第3話 出場辞退!?どうする、ヘンルーダ!!

 ぴちゃぴちゃと水音が響く。ずっと歯が当たらないように咥え続けるのも限界で、閉じられない口の端から伝う唾液の感触が気持ち悪い。そろそろ顎も疲れてきたから離しても許されるかな、なんて想いで上目遣いに見つめると、どうやら機嫌を損ねたらしい。上顎の裏を擦って、より奥に靴の爪先が捻じ込まれる。ぐ、と生理的な吐き気を堪えるために口を閉じようとすれば、冷たい声が降った。

「ルー、靴が傷つくからやめなさい」

 返事をしたくても、靴を舐めてるから言葉は喋れない。仕方なく喉奥で小さく唸ると満足げに唇の端がつり上がるのが見えた。誰のって、兄貴だ。当然だろ。愛してなきゃこんなことしない。愛してる奴以外の奴の靴を這いつくばって舐める奴がいたらそいつは変態だ。合成皮革の酸っぱいようなしょっぱいような妙な味はクソマズいし、靴底のゴムと歯が擦れ合う感触も不快でしかない。それでも、甘んじて受け入れているのは。

「もういいよ。お前が悪いと思ってる気持ちは十分伝わってきたから」

 ゆっくりと口の中から爪先が引き抜かれていく。オレの唾液でてらてらと濡れた黒い靴の爪先。それは妙にエロい眺めだった。ようやくまともに息ができるようになって、ごくりと唾を呑み込む。立ち上がったオレの乱れた髪を殊更に優しく梳いて、兄貴は柔らかく微笑んだ。

「これに懲りたら二度と闇魔道式精神遊離決闘シェオルなんてするなよ?」

 そう、事の発端は今からだいたい6時間ほど前に遡る。あの女の子の魔道発動体ガジェットを賭けて男と魔道式精神遊離決闘シェオルを繰り広げたあの時に。

 没入ダイブ・インしたオレを迎える精神空間シェオル・フィールドはいつも通り殺風景で目に痛い白だった。中心に渦巻く根源ゲヘナの渦から距離を取りつつオレはあらかじめ編んでおいた舞台定義文フィールド・コマンドを素早く発動コールして精神空間シェオル・フィールドを塗り替えていく。

 魔道の基本は想像力、発動語コマンド発動コールして世界を自分の定義、自分の理に塗り変えていくのが基本だ。魔道発動体ガジェット溜めてセーブしておいた8つの発動語コマンドを自由なタイミングで発動コールして先に定義崩壊ブレイクするか降参した奴が負けのシンプルな魔道式決闘、その中でも精神を別のフィールドに飛ばして行うのが魔道式精神遊離決闘シェオルってわけ。そして、各3つまでの舞台定義文フィールド・コマンド精神世界シェオル・フィールドに直接作用する奥の手とか必殺技になる。

舞台定義文フィールド・コマンド発動コール、『桜花絶唱』」

 満天の星空に散る薄紅の桜の花びらが視界を覆っていく。桜花絶唱はオレの最も得意とするフィールドだ。その桜舞うフィールドに。

舞台定義文フィールド・コマンド発動コール、『斜陽裏世界』」

 吉祥天シュリーと名乗った男の詠唱が重なる。赤い西日が桜を怪しく照らし、影がうぞうぞと蠢いた。このように、相手も舞台定義文フィールドコマンド発動コールした場合、お互いの発動コールしたフィールド同士が食い合ってせめぎ合いになる。魔道の基本は想像力、魂を燃やす関係上、先に舞台フィールドを定義すれば相手の認識を揺さぶれる分有利になるってわけ。

「先行はくれてやるよ」

 吉祥天シュリーがオレへと手のひらを向ける。余裕たっぷりって感じだ。舐めやがって。第1手番で片づけてブレイクさせてやる。第1手番の表記を確認して、オレは発動体ガジェットに浮かぶ8つの発動語コマンドを眺める。まずは、そうだな。オレは吹き荒れる花嵐に手を翳す。

発動コール!『花嵐は空舞う星、星の光は全て刃』」

 桜花絶唱からのお決まりのコンボだ。花びらから星、星から刃へと発動語コマンドで定義をずらし、刃の雨を降らせる。自分も切り刻まれるけどこの際構っていられない。今回は夜景じゃなくて斜陽に精神世界シェオル・フィールドの景色が塗り替えられてるから大した威力は出ないけど、人によってはそれでも定義崩壊ブレイクを狙える。

 刃の嵐が止み、視界に映った吉祥天シュリー映身アバター――オリエンタルな装飾を纏った妖艶な女性は修復が追い付かなくなるくらい深く傷を負っていた。でも、まだだ。定義崩壊ブレイクにはまだ足りない。

「もう既にだいぶ体の方にフィードバックが来てると思うぜ。降参したら?」

 オレの黒い鎧を着た細身の騎士の映身アバターの傷はギリギリ修復が終わる範囲だ。吉祥天シュリーの周りを思考の速度で飛びながら問う。

「ナマ言ってんじゃねえよ、ガキ。それより、ほら。背後がお留守だぜ」

 振り返ろうとした瞬間、頭に猛烈な衝撃。殴られたのか?でも一体いつ発動コールしたんだ?なんとか踏みとどまったオレの疑問の答えはすぐに見つかった。

「防御に回す札が惜しいからな。『花嵐は空舞う星、星の光は全て刃』に合わせてこいつを発動コールしたってわけだ」

 吉祥天シュリーの前に庇うように浮かぶのは赤い漆塗りの盾だった。

「『猛撃は止まず、雄叫びは戦場に響く凱歌』か……考えたね」

 ガンガン痛む頭に手をやりながら、オレは次の発動語コマンドを繰る。生半可な発動語コマンドはあの攻守一体の盾に防がれる。そうなると、一撃の重さより手数と回避が難しい攻撃で勝負をつける高速範囲型コンジャラースタイルのオレはかなり不利だ。

