小さな一歩、大きな一歩


「月島の家はこの辺なのか? それとも電車?」


「電車だよ、ちょっとだけ離れてるんだ」


「じゃあ駅の方か。後ろ乗るか?」


 俺は押していた自転車の後ろを指して、月島に尋ねる。何気ない会話のつもりだったのだけれど、月島はぎくりと表情を強張らせた。


「どうした? 時間も時間だし、終電ないとかはないだろうけど、遅いと電車の数減るからな。できるだけ早く着いた方がいいだろ?」


 大幕高校付近は、決して都会染みてはいない。田舎なのかと言われればそんなことはないと言い張りたいが、恐らく他から見ればここは田舎なのだろう。ここを田舎と言えば、本物の田舎に失礼に当たるだろうが。


「ああ、うん、そうだね。うん、でも、あれだよ。葉月くんとお話もしたいしさ」


「別に二人乗りしてても会話は出来るだろ」


「ちょっとでも長く! そもそも、二人乗りってダメなんだよ? 校則でも禁止されてるし、そもそも法的にもアウトだし!」


「夜だし周り誰もいないから大丈夫だろ……」


「とにかく、ダメなものはダメなの!」


「あ、はい……」


 勢いに圧されて従ってしまったが、なんでここまで拒否するんだろうか。まあ、自転車乗りたくない理由なんてだいたい察しがつくけど。


 怖いんだろうなあ、自転車。


「じゃあ、俺走るからお前自転車乗るか?」


 なので、とりあえず提案をしてみる。


 あんまり運動は出来ないけど、並走してくれる何かがあると人間意外と走れるものだ。それは俺も例外ではなく、ここから駅までの距離くらいなら頑張れる気がする。


 でもきっと、


「いやいいよ、人の自転車に乗ってその所持者走らせるとかそんな鬼畜な真似わたしは出来ないもん。そんなことするくらいならわたしが走るよ。こう見えて、ちょっとは運動できるんだよ?」


 俺が走ることにはなりそうにないんだよなあ。


「いや、全然それはいいんだけど」 


「それにわたし今スカートだし。漕いでる時にスカートの中見る気でしょ? そうはいかないよ、わたしそういうところはガード固いんだから。でもあれだね、葉月くんもしっかり男の子なんだね」


 意味の分からないことを言い出したし、挙げ句俺がよく分からない認められ方をされた! どんだけ乗りたくないんだよ、この人。


「……じゃあいいよ、歩いていこうか」


「最初からそうすればよかったんだよ」


 駅までの道を進んでいくにつれて、月島の足取りは重くなっていった。


 その行動からひしひしと伝わってくるのは、家に帰りたくないという気持ちだった。俺もたまに似たような足取りをする。そう考えたときに、夕方の月島の様子を思い出す。帰りたくない的なことも言っていた。


「どうかしたの?」


「どうかしたのはこっちのセリフだぞ。明らかに歩くペースが遅くなってるし、早くしないと電車来なくなるのに」


 俺がそういうと、月島は表情を曇らせる。


「さっきも言ったけど、帰りたくないんだ。朝、家を出る前にね、お母さんと喧嘩しちゃってさ」


 あははと、本心を誤魔化すように笑いながら、月島は話し始めた。


「なんで喧嘩したんだ?」


 聞いていいものかは分からないし、言いたくなければ無理には聞かない。でも、今なぜか聞かなければいけない気がした。きっと気のせいだろうし、そう思って自分の考えを正当化したいだけなんだ。


 それでも、俺は知りたいと思った。彼女が悩む、その理由を。


「……そんなに面白い話じゃないよ?」


「さすがに面白い話を期待して聞いてるわけじゃないから安心していいぞ?」


 俺がそう言うと、月島は少しだけ表情を柔らかくする。


「わたしの家はね、昔に親が離婚してるんだ。わたしはお母さんに引き取られたんだけど、今まで別に不自由だと思ったことはない生活をさせてもらった。確かに他の人に比べれば少し貧乏なのかもしれないけれど、それでわたしは不幸を感じたことはないし、お母さんの子で良かったと今でも思う」


