第二章

第二章

その日小久保さんは犬養と面談した。小久保さんがあのとき僕はあなたの味方だよ、と言ってから、犬養は、彼を信頼してくれて、少しずつ事件のことを話してくれるようになった。

「犬養さん、事件のことをもう少し思い出してください。あなたは、あのお宅に、なんのために通っていましたか?」

と、小久保さんがいう。あのお宅というのは間違いなく、事件があった、藤村家のことである。犬養は、少し首をかしげて、

「ええ、家事の手伝いをするために、あのお宅に通っていました。あたしは、働くことができなくて、炊事とか洗濯しか出来ることがないから、仕事にはつけないと思っていましたが、幸い、それでも働ける時代になったからと、就労支援の人が教えてくれて。それで、家政婦斡旋所に登録させてもらいました。」

と答えた。

「就労支援とはなんですか?」

と、小久保さんが聞くと、

「はい、あたしたちのような働けない人たちを、働けるようにさせてくれるところです。あたしは、長らく精神科に入院してて、久しぶりに退院したんですけど、できることと言えば、炊事と洗濯でした。パソコンのスキルもないし、何か資格ももっているわけではありません。だから、文字どおり息をしているだけなんですけど、就労支援に行ったら、いまはそれだけでも働ける時代だからと、施設の人が教えてくれて。それで、わたしは、家政婦斡旋所に入りました。」

「そこの、就労支援の人と言うのが、武藤さんだったわけですな。」

と、小久保さんは、頷いた。

「はい。武藤さんは、就労支援のスタッフで、私の話を一生懸命聞いてくれました。」

と、犬養はいう。一生懸命という言葉に、障害のある人は弱いということを、小久保さんは知っていた。自分のせいで、支援者がいてくれていることを、知っているからだ。

「わかりました。武藤さんがあなたの担当になったいきさつを教えてください。」

と、小久保さんが聞くと、

「それはわかりません。ただ、支援施設に行ったとき幹部のひとが話し合って、それで武藤さんが、私の担当になったんじゃないですか。私が、担当者を選ぶことは、施設の規則でできなかったはずですから。」

と、犬養は答えた。

「了解しました。それでは、あなたが所属していた家政婦斡旋所の名まえを教えて下さい。」

「はい、八重垣斡旋所です。そこが障害のある人たちを、積極的に雇ってくださっていると、聞きましたので。」

小久保さんは、手帳に、八重垣斡旋所と書いた。

「ああ、あの、八重垣麻弥子さんが経営なさっているところですね。あの方、又選挙に立候補されると聞きました。確かに、美人ですし、議員になっても勇ましくやりそうな方ですね。」

「ええそうです。八重垣麻弥子さんがやっているところです。でも、私のせいで、ずいぶん損をしてしまったかもしれません。でも、私は、やっていませんから。私は、由紀夫君の顔に毛布を掛けた覚えはありません。」

「はいはい、そのお話は分かりました。いずれにしても、あなたがやっていないことが分かれば、あなたの疑いも晴れますよ。そのために、あなたの証言は大きなものになりますから、しっかり本当のことを言ってくださいね。あなたのような方は寂しさで、お話をつくってしまうことも多いと、影浦先生からお伺いしましたが、もう、僕のような味方もいますから、出来るだけ、それに目を背けないようにしてください。」

小久保さんは、彼女の言葉にそういうことをにこやかに言った。

「じゃあ、もう一度、事件のことについて伺います。事件が起きた日、あなたは、由紀夫君のそばにいたんですか?」

そう聞いてみると、犬養は、一つ頷いてこういうことを言った。

「はい、私はあの時、由紀夫君のご飯をつくってました。あの時は、確か、由紀夫君のお母さんが、出かけるのを止めようとしていたんです。」

「はあ、由紀夫君のお母さんは、どこかに出かけようとしていたんですか?」

「ええ。だって、あのお母さんは、仕事で忙しすぎるほど忙しい人で、私に、世話をまかせっきりだったんです。だから、私、言ったんですよ。お母さんに。せめて、お昼ご飯だけでも一緒に食べてくださいって。だけど、お母さんは、仕事があると言って出て行ってしまいました。私は、自分で怒りをコントロールすることができません。だから、お昼ご飯をつくりながら、一生懸命怒りを鎮めようとしていました。その時、毛布が落ちて、由紀夫君の上に落ちたんです。」

と、彼女も真剣な顔をしていった。藤村由紀夫君のお母さんは、確か、学校の先生だったと聞いている。せめて、由紀夫君が障害を持っているのなら、仕事なんかしなければいいのになと思うけど、お金があるから、人を雇って、そうして仕事に出てしまえるのである。

