増田朋美

第一章

第一章

その日は、十月というのに暑い日で、まるで夏に逆戻りしてしまったようだね、と、街のひとたちは言っていた。中には、暑かったり寒かったりが、交互に繰り返すので、体調を壊してしまう人も多く見受けられた。何も体には異常はないのに、疲れてしまうひと、つらい思いをしている人、そういうひとばかりが、日本中には、蔓延してしまうような気がしてしまうのである。

「はあ、えーとそうですか。」

御殿場の自宅兼法律事務所の中で、弁護士の小久保哲哉さんは、依頼人としてやってきた、犬養恵の代理人という男性、武藤博夫さんを前にして、思わずそうつぶやいてしまう。

「ええ、何とか先生の力をお貸しください。彼女、つまり犬養は確かに精神疾患というものはありましたが、それでも、人殺しをするという事は良くないと、ちゃんとわかってるはずなんです。だから、先生のお力で、少しでも刑を軽くしていただきたいと思いまして。」

武藤さんは、もう一回頭を下げた。

「事件のことは、確かに報道で知りました。でも、とうの昔に、別の弁護士が付いているのかなと思っていたのですが?」

と小久保さんが言うと、武藤さんは、

「いえ、それが、私たちが弁護士の先生を紹介しても、国選弁護人の先生をつけても、犬養さんは何もしゃべりません。事件の事も、その理由も何もしゃべらないのです。しゃべらないと返って不利になるからちゃんとやってくれと言ってもです。」

と、申し訳なさそうに言った。

隣の部屋では、武藤さんを、この小久保法律事務所に連れてきた杉ちゃんが、事務員のおばちゃんにもらったわらび餅を、おいしそうに頬張って食べながら、

「どうかな、小久保さん、やってくれそうかな。」

と、事務員のおばちゃんに聞く。

「さあねえ。でも、杉ちゃんのいうことだから、すぐにはできないかもしれないけど、ちゃんと応じてくれるはずよ。」

と、おばちゃんは苦笑いして答えた。

「でも、杉ちゃん、どうして武藤さんと知り合ったの?」

「ああ、ただ、武藤さんの所属していた、NPO法人が、僕の親友である、ジョチさんが理事長をやっている法人だったのね。それで、武藤さんが、犬養さんの事で、ジョチさんに相談に来ていて、それで、僕が、ここなら何とかしてくれるかもしれないと思って連れてきたの。本当は、ジョチさんに一緒に来てもらいたかったけど、大事な会議があるっていうから。」

「そうなのね。」

と、おばちゃんは、杉ちゃんの話に相槌を打った。

「でも私もびっくりしたわ。犬養恵さんが、アルバイト先で、傷害事件を起こしてしまうなんて。事件が起きたばかりのころは、センセーショナルに報道されたけど、犬養さんが、心の病気だとわかったら、報道されなくなったわね。其れってある意味どうなんだろうと思うけど。」

「まあそうだ。僕もびっくりした。しかも、相手は小学校の一年生。たったの六歳だ。多少重い障害があったと言っても、犬養さんは、毛布をかぶせたまま放置したとはねえ。その少年が、かけ布団を自分でぬぐえないことも、犬養さんは知っていたはずだと思うんだけどなあ。」

杉ちゃんと、おばさんは、二人でそう言い合った。すると、となりの部屋から、

「二人とも、一寸声が大きいですよ。」

と小久保さんの声がしたので、

「ああ、すまんすまん。で、犬養さんの事は引き受けてくれた?」

と、杉ちゃんは、でかい声で言った。

「はい、依頼を承ることにしました。犬養さんの弁護を引き受けましょう。それでは、まず初めに、犬養さん本人に会ってみることから始めましょうかな。本人が納得してもらわないと、弁護はできませんので。」

と、小久保さんが言うと、杉ちゃんは、万歳をして、やったあといった。

「犬養さんは、逮捕された時、つじつまが合っていない供述をしていたので、現在精神科に入院しています。先週くらいまでは、話しかけるとひどい錯乱状態でしたが、薬物療法が功を奏しまして、現在

面会も可能になっていますので、ぜひ、犬養さんに会ってあげてください。」

武藤さんは、又頭を下げた。

「お話は分かりました。僕が犬養さんの担当になってもいいかどうか、彼女の顔を見ないと何とも言えませんが、とりあえず、彼女に会ってみましょう。」

と、小久保さんが言うと、武藤さんは、ありがとうございます、と涙を流して喜んでいた。こんなふうに、弁護人の候補が決まっただけで涙を流すのだから、犬養はよほど手のかかる女性なのだろう。