 聞いている限り、喧嘩をするような仲ではないように思える。


 きっと昔から、月島は親に心配をかけまいと良い子であったのだろうし、親は親で、不自由な生活をさせまいと必死だったのだろう。


「お母さんのことが嫌いなわけじゃないの。今もそう。でもね、最近ちょっと様子が変なんだ。普段の様子を知らない葉月くんに言っても違和感は分からないだろうから、言わないけど。それで今日の朝、すごく酔った状態で家に帰ってきたの。どれだけ夜遅くても朝帰りとかはなかったのに……今日も仕事のはずなのに。それでちょっと注意したら、喧嘩に発展しちゃって」


 それはまさしく、小さなヒビが原因だったのだと思う。


 日頃どれだけ気を遣っても、いや、気を遣っているからこそ、ストレスは溜まる。少しづつ、ほんの少しづつ。それはまるで、水道から垂れた水がバケツに溜まっていくように。


 溜まりに溜まったストレスは、ほんの些細なきっかけで瓦解する。お互いに感じていた不満なんかが、今朝のきっかけで漏れ出したのだろう。


「そういうことは、あると思うよ。俺だって母さんと口喧嘩することなんてよくあるもん。言いたいことは言う。嫌なことははっきり断る。わがままをぶつける。気を許してるとか以前にさ、本当に甘えられるのはやっぱり家族なんだよ。友達や恋人じゃ代替出来ない。何があっても崩れない繋がりがあることを知ってるからこそ、そういうことって出来るんじゃないかな」


「……わたし、お母さんのこと嫌いじゃないんだよ? でも、酷いこと言っちゃった」


「言いたいことを言うことが悪いってわけじゃない。大事なのはその後だって。だから、今月島がすることは、家に帰らないことじゃない。結局他人だし、俺にはそこまで言う権利なんてないんだろうけどさ。それでも言うなら、きちんとやることが他にあるだろ?」


「……そうだね、その通りだ。うん、わたしには逃げることよりも、するべきことがあるね」


 悪いことをしたならば、仲直りしたいと思うのならば、謝るのだ。


 それは子供でも知っている、問題の解決法だ。


 目の前に、どうしようもないくらいに高く大きな壁が現れたとき、人はその壁に背を向ける。向き合うことよりも、逃げることを優先する。その理由はきっと何よりもシンプルだ、そっちの方が楽だから。


 でも、何とかしないと前には進めない。


 だから、いつか向き合わなければならない時は来る。結局逃げるってのは、問題の後回しでしかない。決して解決ではないのだ。


 そして、そんな挫折や敗北を何度も味わってきた俺だけれど、実は一つ心の中に留めている言葉がある。


 以前プレイしたゲームのヒロインに言われた、一つのセリフだ。


「大きな問題が生じたとき、逃げることはダメなことじゃない。ただ、逃げても問題は解決しない。どれだけ遠回りしても、いずれ再び壁の前に戻ってこい。なに、心配ない、神様は乗り越えられない壁を作ったりはしないさ」


「……」


 俺が言うと、月島はきょとんとした顔を俺に向ける。


 やめて、そういう顔されると何か恥ずかしい。


「いや、ゲームのキャラのセリフなんだけどさ、俺気に入ってるんだ。その通りだなって。出来ないって思ってるのは自分だけで、ほんとはちょっと頑張れば何とかなるんだよ」


「……そうだね。ゲームのキャラクターのセリフってところが葉月くんらしいけれど、うん、確かにその通りだ」


「謝りたいって思ってるのは、きっとお母さんの方も一緒だよ」


「うん。よし、わたし帰るね。きちんと謝って、きちんと仲直りするよ」


 月島がそう決心した時には、俺達は駅の前までたどり着いていた。


 曇っていた表情は晴れ、今は嘘のない笑顔そのものだった。


「ありがとう、葉月くん。今日はいろいろと」


「いや、俺もいい気分転換になったよ。上手くいくといいな」


「うん……じゃあね、また明日」


 手を振って改札へと向かう月島に、軽く手を挙げて見送った俺は、月島の姿が見えなくなってから自転車に跨る。


「乗り越えられない壁はない……ね」


 今、俺の前にある壁。それを乗り越える方法は知らない。きっと、俺自身の問題で、それは俺にしか分からない答えだ。神は言った、ヒントも何もない、必要なのは俺の気持ちだけだと。


 嘘もなく、正直な自分の気持ちを理解した時、俺は前へ進むため、再び壁の前に戻るのだろう。

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