から、ギロリと睨まれる。目の前に座るミゲルが、静かに肩を揺らしていた。笑っているのだろう。オリアナは口を閉じ、レポートに向き合った。


 いつの間にか季節は秋に向かっていた。ラーゲン魔法学校にとって秋とは、芸術でも食欲でも無く、試験の季節である。


 まだまだ試験期間とは遠かったが、早め早めの対策が必要――と自分に建前を与え、オリアナはヴィンセントとミゲルと共に、自習室で自習していた。


「考え事か?」


 ヴィンセントが極々小さな声で話しかけてくる。


 勉強に集中出来ていないことは、お見通しだったようだ。オリアナは顔を上げ、そして下げ、「はい」と小さく呟いた。


「何を悩んでいる。力にはなれないことか?」


 オリアナはまた小さく「はい」と答えた。


「……そうか。僕が手助けできそうなことなら、いつでも声をかけてくれ」

「はい……」


「それより……そこ、間違えてる」

「えっ、すみません。どれですか」

「ここ――」


 ヴィンセントの肩が近付き、指がレポートに伸びてくる。

 ほのかにシダーウッドの匂いがして、オリアナはむぐぐと唇を噛みしめた。


 せっかくのヴィンセントの厚意だが、オリアナがこの件で彼を頼ることは無い。


(だって――)


 最近考えてるのは、いつもヴィンセントのことだ。


 ヴィンセントを好きになってから、指先一つ自分に向けられることが嬉しくなった。人混みの中でもヴィンセントを見つける事が上手くなった。ほんの少しの隙間時間でもヴィンセントのことを考えてしまうし、クラスメイトと昼休みを過ごしている時でさえ姿を探してしまう。


 教科書を開くと、今どこらへんをやってるのだろうと考えて、会うと意識しすぎてしまう。


(全部やめたい、けど。自分じゃやめられない)


 ままならない恋に、開き直るだけの強さが欲しい。いっそ、ヴィンセントに好きな人がいることも気にせずに、思いを伝えられたら楽なのかもしれない。


 だが一度言葉にしてしまえば、それはオリアナを造り出す要素となる。オリアナはこれから”ヴィンセントを好きな女生徒”として、彼に見られるようになる。


 それは、ヴィンセントの求める”お友達”では無いのだと、何度も何度も、自分にすり込むように言い聞かせる。


「ヴィンセントと勉強するようになって、順位上がったんだよ」

「そうか」


 ヴィンセントが顔を上げ、顔をほころばせる。美しく笑う男だ。オリアナは頬を緩ませた。


「えへへ。ありがと」

「君は目標を決めれば努力を厭わない」

「え、そ、そうかな?」

「そうだ。特待クラスに来られる実力だってあったのに」

「あはは。流石にそれは無いよー」


 なんだ冗談かと笑って言うと、ヴィンセントは慈しみ深い目をしてオリアナを見た。


「――魔法陣の勉強だって、ダンスレッスンの立ち上げだって、頑張ってくれただろう。君のそういうところを、僕は尊敬している」


 目玉が落ちそうだった。あのヴィンセント・タンザインに尊敬していると言って貰った生徒が、これまでにどれほどいただろうか。


 好きな人に真正面から褒められ、認められて、オリアナは顔を赤くして動きを止めた。ぽたりと、またレポートにインクの染みが出来てしまった。





***




「ミゲルさん。ちょっと」


 ちょいちょいと手招きをして、特待クラスからミゲルを呼び出した。

 先ほどヴィンセントが、一人で魔法薬学施設の方に向かっていたのはリサーチ済みだ。今頃、ハインツ先生の元にいるか、畑で魔法道具の実験をしているに違いない。


 オリアナに呼ばれるがままに、ミゲルはすんなり廊下に出て来た。隣に立つ長身の男を手招きし、身をかがめさせて影を作る。廊下の隅でこそこそと、オリアナは自分のローブを探った。


「これを……」


 すすす、とローブの袖の中から袖の下を取り出す。父から送ってもらった、有名菓子店で作ったスティックキャンディの詰め合わせだった。


「……賄賂かな?」

「左様でございます」

「受け取ろう」

「ありがたき幸せ」


 ははーと両手を合わせて拝むと、ミゲルは獲物を見つけた猫のように目を光らせ、にんまりと笑った。


「んで、どったの?」





「ヴィンセントの好きな物?」


 談話室に移動したオリアナは、ミゲルに深々と頭を下げていた。


「ミゲルのはすぐにわかったんだけど、ヴィンセントの好きな物って見当も付かなくて……日頃のお礼に何かあげたいんだけど」


 オリアナとミゲルは、本棚の傍に立っている。談話室のソファは限られた数しかなく、皆が座れるわけでは無い。少し立ち寄っただけでソファを使うのも憚られ、二人は部屋の隅で立ち話をしていた。