「よろしくお願いします。早速、車はすぐ出します。」

と、武藤さんは、涙を拭きながら、法律事務所を一度出て、車を出しに行った。

「よほど可愛がってたんですね。あの人は。その犬養さんが、そのことに気が付いていれば、防げる

事件だったかもしれないですね。」

小久保さんは、出かける支度をしながら、そういうことをつぶやいた。とりあえず、小久保さんと一緒に杉ちゃんも、小久保法律事務所の建物を出ていく。何かあったら、取り次いでおきますと、事務員のおばさんは、三人が出ていくのを、にこやかに見送った。

犬養が入院している精神科、恵明病院は、さほど大規模というわけではないが、ほかの病院とはちょっと違う雰囲気があった。とりあえず彼女は、解放病棟というところにいると受付に言われた。それぞれの部屋に外からカギをかけることが出来るようになっているのが、ほかの病院と違うところである。犬養の主治医は精神科医の影浦千代吉で、小久保さんが、犬養さんに面会したいと言うと、できるだけ慎重にお願いしますと言って、犬養の部屋に案内してくれた。

「犬養恵さんですね、わたくし、弁護士の小久保と申します。この度、代理人の武藤さんから、あなたの弁護人になってほしいとお願いされました。どうぞよろしくお願いします。」

と、小久保さんは、しっかりとご挨拶をした。ベッドにいる犬養恵さんは、さすがに弁護士の先生がやってくるという事から、ちゃんと日常の服装でいたのだが、髪も何もとかしていないし、化粧もしないで、そういうことは無頓着なようだ。まあ、最も、病院だから、化粧も何もする必要はないが。

「では、よろしくお願いいたします。これから、事件の概要をお尋ねしたいのですが。」

と、小久保さんが言うと、

「今日は少々お待ちいただけますか?あまり多く刺激してしまうと、彼女がまた混乱してしまう可能性もありますから。」

と影浦が小久保さんに言った。こういう時、文句を言えるのは医者だけである。

「そうですか。わかりました。では連絡先をお伝えしておきますから、いつでも気になることが在ったら、連絡をください。」

と、小久保さんは言った。

「ああ、いつでもいいですよ。電話制限が解除されてからでも全くかまいません。まず初めに、治療をしっかり受けないといけないですしね。ええ、それはちゃんと存じていますから、気にしないでください。」

「よかっじゃないか。こういう優しい先生が、弁護してくれるなんて。ほかの先生は、早く事件を解決したいという感じのひとばっかりだっただろ。犬養さん、今回こそ、弁護士の先生を信じて、裁判を受けるつもりになってください。」

と、武藤さんがみんなの気持ちを代弁するように言った。それでも犬養は、何も言わなかった。

「いつでも、連絡を待っていますから、あなたの気持ちが、落ちついたらでかまいません。その時に、連絡をください。」

小久保さんは、犬養さんに優しく言った。

「それでは、わたくしはこれで失礼いたしますが、犬養さんは、療養をつづけてくださいね。こちらの病院は、優秀なお医者さんや、看護師さんもたくさんいますから、安心して療養を続けられる環境におられますな。」

「まあ、僕たちをおだててもしょうがないんですけどね。」

と、影浦が小久保さんに言ったが、小久保さんはにこやかに笑っていた。

その翌日。小久保さんが、いつも通り自宅兼事務所に行くと、

「小久保先生、武藤さんから電話です。なんでも、大事な話があるからって。」

と、事務のおばさんが、コードレス電話機をもって小久保さんの前にやってきた。小久保さんは電話機を受け取って、

「はい、小久保ですが。」

と電話に出る。

「ああ、わかりました。それでは、11時くらいに病院まで伺います。」

と言って電話を切った。

「どうしたんですか?」

と、おばさんが聞くと、

「ええ、犬養さんが、僕と話をしてもいいとおっしゃってくれました。一寸変わった先生だけど、この先生なら、信頼できるって。」

と、小久保さんが答えた。やれやれ、変わった先生とはよく言ったものですねと、受付のおばさんは、笑っていた。

さて、小久保さんは、御殿場線と、東海道線を乗り継いで富士駅に行き、そこからタクシーで、影浦のいる、恵明病院に行った。受付に、犬養さんはいるかと聞くと、はい、いま影浦先生と一緒ですという答えだった。犬養は、現在、刺激に慣れさせるため、午前と午後の一時間だけ、病院の外に出るようになったという。受付は、小久保さんを病棟の食堂まで連れて行った。犬養は、影浦と、見舞いに来ていた杉ちゃんと一緒に、病棟の食堂で、何か食べていた。