「そうですか、今の犬養さんの話は、誰か目撃している人はいませんでしょうか。」

「いえ、いません。藤村さんのご主人、つまり由紀夫君のお父さんも、由紀夫君のお母さんも、仕事へ出てしまっていました。もちろん、仕事が無ければ、私を雇うということもしませんでしょうけど。きっと安い人件費で、それでよかったんではないですか。由紀夫君の医療費もかかったでしょうしね。」

彼女は真剣な話をしているようであったが、それを素直にそうですかと信じてやれないのは、なぜなのだろうか。彼女が、精神障碍者という、日ごろから、現実にないことを言いふらしていると、症状としてはっきり出ているからだろうか。彼女がもし、精神障碍というものがなくて、普通にお金を稼いで生活している女性だったら、彼女を無実だと、東奔西走するだろう。中には、そういうひとの話を聞かないほうが自分のためだという、医療関係者とか、法律関係者もいる。でも、小久保さんは、そう思わなかった。

「わかりました。それでは、あなたのお話が、本当にあった事だろうか、それを証明して、疑いを晴らしましょう。次は、藤村家に雇われていた時の、あなたと、藤村さんのご家族の人間関係についてお話を伺います。」

と、小久保さんはそういったが、一緒にいた影浦が、もうそこまでにしてくれないかといった。長時間話しを続けると、そのストレスで新たな妄想を作り出してしまう可能性があるからということであった。小久保さんは、そうですか、わかりました、と言って、手帖をカバンの中にしまって、さて帰ろうかと椅子から立ち上がった。其れと同時に、看護師が、病室のドアをたたく音がして、

「影浦先生、又お見舞いに来たって言ってますが。」

と、病室のドアをがちゃんと開けた。小久保さんが後ろを振り向くと、杉ちゃんであった。

「やっほう。見舞いに来たよ。今日も、小久保さんと一緒だというから、入らせてもらったよ。」

杉ちゃんはにこやかに言って、膝の上に置いてあった、風呂敷包みを、ベッドのテーブルの上に置く。

「ああ、杉ちゃんまた何か持ってきたんですか?刃物とかはダメですよ。ここは自殺の恐れがある患者さんだっているんですよ。」

と、看護師が注意すると、

「大丈夫だよ。栗の渋皮煮をたべて、自殺なんかする奴があるかよ。」

と、杉ちゃんは言って、風呂敷包みに入っていた、井川めんぱの弁当箱をぱかんと開ける。

「はい、栗の渋皮煮だよ。昨日、製鉄所の利用者さんが、栗拾いに家族で行ってきたと言って持ってきたので、急いで渋皮煮にさせてもらったのさ。全く、家族が多い家庭で、大量に持ってきちゃったんだって。たっぷり食べろ。」

中には栗の渋皮煮がぎっしり入っていた。

「こういう手間のかかる料理を作れるのは、杉ちゃんだけですね。僕たち素人には、こんなものは作れない。」

と小久保さんが言うと、

「いやあ、小久保さん、それは、妬みというものなのかな?」

と杉ちゃんはいたずらっぽく言った。

「いやいや、そんなことはありません。誰でも役割というものはあるんです。杉ちゃんのような、大掛かりなお料理を作ってあげられる人は、その通りにつくればいいんだし。僕たちは、彼女、つまり、犬養さんを立ち直らせる役目がある。役目はそれぞれ違うんです。それでいいじゃありませんか。」

と、小久保さんが、杉ちゃんの話にそういうことを言って返すと、

「小久保先生が言った通りなら、私は、なんの役目があるんでしょうね。私、杉ちゃんみたいに、栗の渋皮煮も作れないし、小久保先生見たいに、人のために役に立つこともできないし、影浦先生みたいに、患者さんを救うこともできないじゃないですか。其れなら私、なんでここにいるのかな。私、何も役目がなくて、もう、いなくなってもいいんじゃありませんか。」

と、犬養さんが言った。

「まあ、理論的に言ったらそうなりますが、犬養さん、人間は理論で全部動けるものではありません。AIだったら、それができるかもしれないけど、僕たちは、其れとは違いますからね。現在、合理的さばかりが普及して、その肝心の部分がなくなりつつあることを、僕たち精神関係者は危惧しているんですよ。」

犬養さんの発言に、影浦がそういう事を言った。確かに、数年前にあった、相模原の殺人事件の犯人がそういうことを言っていたっけ。確かに、理論的に言えばそうなってしまうのである。でも、人間は理論というものだけではない。また違うものがあり、障碍のある人とか、病気のひとは、そのちがうもののおかげで生きていられることも多いのである。

