第三章

第三章

今日も小久保さんは、犬養恵から話を聞くため、恵明病院を訪れていた。本来なら彼女は留置所で取り調べを受けるべきなのであるが、精神疾患を持っているということで、病院で接見することを許されていた。

「それでは、もう一度、事件のあった日について伺います。何度も同じことを思い出させてしまって申し訳ないのですが、確実に、弁護をするためにも、よく思い出してくださいよ。」

と、小久保さんは、メモを取るために、手帳を開いた。

「先生。」

と、犬養は小さい声で言う。

「なんでしょうか?」

「ええ、私、先生がそう言ってくれたから、本当の事しゃべりますね。あれは、私がやったの。真犯人は私よ。」

と、犬養は、静かに言った。

「はあ、そうですか。では、昨日あなたは、料理に夢中になっていて、毛布が、由紀夫君の体に落ちたのに気が付かなかったと言っていたのは?」

小久保さんは、長年の経験から、犯人がいきなり供述を覆すということは、慣れていたので、あまり

びっくりしなかったが、とりあえず、彼女の反応を見ようと思った。

「ええ、あれは、自分がどうしても無罪になりたいばっかりに、嘘をつきました。ごめんなさい。」

「いやあ、謝っても困りますよ。其れよりも、本当にあったことを、話してくださいませ。あなた、本当に、無罪になりたいと思っていますか?」

それは確かに、自分が不利になってしまうことは、どうしても避けたくなるのは、人間として当然の事だ。

「無罪になりたいっていうか、私は、悪い人間だから、それはちゃんと、言わなきゃいけないなと思ったんです。わざと、嘘をついて、普通のせかいにいられるなんて事は、あり得ない話ですから。それは、ちゃんとしなきゃいけないって、思いました。だから、今度こそ本当のことを話します。」

と、犬養恵は、申し訳なさそうに言った。

「あの時のことをちゃんとお話しますと、動機はこういうことです。私は、藤村さんのお宅に雇われて、由紀夫君と初めて会ったとき、ああ、これは本当にかわいそうだなと思いました。だって、毛布をかぶっても、自分で外せないほど、重い障害を持っていたんですよ。それで、お母さんは、彼のことを放置しっぱなしで、お稽古ごとにはまっているみたいだったし。お父さんは、仕事が忙しくて、なかなか家に帰ってこないし。きっとあの二人は、由紀夫君を育てる、ということを受け入れられていないんじゃないかしらと、私、直感的に感じ取りました。其れだったら、死なせてあげたほうが、いいのではないかと思ったんですよ。だから私、それを実行させました。それが動機です。手口はもう、先生もわかっているでしょ?毛布が落ちた事故のように見せかけて、私が、由紀夫君を殺害しました。」

「そうですか、、、。」

と、小久保さんは言うが、何か、違うような気がした。ちょうどこの時杉ちゃんが、

「おーい、今度は焼リンゴを持ってきたぞ。昨日、恵子さんたちが、送ってきたので、焼リンゴにして持って来たよ!」

と、でかい声で言いながら、影浦と一緒に、病室にはいって来た。

「初めのうちはね、あんまり頻繁に来られても困ると言っていましたが、杉ちゃんのような、いつでも明るい人が来てくれれば、この病院も明るくなるかと思って、面会を承諾しました。」

と、影浦が、頭をかじりながら、そういうことを言った。

「おいどうしたの、小久保さんのその暗そうな顔。」

と、杉ちゃんが、そういうと、

「ええ、いきなり、彼女の供述が変わったので、困っております。彼女、犬養さんのいうことは、どちらが本当なのか、わからなくなってしまいましてね。それを目撃した人もおりませんし。うーん、どうしたらいいものかなあ。」

と、小久保さんは、メモを取りながら首を傾げた。

「はあ、そうか。いきなり今まで白を主張していたのが、いきなり黒になったというわけね。まあ、良くある事だよね。でも、なんで、犬養さんは、いきなり黒と言いだしたのだろう?」

と、杉ちゃんが言った。

「ああ、それは、ただ、私が、そうしなければいけないと思っただけの事であって。」

と、犬養さんがそういうと

「それはどうかなあ。」

と、杉ちゃんはすぐ言った。

「だって、本当にやってないなら、それを通すはずだよ。だって、誰でもわざわざ、自分のことを悪人というやつはいないもんな。今まで由紀夫君を殺していないという言っていたのに、それが急に殺したというのは、何かわけがあるんだろ?誰かにちゃんと話をしろと言われたとか、重大な出来事があったとか?」