「犬養さん、おはようございます。今日は連絡をありがとうございました。いくら代理のひとを頼んだとはいえ、自分の意思で弁護士を選んでくれたということは、とても素晴らしいことです。それでは、一寸事件のことを思い出してもらえないでしょうか?」

小久保さんがそういうと、影浦が、椅子に座りましょうか、と言って、小久保さんと、犬養を椅子に座らせた。

「それでは、犬養さん、事件のことを思い出してください。まず初めに、なぜ、被害者である、藤村由紀夫君を殺害したのですかね。」

と、メモ用紙をもって、小久保さんは、犬養に尋ねる。

「ええ、犬養さんが、社会復帰の目安として、まず、短期間でアルバイトということを計画したのです。それで、犬養さんが、家事のスキルを持っていたことから、犬養さんを藤村さんの家に、家政婦として、雇ってもらうように、お願いしたのです。」

武藤さんが、犬養の代わりに答えた。

「そうですか、最近は、そうやって社会復帰させるプロジェクトも進んでおりますからな。現在はそれをあっせんする、NPOとか、そういう会社もありますからね。」

と、小久保さんが答えると、

「ええ、そうですね。私が、藤村さんの家に、頼み込んでお願いさせてもらったプロジェクトでした。藤村さんは、精神障碍者の犬養さんが、手伝い人としてやってくることに、あまり偏見を持っていなかったようで、犬養さんは経歴などを詳しく聞かれることもなく、藤村さんの家で雇われていたようです。」

と、武藤さんがまた言った。

「それで、勤務態度とか、そういう事に、問題はありませんでしたでしょうか?」

「ええ、そうですね。勤務態度は非常にまじめで、無断欠勤することもなく、しっかり働いていたようです。なので、私たちも、犬養さんがまさか、藤村さんの息子さんを殺害することはあり得ないとお思っておりましたが、、、。」

「ああ、わかりました。でもですね、僕は、武藤さんではなくて、犬養さんに話しているのです。」

と、小久保さんが言うと、

「ええ、それはよく存じております。でも、錯乱すると困りますから、私が代理で説明しましょう。」

武藤さんはそれをはねのけた。

「代理ではなく、本人に事情を聴きたいんですがね。」

「ええ、先生が、そう思われることもわかりますが、犬養さんは、普通の女性とはわけが違います。なので、犬養さんに直接話しかけるのは、やめていただきたい。」

「そうですか。でも、犬養さんに、話しをしたいんです。犬養さん本人でないと、わからない事もあるでしょう。それをお伺いしたいんですけどね。」

と、小久保さんは言うが、武藤さんは、それを許さなかった。せめて、話をしたいなと思ったのであるが、武藤さんにことごとく、断られてしまう。

「せめて、事件の概要を、犬養さんに説明してもらいたいのですが?」

「ええ、その件なら私のほうから説明します。犬養さんは、事件の起きた日、藤村さんの奥さんから

どうしても、出かけなければならない用事があったので、由紀夫君と一緒に留守番を頼まれました。由紀夫君は、子供には珍しいのですが、右半身にマヒがありました。なので、顔に毛布がかぶさっても自分の力で外すことができなかった。犬養さんが、食事の支度をしていた時、閉め忘れていた窓から、強風が吹きこんで、毛布が落ちてしまい、由紀夫君の顔に乗ったのですな。自分で払うことのできなかった由紀夫君は、そのまま窒息して亡くなった。其れが、事件の概要です。」

と、武藤さんは、すらすらといった。

「それでは、犬養さんが、窓を閉め忘れていなければ、事件にはならなかったということでしょうかな?」

と、小久保さんが聞くと、

「ええ、そうですね。それで、犬養さんは、由紀夫君を殺害したということで、警察に自首しました

。しかし、自分は、窓を閉め忘れただけで、彼を殺したつもりはないと自供し、しまいには、大声で怒鳴り散らすなどの、言動が目だったため、こちらに入院したというわけです。」