「えー俺も聞いてほしかった。別に飴そんな好きじゃないしー」

 ミゲルが拗ねた顔をする。


「好きじゃないの?! いつも食べてるのに!?」

「これはまあ、なんか癖って言うか。糖分とってたら、不安にならなくて済むだろ?」

「そうなんだ……? 飴が好きじゃないとは思わなかった。ごめん。引き取る?」

「必要だし、ありがたく貰っとく」

 嗜好品に、好きじゃ無いのに必要なことなんてあるのだろうか。オリアナはとりあえず頷いた。


「じゃあ、ミゲルも好きな物教えてよ。これは賄賂になっちゃったし。ミゲルの好きな物もあげたい」

「え? まじで? やったー。何貰おうかなあ。考えててもい?」

「いいよ。私のお小遣いの範囲にしてね」

「おっけ」


 満足そうなミゲルを見て満足してしまったオリアナは、一瞬本題を忘れてしまっていた。慌てて本筋に話を戻す。


「それで、心当たりありませんか?」

「んー……ヴィンセントなぁ。オリアナをあげれば?」

「オリアナちゃんかぁ。確かに、私が渡せる物で一番高額だろうけどさあ?」


 子どものお小遣いと、父の用意させる持参金では、比べものにならない。


「ヴィンセント喜ぶと思うよ。オリアナちゃんがお嫁さんになったら」


「ごめんミゲル。この流れはもう終わりにしてほしい」


 手を差し出して、NOと言う。オリアナちゃんは、NOと言える女の子なのだ。


 冗談にしてあげたいし、冗談にすべきなことはわかっていた。だが最近、本当にこの手の話題に弱くなった。すぐに顔が赤くなってしまう上に、上手く誤魔化せなくなってきている。


(だってヴィンセントが、ヴィンセントが優しいから)


 それに、いつも傍にいてくれる。特別な位置で甘やかされている気さえしている。


 そんなことに一々喜んで、一々舞い上がって―― 一々へこむ。ヴィンセントの好きな人は、シャロンだ。


 あのなんちゃってデートに出かけたあの夜以降、ヴィンセントの傍でシャロンを見かけてはいない。元々、三年生の時もヴィンセントの周りにシャロンの存在を感じたことは無かったので、クラスが違えばそんなものなのだろう。

 特待クラスと第二クラスには、それほどの隔たりがある。


「ごめんね。怒っちゃった?」


 いつの間にか俯いていたオリアナを、百九十センチの巨体が下から覗き込んでくる。あざといことに、完璧な上目遣いだ。


「何それ……! 止めてください奥さん……僕には将来を誓い合った妻がいるんです……」

 両手で口元を押さえ、ミゲルの可愛さに打ち震える。


「私の事も、考えてくれるって言ったくせにっ……!」


「何をしているんだ」


 談話室の隅で不倫の寸劇をやっていたオリアナは、ピタリと体の動きを止めた。


「いいいいいいいい今の聞いてた?」


「聞いていた。君に妻がいるとは初耳だったな」


(よかった。聞かれたく無かったところは、聞かれてない)


 ホッと胸を撫で下ろすオリアナを、ヴィンセントはじっと見つめてきた。なぜだか責められているようで、オリアナは少したじろいだ。


「……どうかした?」


「いや――」


 歯切れ悪く返事をするヴィンセントの肩を、ミゲルがぽんと叩いた。耳元に口を寄せ、オリアナには聞こえない音量で何かを告げている。


 ヴィンセントがきつくミゲルを睨み付けると、ミゲルはてへっと笑ってオリアナを見た。


「じゃあねオリアナ。あとは本人に聞くといいよ」


「ちょっミゲ――!」


 ミゲルが「ばいばーい」と無邪気に手を振る。間違った。無邪気を装って手を振る。


「本人が、何だって?」


 ヴィンセントがにこりと微笑む。


 オリアナは為す術無く、置き去りにされた。





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