「そうですね、影浦先生のお気持ち、よくわかりますよ。医者も弁護士も、ある意味では、同じことを、求めているのかもしれませんね。犬養さん、杉ちゃんが来てくれてよかったじゃないですか。あなたは、まだ、世の中から、弾き飛ばされているわけじゃありませんよ。そうして、栗の渋皮煮をつくって持ってきてくれる人がいるんですからね。あなたは、杉ちゃんに栗の渋皮煮をつくらせるという、立派な役目を負っているんだ。それを、しっかり、考えて生き抜いていってくださいね。」

と、小久保さんは、しんみりといった。

「じゃあ、いま、小久保さんも影浦先生もいることだし、渋皮煮をみんなで食べちゃおうぜ!」

杉ちゃんは、犬養に割り箸を渡した。つまようじは、とがっているので持ち込みはできないのだ。犬養だけではなく、小久保さんと、影浦先生にも割り箸が渡される。小久保さんが、ありがとうございますと言って、栗を一つ食べてみると、大変甘くて、いい味がした。本当に杉ちゃんという人は、お料理が上手なんだなあと、改めて感じるのだった。こういう手間をかけて何かを作ってくれる人が、いつまでも居続けてほしいなあと、小久保さんは思うのだった。

杉ちゃんたちが、病院で栗の渋皮煮をたべている間に、製鉄所では、五郎さんが、水穂さんにお昼ご飯をたべさせようと、やっきになっていたところであった。

「せめ、て、もう、一口、食べ、てもらえ、ませんか。み、水穂さん、け、さから、何も、食べて、ないでしょう。それじゃあ、ね、また、たい、りょく、がなくな、って、体が、弱ります。お願いします、食べて、く、だ、さい。」

五郎さんが、一生懸命おかゆの入ったおさじを水穂さんの口もとにもっていって、水穂さんに顔を背けられるのを、繰り返していると、

「今日は。」

と、ジョチさんが、由紀子と一緒に四畳半へ入ってきた。

「あ、り、じちょうさん。こんに、ちは。」

と、五郎さんは、とりあえず挨拶をした。水穂さんは、あいさつする気力もなくなってしまったのか、何も言わなかった。五郎さんが、水穂さんに

「り、じちょう、さん、です。」

というと、

「いえ、大丈夫ですよ。無理して起きなくても結構です。横になっていてくれて結構ですよ。」

と、ジョチさんはにこやかに言う。

「それより五郎さん、また食べないの?」

と由紀子は五郎さんに聞いた。五郎さんは、はいと頷いた。

「困ったわね。昨日栗の渋皮煮を杉ちゃんにもらったときは、おいしそうに食べてたじゃないの。其れなのに、今日は食べない何てちょっと、ずるいわ。」

と、由紀子は、ため息をついた。

「そうですか。やっぱり、杉ちゃんの作ったものはおいしいんですかね。確かに、僕も少し食べさせてもらったけど、おいしかったですよ。」

と、ジョチさんは、五郎さんの作ったおかゆを見ながらそういった。

「でも、杉ちゃんのものばかりだけではなくて、ほかのひとの作ったものも食べてもらいたいんですけどね。今日の食事は、味が濃いとか、そういう、難がありましたか、水穂さん。」

「いや、ありません。食べる気がしないんです。」

水穂さんは、弱弱しく、そう答えた。

「それじゃダメよ。杉ちゃんの作ったものばっかりじゃなくて、ほかの人が作ってくれたご飯も食べて。そうしないと、本当にダメになっちゃうわ。」

由紀子は、水穂さんを励ますが、水穂さんの答えはなく、せき込むだけであった。

「まあ、いずれにしても、杉ちゃんの作ったものは栄養満点でものすごくおいしいということになりますね。それは、誰にも代えられない、事実であると僕は思います。これだけ重病の水穂さんも動かしてしまうほどのおいしさ。」