武藤さんがまた言った。

「悪いのですが、武藤さん、僕は、犬養さんに話を聞きたいのです。なんでも代わりに応えてしまうのではなく、少し黙っていただけませんでしょうかね。犬養さん本人からの供述でないと、こちらではどうにもなりませんので。」

小久保さんはちょっとむっとして、武藤さんに言ったのであるが、武藤さんは、変な顔をしたままであった。なんでも代理でしてくれる援助者というのは、精神障害のある人にとっては、必要なことでもあるのかもしれないが、こういう時は、一寸迷惑な存在になってしまう。

「僕は、犬養さんに話したいのです。悪いのですが、それはご理解していただけないでしょうか。ちょっと本人に話を聞きたいんですがね。」

と、小久保さんは再度改めてそういうことを言った。

「いくら、代理人と言っても、被告人は、あなたではなくて、犬養恵さんなんですから。本人に話してみなければ、何もわからないでしょう、犬養さんと話をさせてください。影浦先生、少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか、犬養さんとお話をしたいんです。どうかご了承下さい。」

小久保さんは真摯にそういうと、影浦は、

「わかりました。何かありましたら、責任は取りますから、犬養さんと話してみてください。ここではほかの患者さんに影響が出る可能性もありますから、病室へ行きましょう。武藤さんは悪いのですが、部屋から出ていただけますか。」

といった。武藤は、わかりましたよと言ってそこに残った。影浦に連れだって、犬養と小久保さんは、鍵のかけられる病室へ行く。とりあえず、犬養にはベッドに座ってもらって、影浦が、病室のカギをかけた。

「それでは、犬養さん事件のことについて、一寸話をしていただけないでしょうか。」

と小久保さんは、又手帳を出して、そういうことを言った。

「いま先ほど、武藤さんがおっしゃったように、事件があったのでしょうか?」

「今、武藤さんがおっしゃったことは、全部違います。」

と、犬養は縮個々待っているような恰好で、でもちょっと決断を下したような顔で、そういうことを言った。

「全部違うというのはどういうことでしょう。」

と、小久保さんがそういうと、

「私は、由紀夫君を殺した覚えはありません。確かに、私は、藤村さんのお宅で働かせていただいていましたが、由紀夫君を、故意に殺害しようとしたわけではありません。」

と、犬養は言った。

「しかし、犬養さんは、警察の取り調べでも、検察の取り調べでも、自分の犯行であると認めているよね。」

と、小久保さんがそういうと、

「あれは無理やり認めさせられたんです!私、藤村さんのお宅で働いていたことは確かですけれども、由紀夫君を殺したつもりはありません。確かに、あの時は、色いろな用事があって、頭がてんてこまいの状態ではありましたけど、、、。でも、私は、由紀夫君の顔に毛布をかぶせたということはしていません!」

と、犬養は声をあげていった。影浦が、

「犬養さん、落ち着いて、もう少し、ゆっくり考えてみよう。本当にそんなことがあったのだろうか、考えてみよう。」

と優しく語りかけるが、彼女のどこかがくるってしまったらしい。彼女は、瞬く間に散乱状態になり、「私は、ただ、毛布が由紀夫君の顔に乗ってしまったのを目撃しただけです。それだけの事です。なのになんで、誰も信じてくれないんですか、私が、精神に障害があるからって、みんなそれを利いようしようとしていただけでしょう。それでは、私が、勝手に犯人だと決めつけられてしまっただけで。私は、何もしてません!なんで私がしたことになるんです?私が犯人とした方が、都合がいいと、そういうふうに仕立ててあるだけなのではないですか?」

「わかったわかった。弁護士の先生は、犬養さんの味方だから、けっして犬養さんが不利になるようなことはしないよ。だからまず、そんな攻撃的な態度はとらないで、静かに事件のことを話すことから始めてみたらどうかなあ。」

と、影浦が、犬養さんに言った。

「本当に先生は、私の味方になってくれますか。」

と犬養は、小久保さんに言う。

「もちろん、嘘偽りなく、僕は、あなたの味方です。大丈夫ですよ。そう思ってください。今までのひとは、みんな怖い人だったけど、そういうひとばかりでもないんだと思ってください。」

小久保さんは、にこやかに言った。

「そう信じてください。」

犬養は、しばらく考えて、

「本当にそう信じてもいいんでしょうか。私は、先生に任せてもいいのですか?」

と、小さい声で言った。

「もちろんです。弁護士というのはそういうものです。」

と小久保さんは、彼女の目をじっと見て、そうにこやかに言ったのであった。






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