第68話 白い空と赤い炎 - 03 -
書斎を出ると、同じ部屋に控えていた執事もヴィンセントに付いてきた。
父と話をする時に傍にいて欲しいと、執事に頼んだのはヴィンセントだった。二人きりだと簡単に血が上り、簡単に父のペースに乗せられるのは目に見えていたからだ。
「ヴィンセント様」
「いい、わかってる。何もかもを鵜呑みにするほど、僕も子どもじゃ無くなった」
書斎を出て階段を上ると、執事が遠慮がちに声をかけてきた。ヴィンセントは苦々しい顔を浮かべる。
幼い頃の自分は、とにもかくにも、父に笑って欲しかった。
ヴィンセントが頑張れば、父は大層嬉しそうに笑ってくれた。公爵家の長男として生まれ、誰からも尊敬され、愛されてきた父は、人の動かし方を知っていた。
そして必ず、得をしてきた。
「父さんは善人じゃない。だが、悪人でも無い」
父は、損をしなければいいと言ってくれるほど優しい気質では無いが、得があるならある程度は大目に見てくれる。
オリアナがヴィンセントの傍に居続けることが父にとって得であれば、絶対に許してくれる。
(本当は、自分がもうすぐ死ぬ運命だったのに、オリアナが助けてくれたのだと言えれば――)
そんなことを言ったところで、頭がおかしくなったと思われるか、結婚したいがための嘘をついた不誠実な息子だと評価を下げられるのがオチだ。
オリアナのことが無くても、ヴィンセントは領地は完璧に守る上に、魔法学校での成績も紫竜家に恥じないものを修めるつもりだ。
そんなヴィンセントに差し出せるものは、自分の時間しかない。
何でも持っているように見えて、ヴィンセントが自由に出来るものは、何も無い。
元々ヴィンセントは、父にオリアナの話を持っていく際、自分の時間を明け渡すつもりだった。オリアナと共に未来を歩けるのなら、五年でも十年でも――いくらでも、父の言いなりになる覚悟だった。
だがもちろん、こちらから言うつもりはさらさら無かった。
最初にヴィンセントから条件を突き出してしまえば、父が本心ではどう思っていようとも、必ずヴィンセントに条件を呑ませようとすると知っていたからだ。
結果、言わずに済んだ。父は無条件で「庶民の娘がヴィンセントの恋人であること」までは認めてくれた。
紳士らしくない態度だったろうが、関係ない。大きな賭けに勝った気分だった。
だが――ヴィンセントの心は晴れ晴れとまではいかなかった。
『向こうは、学生の間だけ”ヴィンセント・タンザインの彼女”でいたいのかもしれんだろ?』
この言葉は、かなり効いた。
ヴィンセントにとって、オリアナとの恋は特別な恋だった。
生涯、恋をすることもなく、決められた相手と結婚し、大事な領地と、無難な家庭を守り抜くのだと思っていたヴィンセントは、この恋を運命のように感じていた。
だから、オリアナも同じ気持ちでいるのだと――いや、自分なんかよりもずっと特別に感じてくれていると思っていた。
最近のオリアナは、
ヴィンセントを案じながら生きてきたオリアナも同じ気持ちだと、盲目に信じ込んでいた。それ以外の可能性を、考えたことも無かった。
(彼女は卒業後、僕の方を向いていないかもしれない)
彼女にも、家の都合があるだろう。余所の誰かを優先して、紫竜公爵家との婚姻を蹴る親がいるとは思えなかったが、それを言うのなら、人生を二度生きている女性がいるだなんて、ヴィンセントは考えたこともなかった。あり得ない、はあり得るのだ。
「父の言う通り、流石に勇み足過ぎたな……彼女は、僕との結婚なんて考えて無いかもしれない」
自室に入り、魔法学校に戻るための着替えを従者に手伝わせながら、ヴィンセントは自嘲した。従者が恭しく、ヴィンセントの腕にジャケットの袖を通す。いつもは一人でしていることも、公爵家では複数人の手が必要になる。
従者がボタンを留めていると、執事が目尻の皺を深くして微笑んだ。
「では、しばしお耳を拝借願います。不要なれば、年寄りの戯言とお聞き流しくださいませ」
「お前の言葉を、僕が聞き流すはずが無いだろう。言って欲しい」
この執事は、ヴィンセントが幼い頃から世話を焼いてくれていた。家族同然の付き合いがある執事は、すでに六十を超えているだろう。
「もし仮に、お嬢様がそのような心づもりだったといたしましょう。ですがヴィンセント様。貴方様までもが、お嬢様に同じ気持ちを求めた場合、望む未来は遠のくばかりでしょう。ヴィンセント様が確固たる決意を持っていらっしゃることは、なんの不都合も起きません」
ヴィンセントはハッとして、執事を振り返った。
例え、父の言うとおりオリアナが学校内でだけの恋人を求めていたとしても、格好を付けてヴィンセントまで軽い付き合いを求めなくてもいいのだ。
オリアナの心を変えることが出来るのは、ヴィンセントだけだろう。
その時に、ヴィンセントまでもが軽い付き合いを求めていては、オリアナが結婚を望むことは、決して無いに違いない。
「……やはりお前には、いつまでも元気でいてもらわなければな。今年の誕生日も楽しみにしていて欲しい」
毎年、執事の誕生日に姉や妹と一緒にプレゼントを贈っているヴィンセントは苦笑を向けた。執事にとってはヴィンセントも、もしかしたら公爵でさえ、まだまだ手のかかる子どもと思っているかもしれない。
「幸せ者でございます」
執事は心底嬉しそうな笑みを浮かべた。彼に話し合いに同行して貰ってよかったとヴィンセントは心から思った。
着替えを終えたヴィンセントが、ローブを手にした。ヴィンセントが体をドアに向けるだけで、ドアの前に控えていた使用人がドアを開ける。
「それでは、ヴィンセント様」
執事が深く腰を折った。
「いってらっしゃいませ」
執事と、複数の使用人の声が重なる。よく教育された、愛すべき使用人達だ。ヴィンセントは目を細め、皆の姿をゆっくりと視界に収めると、頷いた。
「ああ、いってくる」
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