第一章

騒がしい朝


 春というのは、出会いと別れの季節だという。それはつまり、環境の変化が起こりやすいということだ。何が言いたいかというと、つまり今が春で新学期ということだ。


 別れは特になかったが、出会いには十分に期待している。


「お兄ちゃん! 早く出てきて、漏れるっ!」


「ちょっと待て、俺も今腹痛と絶賛激闘中だ!」


 ドンドンとドアを叩く妹の声に返事をしながら、俺はお腹に力を入れる。


 三学期の終わり、つまるところ春休みの始まりの時。俺は夢の中で自称ラブコメの神様と対面した。そこでいろいろと言われたが、今のところ何も起こっていない。あれはもしかしたら本当にただの夢だったのかもしれないが、そうではないとも言っていた。この期間、俺は一応信じていたがこれから何も起こらなければ夢だったとそう思おう。


 何せ。


 新学期は、絶好の出会いイベントなのだから(俺調べ)。


「お、にい……ちゃん、もう、限界……あぁ」


「あとちょっとだ! 今から出る準備をする頑張れ!」


 ウォシュレットを起動し、トイレットペーパーをカラカラと回す。ちなみに、どうでもいい話だが俺はウォシュレットがないトイレでは排便はしたくない派だ。


 水で流してトイレを出る。


「……天恋、お前まさか……」


 トイレの前でぺたりと座り込む妹、葉月天恋の姿がそこにはあった。いや、まさかそんなバカな……中学三年だぞ? いやでも生理現象だから仕方がないといえば仕方がないけれど。俺がトイレから出なかったせいでそうなってしまったのなら、俺怒られるんじゃね?


「もう、ギリギリセーフっ!」


 バッと立ち上がってトイレに駆け込む。危険ですので、駆け込みトイレはご遠慮下さい。


 なんだ、良かった……ギリギリセーフか。漏らしていたらいろいろアウトだったよな。


「お兄ちゃんトイレットペーパーがない!」


「そんなバカな、俺の時はまだあったぞ?」


「お前が使いきったんだろーがッ!」


「上に置いてあるだろー?」


「立ち上がれない、取って」


「いや無理だろ何言ってんだお前」


「お兄ちゃんわたしが遅刻してもいいの? お兄ちゃんのせいにするよ?」


「無実なのに!?」


「わたしとお兄ちゃん、果たして信用されているのはどっちかな?」


 ぐぬぬ、卑怯な……。俺と天恋が二つの意見を述べれば、天恋の方を優先される。少なくとも親は天恋贔屓である。確実に怒られる。全く悪くないのに!


「分かった、取るよ。鍵開けろ」


 俺がそう言うと、カチャッと鍵が外れる音がする。それを確認して俺は恐る恐るドアを開ける。制服のスカートごと降ろして便座に座る妹の上にある棚から、予備のトイレットペーパーを取る。


「こっち見ないでよとか言えよ! お前何にも分かってないな」


「別に兄妹なんだし見られても何も思わないんだけど。お兄ちゃんの好きなゲームみたいに実は血の繋がっていない義理の兄妹でしたみたいなオチもないし」


「勝手に人のゲームプレイしてんじゃねえ!」


 なんだ、この絵面。


 トイレットペーパーを渡して、俺はささっとトイレから出る。こんなイベントいらんからさっさと出会いイベント起こして神様。


 まさか、妹も攻略対象とか言うんじゃないですよね? 義妹ならともかく実妹を攻略対象キャラにするのは少々リスキーではありませんか? パターンとして妹キャラは本命ルートであることも多いけど、絶対にそのルートには行かない。


「なにぶつぶつ言ってんの? 邪魔なんだけど」


 いつのまにかトイレから出てきた天恋がドアを閉めながら言ってくる。俺独り言喋ってた? 全然そんなつもりなかったんだけど。


「早く準備しないと遅刻するよ」


 言いながら、天恋は先にリビングに戻っていく。


 黒い髪は背中辺りまである、見た目は可愛い方なので学校では割りと人気らしい。今彼氏がいるのかは不明だが、ちょっとちやほやされているのが気に食わない時期があって「その日本人形みたいな髪切れば?」と嫌味っぽく言ったことがある。すると天恋は「黒髪ロングっていうのは大和撫子の代名詞だよ? それを切るっていうことは日本人であることを捨てるのと同意なんだよ」とよく分からないことを言われたのが今でも印象的だ。水色ベースのセーラー服は、以前俺が通っていた中学校のものである。


「高校は自転車通学が許されているから、全然余裕なんだよ」


「ずるい。ほんっとにずるいよねそれ」


 リビングに戻って、さっき食べた朝食の片付けをする。俺が皿を洗い、天恋が机などを拭く。親は共働きで、朝が早いことが多いのでこれが我々葉月家の朝の風景だ。


「余裕なら送ってよ、この可愛い妹を。学校の前で誰あれ彼氏? とか聞かれてもううん違うよお兄ちゃんって言ってあげるから」


「……後半別にいらなくね?」


「お兄ちゃんと付き合ってるとか勘違いされたら迷惑だもん。勘違いしないでよねっ

てやつだもん」


「その言い方だと、また結果がややこしくならないか?」


「可愛いでしょ、今流行りのツンデレちゃん」


「流行ってんの?」


「いや別に」


 皿洗いを終えて、各々準備をする。といっても、俺は特に何もないので自分の部屋にカバンを取りに行くくらいだけど。葉月家は二階建てで、一階にはリビングやバスルームトイレなどの生活空間、二階にはそれぞれの部屋がある。


「こう見えてわたしは兄思いの妹なんだよ?」


 部屋から出たところで、同じようにタイミングよく出てきた天恋が階段を下りながら突然そんなことを言う。その後ろを歩く俺は、無言でその言葉の続きを待つ。


「さっきのように、わたしのお兄ちゃんはいい人なんだよアピールをしているのですよ」


「……それに何の意味が?」


「毎日毎日女の子がいっぱい出てくるゲームをしているお兄ちゃんと付き合ってもいいっていう子が現れるかもしれないでしょ?」


「妹にそんな気遣われたくないわ! つーか嫌だろ妹の友達が彼女とか」


「え、そうなの? でもこの前のゲームでそういう女の子が」


「さっきお前がやってると発覚したゲームとは別のやつだぞそれ!?」


「春休み暇だったんだー」


「他にすることなかったのかよ……」


「あったよ、それを終わらした上で時間が余ったの。お兄ちゃんの趣味も理解しておかないとと思ってさ」


「なにそのよく分かんないお兄ちゃん思いな妹キャラ」


「心配しないで」


 準備を済まして、靴を履き替える。家を出たところで、天恋が振り向いてこう続ける。


「わたしとお兄ちゃんの間に、フラグは立ちません」


「当たり前だバカ」


 そんな朝の日常風景は、ほんとにどうでもいいものだった。そんなことよりも、天恋にそう言った俺を待っていたのが悲惨な現実だったということの方が重要だ。


「あれ、自転車のタイヤパンクしてる……」


「そういえば昨日お母さんが乗って、そんなことを言ってたような……ふふっ、頑張れお兄ちゃん。初日から遅刻とかさすがに印象悪いよ?」


 親指を立てるんじゃない。ちょっと兄がピンチだからってウキウキするの、お兄ちゃんよくないと思うなー。

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