「まあ、ここに入院していれば、重大なできことが起こることは、あまりありませんね。ここは、それを回避したい人がいる場所でもありますからね。」

と影浦が言うと、

「いや、それはどうかな。影浦先生。ここには家族もいないし、いるのは他人ばかりだ。家族に言われたことは気にならないが、他人に言われたことは気になることもあるよなあ。たとえば、看護師とか、そういうひとにな。」

杉ちゃんがカラカラと笑った。

「つまりどういうことかというと、看護師とか、そういうひとに、ひどいことを言われることが多かったんじゃないの?看護師なんて、平気できついこと言うよ。」

「平気できついことを言う、まあ確かにその通りですね。僕のところにたまにそういう相談を持ち掛けてきた人もいます。医療関係者というのは、どうしても自分がえらいと思い込んでしまうのでしょうか。それは、とんでもない間違いだというのに、気が付かないんですな。体格の事とか、髪の色とか、そういうところを平気で批判をする、医療関係者が多すぎるんですね。」

小久保さんは、大きなため息をついた。よくマスコミなんかでドクハラという言葉があるように、医療関係者に嫌がらせをされるということは、よくある事のようである。

「ええ、あたしも、そうでした。きついことを平気で言うというか、看護師さんに言われたんです。あなた、有罪であることは間違いないんだから、ちゃんと、弁護士さんに本当のことを言いなさいよって。私が、あまりにも動作が遅くて、ほかのひとがやっているように、作業療法ができなくて。」

と、犬養はそういうことを言った。

「なるほど、犬養さん、あなたは、そういう風に作業をこなすのに、時間がかかってしまうんですか?」

と小久保さんが聞いた。

「ええ、そうですね。犬養さんには、本人がいる前で言うのは申し訳ないですが、発達協調運動障害というものがあると考えられます。つまり、運動がとても苦手であったり、手先の動きがとても不器用であるという障害です。最近わかってきた障碍なので、詳細ははっきりしませんが、犬養さんの作業療法を拝見していると、たとえば、料理をさせた場合、非常に動作がゆっくりとしているので、たぶんそうなのではないかと思いました。」

と、影浦が言った。

「それは、たとえばですよ。二つのことが同時にできないということはありませんか?」

小久保さんは影浦に聞く。

「ええ、そうですね。一つの動作をすることが極端にゆっくりになりますので、その間は、ほかの者に対して注意を向けられないというのは確かにあるでしょうね。」

と影浦は答えた。

「ほうらみろ、これで決まりだね。そんな障害を持っている奴が、殺人なんかできるわけがない。もうちょっと考えて供述をするんだな。そういうやつが、巧妙に毛布がかぶさったと事故に見せかけて殺人を仕組むなんてことはできやしないんだ。ははははは。」

杉ちゃんがその答えを聞くとすぐに、でかい声で笑った。まあたしかに、僕もそうだと思いますよと影浦は苦笑いした。

「まあ、のろまであると言ってもただののろまじゃなくて、立派な障害になるってことを、看護師には、もうちょっとわかってもらいたいもんだねえ。」

と杉ちゃんがそういったため、笑い話になってしまったが、看護師のそういう問題発言は、何とかしてもらわないといけないなと、影浦と小久保さんは、苦笑いした。

「はい、すみません。看護師も、なかなか忙しすぎて、病気や障害について、勉強してもらいたいと、ずっと言っているんですけどね。まったく、こればかりは、人間性の問題ですよ。」

「そういうわけで、小久保さん。彼女は白だ。もうちょっと、彼女の事とか、丹念に調べてやってくれよ。」

影浦がそういうと杉ちゃんもそういうのであった。

「しかし、犬養さんが無罪ということになったら、一体真犯人は誰だろうという問題もありますけどね。」

小久保さんは、そういって、ため息をついた。

「まあ、そんなことは気にするな。警察にちゃんと任せよう。じゃあ、焼リンゴ、みんな食べてな。早くしないと、まずくなっちゃう。」

杉ちゃんがそういって、ベッドテーブルに、重箱をどしんと置いた。風呂敷を開いて重箱を開けると、焼リンゴのおいしそうなにおいが充満する。

「なかなか、うまそうじゃないですか。よかったですね、こんなものを持ってきてくれる人がいるんっですから、自分はいらない人間だとか、そんなことは言ってはいけませんよ。いくら、精神がおかしくなっても、そうやって来てくれる人がいるんだから。」