「どうしたァ?来ねえならこっちから行くぞ」

 嘲笑う吉祥天シュリーに薄く微笑みを返し、オレは次の発動語コマンドを小さく囁く。

発動コール『影は万物巡り、根源は其を覗く』」

 影を媒介に根源ゲヘナに作用する精神系の発動語コマンドだ。映身アバターの定義には影響しないけど、決闘者ダイバーの精神に直接作用して定義崩壊ブレイクに導く。根源に作用する発動語コマンドはむき出しの魂に作用する分フィードバックが大きく、表の大会では禁止指定されている。

「これで終わりだ!常盤木エバーグリーン!!」

 根源ゲヘナの渦を照らす斜陽から伸びた影がオレに襲い掛かろうとした吉祥天シュリーの影に重なる。瞬間。一瞬だけ影に覆われた吉祥天シュリー映身アバターが膨らみ、はじけて崩れていく。

「テメェ!汚えぞ!」

 怒声もどこ吹く風。視界に浮かぶ「YOU WIN!!」の表示に満足してオレは精神空間シェオル・フィールドからの接続を切る。吉祥天シュリーフィードバックの影響でしばらく起きられないだろう。魂が肉体に吸い寄せられて戻る瞬間の嫌な浮遊感に目を閉じ、再度開く。フィードバックの影響で頭が痛む。顔を顰めると心配そうな顔の女の子と目が合った。

「ただいま。あいつはどこかな。しばらく起きられないと思うから今のうちにキミの発動体ガジェットを取り返しちゃおうぜ」

 女の子にウインクを一つ、オレは寝かされていた公園のベンチから起き上がる。こっちよ。とかけられた声についていくと、木の根元にのびてるチンピラ風の男がいた。男のポケットを探って女の子の発動体ガジェットを取り出し、手渡すと複雑そうな表情で女の子はそれを受け取った。

「ありがとう……でもあんた、何したのよ。すぐ起きられない程のフィードバックってまさか禁呪……」

 警戒しきった様子の女の子の前に人差し指を立てて、オレは自分の口元にもっていく。右目を軽く瞑って笑ってみせた。

「しーっ、これはオレとキミの秘密ってことで。じゃ、どっかでまた会ったらその時はよろしく!」

 そうやって家に帰るまでは、よくある一日って感じだった。玄関の扉を開いた瞬間、妙に機嫌のいい兄貴が腕組みしてるのを見るまでは。

「ヘンルーダ。闇魔道式精神遊離決闘シェオルはやめろって、俺口酸っぱく言ってるよな。しかも禁呪までデッキに入れてたって?」

 完璧な笑顔を浮かべたまま、兄貴は腕を組んでオレを見下ろす。治安維持部隊ミトゥナ隊の制服の赤い腕章が眩しい。それは……言い訳しようとしたオレを遮るように兄貴は言葉を続ける。

「警邏に回ってたカナヴィが没入ダイブ・インするお前を見たってこっそり教えてくれたんだ。早く帰ってきてよかった。俺がほっといた責任もあるし、これじゃ父さんと母さんに申し訳が立たないぞ。やっぱり発動体ガジェットを制限モデルに取り換えた方がいいか?」

「兄貴、ごめん」

 しょんぼりと頭を下げたオレの頭に手を載せ、兄貴は目線を合わせるとゆっくりと微笑んだ。

「ルー、本当に、心配したんだからな……」

 オレの頭を引き寄せて抱きしめながら、兄貴が小さく呟く。まずい。これは、本当に怒ってる。

「ごめんなさい……」

 蚊の鳴くような声で謝るオレに兄貴は小さく首を横に振った。

「明日、制限モデルの発動体ガジェットを見に行こうな」

「やだ、兄貴。ごめんなさい。なんでもするから、オレから魔道式精神遊離決闘シェオルを取り上げないで……」

 懇願するオレに兄貴はしばらく思案するようなポーズをとって、頷く。まだ微笑みを浮かべたままの兄貴が心底恐ろしかった。

「うーん、お前が反省してるのはわかったけど、今後も繰り返さない確証はないし……そうだなぁ。俺の靴とか、舐めてみるか?誠意があれば舐められるだろ、靴」

「……え、でも。それは……」

「嫌ならいいんだ。制限モデルと交換すれば済む話だしな」

 こうなった兄貴がオレの話を聞いた試しはない。う、とオレの小さなプライドが拒否反応を示すから、意志の力でねじ伏せて玄関の床に這いつくばる。舌先が、ミトゥナ隊の支給品である合皮の黒いブーツの甲に触れた。

 そういうわけで、話は冒頭に戻る。

「あ、そうだ。今年の大会は俺、シード枠だけど棄権するから」

 兄貴はオレの髪を慈しむように撫でながら、当然のようにそんな言葉を吐く。年に一度、国内最大規模の魔道式精神遊離決闘シェオル公式大会には権威維持のためミトゥナ隊から何人か出場する。前回優勝者である兄貴はシード権が与えられていた……はずなのだが。

「え……」

 オレの困惑も当然だろう。だって、だって。オレが魔道式精神遊離決闘シェオルのプレイ権を得た今年、ようやく兄貴と公式的に戦うことができると思ってたのに。

「えーっ!?」

 兄貴は、戦わないと言い出した。

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