最終回 窮極の門

 真っ白な闇が視界を侵蝕していく。上下も左右もわからないその中で、オレは。。宇宙の闇の色をした黒髪を長く振り乱し、毒々しい緑の瞳を細め、少女と見まごうそのかんばせは絶望と疲労を湛えてもなお、狂気のように笑む。似てるのなんて色味くらいだが、其れは確かにオレの――

「みつけた」

 其れの発した声があまりに嬉しそうだったから。まるで永い旅を終えたような声だったから。オレはこの異常事態を一瞬忘れて、手を伸ばした。指先が其れに触れる。体が溶けて、一つになっていく感覚。オレと其れの境目がなくなっていく。兄貴とセックスするときだってここまで「一つになる」感覚を得られたことはない。オレは今この場所では、絶対で……万能だった。

 目を開く。腕を一振りすれば、オレの映身アバターの纏う黒い鎧は解けて白いローブに形を変えた。発動語コマンドを経由しない形態変化にも兄貴は動じない。ただ、ひどく憐れむような顔をしてオレを見るだけだ。まだ自分の優位を疑わないのか。オレを保護対象としてしか見ないつもりか。

「ルー、それはお前が思ってるものじゃない。まだ間に合うからそんなもの捨てろ」

 淡々と距離を詰め、諭すような言葉を吐く兄貴の余裕の理由も、今のオレにはわかっていた。視えるから。ルールの抜け穴、直接発動語コマンドに含まず根源ゲヘナの渦を拡大する方法を兄貴は知っているんだ。兄貴だけじゃない。治安維持部隊ミトゥナ隊の人は、多分全員。でも。

「残念だったな、兄貴。それじゃオレは止まらないぜ? 試してみるか?」

 この力オレ根源ゲヘナの渦の向こう側のものだ。根源ゲヘナの渦を開いた根幹である魔道体系ならともかく、ただの箱庭遊びである魔道式精神遊離決闘シェオルごときの1ルールでは縛れない。挑戦的に笑ったオレに、兄貴は不敵に笑い返す。

「そりゃ、ただの裏発動語コマンドならな。だが――其れそのものの基盤からひっくり返せる発動語コマンドがあるとしたら?発動コール。『眠り揺蕩う薔薇香の海』」

 舞台定義文フィールド・コマンドが唱えられた瞬間、視界が真っ白に覆われる。根源ゲヘナに呑まれて定義崩壊ブレイクするときの、あの、魂が渦に引き寄せられる感覚。去年の決勝戦に起きたのはこれか、と今更になって合点がいった。

 視界が晴れる。一瞬とはいえ根源ゲヘナに晒されたのは兄貴も同じ。定義崩壊を起こしかけ、膝をつく兄貴の肩に手を添え、オレは嗤う。この力オレは、根源ゲヘナに触れたくらいでは定義崩壊なんて起こさないから。オレはまだ負けてなんかいない。だから、オレはもう一つ、授けられたコマンドを囁く。『眠り揺蕩う薔薇香の海』だなんて、笑わせるじゃないか。

「発動――『一にして全、根源を越え窮極に至れり』」

 オレの、勝ちだ。勝ちを確信した瞬間。兄貴がオレの腕を掴んだ。兄貴はオレを見る。笑っていた。何故? 兄貴にはもう打つ手はないはず。勝ったのはオレだ。だというのに、兄貴は心底おかしそうに笑って、唇を開いた。

「勝ち逃げはさせない。敗けたのはお前の方だ、ヘンルーダ」

 はっ、お綺麗な勝ち方に拘ってんのは兄貴もじゃねえか。そんな憎まれ口を叩こうとして、異変。兄貴の唇から洩れるのは、決闘シェオル用のお遊びの発動語コマンドではない、本物の術式。魔道のオート化が進んだ現在では最早幻になったそれを、治安維持部隊ミトゥナ隊である兄貴は継承していた。展開された術式を周りに纏わせて兄貴は目を閉じる。

「ヘンルーダ、お前を軽蔑するよ」

 兄貴は嗤って――そして、根源ゲヘナの渦に身を投げた。オレの勝ちだ、そう思ったのに。何故か試合終了の通知は鳴らない。観客達も、審判ジャッジすらもいつの間にか消え去って、オレは精神世界シェオル・フィールドに独り立っている。没入ダイブ・インを解除しようにも、入力したコマンドはエラーを吐くばかりだ。幸いにしてオレの得た力はコマンド無しで没入ダイブ・インを解除するくらいなら容易だったから、世界の位相をいくつかむりやりすっ飛ばして、オレは現実に帰りつく。

 魂の抜けた自分の体を見下ろすのは変な気分だった。魔道なんて通さなくても、体と接続する方法は魂が知っていたから、オレは体に戻って電気の落ちた薄暗い選手室から出ていく。会場はしんと静まり返って、人気がない。まるで今日は使われていない日のようだった。

「兄貴? みんな?」

 思っていたより心細げな声が出た。返事はない。照明の落ちた静かな会場から出ようとしたオレの後ろから足音。振り返れば不審そうにオレを見る警備員の姿がそこにあった。

「キミ、どうしたんだい? こんなところで」

「あの、大会は? 兄貴はどうなったんですか?」

 オレがそう問えば、警備員は溜息をつき、それからややあっておかしそうに笑った。

「キミ、大会関係者の身内かい?今日の決勝戦はここじゃなくて隣町の会場で今やってるはずだよ。場所を間違えたんだねえ」

 そんなはずはない。オレは確かに決勝戦に向かってたはず。松柏のアスト対常盤木のヘンルーダ、みんな知ってるだろ? そう警備員に食ってかかると、警備員は不思議そうな顔をして首を傾げた。

「はて? そんな名前の選手いたかな?今回の決勝戦は――」

 教えてくれた名前は、聞いたことがない選手のものだった。嘘だと思うならトーナメント表を確認してごらん?そう言われて発動体ガジェットを取り出して調べてみれば、オレの名前も、兄貴の名前もトーナメント表のどこにもなかった。

 念のため、治安維持部隊ミトゥナ隊の記事も漁ってみる。最新は、カナヴィにいちゃんの入院を発表するもの。でも、その原因になった試合は兄貴とのものじゃない。聞いたことのない選手に置き換わっている。本当に、兄貴は消えてしまったのか?

 オレは震える手で母さんに連絡する。コール3回で母さんの明るい声が聞こえてきた。

「もしもし? どうしたの、ヘンルーダ。久しぶりにあんたの方から連絡してくるなんて。ホームシックかしら?」

 よかった、オレは忘れられてない。意を決して、母さんに問う。

「……あのさ、母さん。兄さんって今どうしてる?」

「はぁ?独り暮らしの人恋しさで幻覚でも見たの?あんた一人っ子でしょうが」

 あんたもホームシックなんてかかるのねぇと母さんはけらけら笑って、たまには実家にも顔出しなさいよ、と言い含めて電話を切る。

「どうした、キミ。顔色悪いぞ?」

 心配そうな警備員が家までついていくというのを固辞して、オレは家に向かう。兄貴と暮らした家。いつもの家の表札に、兄貴の名前がないことを確認した瞬間、オレは耐えきれず崩れ落ちたのだった。

 それからのことはよく覚えていない。物置になっている兄貴の部屋を見て、いつも通りのオレの部屋を見て。ベッドに倒れ込むようにして昏々と眠る。それがオレの人としての最後の記憶だ。  

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