と、影浦が、焼リンゴを食べ始めた犬養に言った。

「なんですか、犬養さん、そんなこと言ったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「そうなんですよ。僕も困ってしまいました。まあ、大体の患者さんはそういうことを言いますが、実際はそうではない人のほうが多いんです。先日なんてそれが度を越して、自殺を図った方までおられました。娘さんが、来訪されて、木枯らしのような、大泣きをしておられましたよ。幸い、助かりましたけどね。」

と影浦は、ため息をついてそういう事を言った。

「そうですか。自分はこの世に必要とされてないねえ、、、。」

小久保さんは、一寸意味深そうに言う。

「ええ、我々医療従事者は、患者さんにそこにはやく気が付いてもらうことが一番だと思っています。」

影浦と小久保さんは、なるほどなるほどと顔を見合わせていった。しばらくしいんとした時間がたったが、

「はい、もしもし、ああ、由紀子さん、何だよこんなところまで電話をかけてきて。ああ、水穂さんが?ええ、こっちも今取り込み中ですぐにはいけないな、、、。」

と、杉ちゃんがでかい声でそういっていたので、それは破られてしまった。

「一体どうしたんですか?」

と、影浦が、そういうと、

「ああ、水穂さんが、倒れちゃったと、由紀子さんから連絡が、、、。」

と杉ちゃんは言った。

「其れなら、すぐに戻った方が良いですよ。水穂さんのそばについて居てあげなきゃ。」

と、小久保さんがそう返した。

「悪いねえ。お前さんたちも気をつけてな。」

と、杉ちゃんは、小久保さんにお礼を言って、軽く頭を下げて、病室を出ていく。影浦が、タクシー手配しますと言って、杉ちゃんと一緒に出て行った。

そのころ、製鉄所では、水穂さんが、布団の上に横むきに寝て、弱弱しくせき込んでいるのを、帝大さんが、背中をさすったりして介抱していた。そばには、五郎さんと由紀子が控えている。せき込んでいる水穂さんを見て由紀子は思わず、

「水穂さんお願い、戻ってきて!」

と叫んでしまったくらいであった。

「いや、大丈夫です。催吐剤が効けばそのうち吐き出します。」

と、帝大さんが、そういう通りなら、そうなるのだろうが、由紀子は、そうなってくれるまでの時間が、本当に長いような気がしてしょうがないのだった。水穂さんが、せき込んだのと同時に、内容物を吐き出すと、五郎さんも安心したようにため息をついた。

「後は、止血薬が効いてくれればそのうち止まりますよ。今回は、五郎さんが発見してくれたからよかったようなもので、もしこれが遅かったら、窒息死するところでした。」

と、帝大さんは、静かに言った。予言通り、水穂さんのせき込むのは数分後に止まった。代わりに静かな寝息が聞こえてくる。

「水穂さん。」

由紀子は声をかけようとしたが、帝大さんが止める。

「眠ったんですよ。しばらく静かにしてやってください。」

「わ、わ、かりました。」

と、五郎さんが、由紀子を止めた。

「多分眠ってくれれば、もう心配ないですから、あまり気にかけずに、そのまま生活を続けてください。」

「あ、ありがとう、ござい、ま、す。」

五郎さんはそう御礼を言うが、由紀子は、そんな気にはなれなかった。どうせまた、せき込んで倒れるということを繰り返すのだから。五郎さんは、帝大さんに丁重に礼を言って、玄関先まで送り出したが、由紀子はそんな気にはなれなかった。もっと、水穂さんが苦しまないでいられる方法は何もないんだろうかと思うのだ。そんなものはないって答えがわかっていても、だ。

水穂さんは、静かに眠り続ける。由紀子は、どうしても彼のそばを離れる気にはなれず、そのまま製鉄所に残った。そのまま、数時間たった。杉ちゃんに、水穂さんが倒れたと連絡をいれて、帰ってくるのを待ったけど、杉ちゃんが帰って来るまで、ものすごい時間がかかったような気がした。やがて、玄関先から声がして、杉ちゃんの帰ってきたことが分かったが、遅くなったのを責めるような気持ちには、由紀子はなれなかった。

「い、いやね、どうして、布団、から、たったのか、は、僕、も、わかりま、せん。ただ、急にせき込んだ音が、し、たので、見に、いった、ら、くる、し、そうな顔をして、廊下、に倒れて、いたんです。」

と五郎さんが、状況を説明している。杉ちゃんは、そうか、わかったよ。まったく人騒がせな奴だなあなんて、笑っているが、笑い事じゃないでしょ、と由紀子が声をあげようとしたその時。