ジョチさんがその場をうまくまとめてくれたおかげで、由紀子は怒りを感じずに済んだが、それにしても、水穂さんの食事をしないという問題は、確かに大問題だった。

「ほんと。できれば杉ちゃんが二人いてほしいくらいだわ。」

由紀子はそれだけ言うと、五郎さんが、

「ど、こへ、いった、ですか?」

と聞いたので、由紀子は、小久保さんという弁護士の先生のお手伝いに行ったんだと答えた。

「へえ、杉ちゃん、そう、いう、じんみゃ、くも、あるん、ですね。」

と、五郎さんは感心してしまったようである。

「まあねえ。顔の広いのが杉ちゃんだけど、本当は、こっちにいてもらいたかったわ。水穂さんのそばで、食べろと指示してもらいたかった。」

由紀子はちょっと悲しそうに言った。

「ああ確かにそうですね。彼ほど口がうまくて、おだてたり、励ましたりするのがうまい人はいませんよ。歩けないとか、読み書きができないとか、色いろ欠点の多い人物ではあるけれど、やっぱり必要なんですねえ。」

と、ジョチさんはちょっとため息をつく。

「実は僕も、杉ちゃんのような人がいてくれたらと思ったんです。何しろ、八重垣斡旋所を法人化させたのは、まぎれもなくこの僕ですから。そうしていなければ、あの凄惨な、藤村由紀夫君の事件は起こらなかったでしょうからね。」

「なんですか、理事長さんが、落ち込んじゃダメでしょう。」

と、由紀子は、男ってどうして責任とかそういう事で落ち込みやすいんだろうと思いながら、ジョチさんにいった。

「八重垣さんのしている事業はとても立派じゃないですか。そうやって、障害のある人に、居場所を与えているんですよ。それは素晴らしいこととして、理事長さんが法人化させて有名にしたんでしょ。それを、悪いことだという必要は、サラサラありませんよ。」

「そうで、すよ。これ、は、ゆき、こ、さん、の、勝ち。だって、家の、な、か、のことしか、で、きない、で、しゃ、かい、てき、には、何も、していない、障害、のある人、は大勢、います、よ。それを、家事、て、つだい、として、雇わせるっていう、八重垣さ、んの、発想は、僕、は素晴らしい、と思い、ます、けどね。」

「そうですか。では、お二人の言葉を彼女に伝えておきます。彼女も、篤志家特有のやさしさというところも在りますからね。多かれ少なかれ、自分を責めてしまうこともあるでしょうから。」

ジョチさんは、リーダーらしく二人の言葉をまとめた。

「でも、犯人の女性は、どうしているのでしょう。」

咳の治まった水穂さんが、弱弱しくそういうことを言う。

「ああ、そうですね。多分、留置場かどこかにいるんでしょうけど。そうですね、警察の方とか、弁護士さんが、彼女が精神障害がある事に考慮してほしいですね。まだ、彼女の犯行だと警察や検察はお思っているようですが、彼女自身は犯行を否定しているようです。彼女のような人は、日ごろから養ってもらっているという感覚の強い人ですから、簡単に自白をしてしまうのかもしれないけど。ちゃんと警察や検察も、捜査してほしいなあと思いますね。」

「そうですか。障碍のある人が犯人だと、その人にやらせたことにすればいいやっていう感覚が昔からありますよね。」

と、水穂さんは、あおむけから横向きに体の向きを変えながら言った。そういう彼の姿を見て、そう思うなら、水穂さん、しっかり食事をしてよと由紀子は思ってしまったのであるが、それはあえて口にするのはやめておく。

「へっくしょい!」

と、杉ちゃんがでっかいくしゃみをした。

「あら、杉ちゃん風邪ですか?」

と、栗の渋皮煮をたべた小久保さんが、杉ちゃんに言う。

「いやあ、馬鹿は風邪をひかないと昔から言うんだけどねえ。ついにその定義も破られたのかなあ。それが破られたら、世の中おしまいだぜ。」

と、杉ちゃんはからからと笑った。

「医学的にいうと、誰でもくしゃみはするモノです。賢かろうと、馬鹿だろうと、出るものですから、気を付けてくださいね。」

影浦が医者らしくそういうことを言う。

「でも杉ちゃんの栗の渋皮煮は本当においしかった。また、見舞いに来てくれるのを楽しみに待ってるわ。何だか、こうして来てくれるから、私が生かされているような気がするの。」

と、犬養がそういうと、

「そうそう。そういう風に思わなきゃ。悪質な就労支援施設のいうことをうのみにしちゃだめだぜ。」

と、杉ちゃんは言った。

「悪質?杉ちゃん、それはどういうことかな?」

と小久保さんが聞くと、

「いやあ、僕はちゃんと知らないんだけどさ。」

と、杉ちゃんは頭をかじりながら言う。

「あの、引きこもりを、支援すると言っておきながら、支援するように見せかけて、実際は、ものすごい虐待をやっているとか、そういう詐欺集団がいるらしいんだ。僕は、昨日着物の寸法直しを依頼してきた人に聞いたけど。」





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