「こんにちは、右城君いますか?」

と、インターフォンのない玄関で、女性の声がしたのでさらに驚いた。

「おう、今寝てるけどさ、それでもいいなら上がってきてくれる?」

と、杉ちゃんが応答する。由紀子が顔をあげると、お邪魔しますという声がして、やってきたのは浜島咲だった。

「あら、寝ちゃったの?こんなお昼過ぎから寝ているなんて、夜に寝れなくなったりしないのかしらね。」

と咲は、水穂さんの近くに座った。

「ねえ、右城君、右城君てば、ちょっと起きて頂戴よ。」

と、咲は、水穂さんの体をちょっとゆすった。

「やめてください、浜島さん。水穂さんは、大きな発作からやっと助かったばかりなんです。だからしばらく静かに寝かせてあげて下さい!」

由紀子は、急いでそういうことを言うと、咲はちょっと不服そうに、

「だって、写真を見たいと言ったのは、右城君の方よ。」

と言った。

「だから、今日いち早く持ってきて上げんだんじゃないの。」

「そうですけどね、今は水穂さん、そんな余裕ありません。浜島さんも、今日は帰っていただいてもよろしいですか?」

由紀子がそういうと杉ちゃんが

「なんの写真だったの?まさかお見合い写真?」

と咲をからかうと、咲は違うわよ、とむきになっていった。

「そうじゃなくて、苑子さんのお箏教室の発表会の写真。始めて、文化センター借り切って、うちの社中だけでの単独ライブが成功したから、記念に業者さんにたのんで撮ってもらったの。それが今日、出来たから、右城君にみてもらおうと思って持ってきたのよ。」

咲の話に、ああなるほどねえ、と杉ちゃんは頷いた。

「そうですか。僕たちが、代わりに見てあげるよ。じゃあ、一寸写真を見せてくれ。」

と、杉ちゃんがそういったので、咲はわかったわとカバンを開けて、アルバムを一冊取り出す。

始めのページには、集合写真だろうか、中心に苑子さんがうつり、その周りに振袖や黒留袖を着た女性や、紋付羽織袴を着た男性が写っていた。

「結構苑子さんのところにお弟子さんが増えたんだね。」

と、杉ちゃんが感心したように言う。

「ええ。インターネットの力はすごいものね。インターネットが在れば、黙っていても生徒が来てくれるから、今はいい世の中になったものよ。」

確かに咲が言う通り、インターネットは今はものすごい力を持っているというのは疑いなかった。

「そして、これは、生徒さん一人一人のソロ演奏の写真。みんな松竹梅とか、融とか古典の大曲ばかりやりたがって、もう楽譜の調達が大変だったわ。古本屋を10件近く回って、楽譜を買ってきたお弟子さんもいたのよ。」

ソロ演奏ができるということは、非常に実力があるということだろう。しかも、松竹梅も融も、大変難しい楽曲だ。それを弾くことができるということは、かなりの演奏技術がないとできない。

「この写真は何を弾いたときの写真?三曲合奏ができるなんて、ただもんじゃないよな?」

と杉ちゃんが言った。確かに、その写真には、箏を弾いている女性が一人、三絃を弾いている男性が一人、尺八を吹いている男性が一人いた。

「ああ、これは八重衣よ。あの曲、聞いているだけで気が遠くなりそうなほど長いけど、この人たち、ちゃんと、一生けんめいやってくれたわ。だから、もう百点満点だって苑子さんは言ってたわ。」

と、咲が解説すると、杉ちゃんは、その写真をかってに持ち上げて、しげしげと眺め始めた。

「どうしたの?杉ちゃん。その写真がよほど気に行ったの?」

咲が聞くと杉ちゃんは、

「いや、どっかで見覚えがあるよ。この尺八吹いてる男性。」

いうのである。

「まあ、きっと見間違いよ。杉ちゃん。たぶん誰か知っている人と間違えたのね。尺八が吹ける人なんて、たいしてこの富士にはいないって、苑子さん言ってたから、、、。」

咲がそういうと、杉ちゃんは、

「いや、この男性、絶対どっかで見たことあるんだ。僕は、間違えることはないよ。文字が読めないものだから。絶対どこかで見たことある、いま思い出すから待ってくれ!」

といった。しばらく沈黙が続くが、杉ちゃんがいきなりでかい声で、

「あ、思い出した!」

というからみんなびっくりする。

「思い出したぞ!この男性は、武藤博夫だ!そして、この箏の女性は藤村さんの奥さんじゃないか?」

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