第36話 井丸一連の境界線

 何度巻き戻ったのか分からない。


 須和が、過剰ないじめに見て見ぬ振りをできずに干渉したり、不確定要素の出現により時代の流れが狂ってしまったり。

 過去の世界へ来て、既に一か月は経っていたが、確実にそれ以上、この世界で過ごしている。


 繰り返せば分かる事がある。

 自分の異能力のルールも、だいぶ、分かりかけてきた。


 巻き戻る条件は井丸と秋野の関係性だ。

 これが大きく狂ってしまうと、巻き戻ると判定されてしまう。

 多少の差は許される場合があるが、正直、確実とは言えなかった。


 もう一つ、どちらかが死んでしまった場合。

 交通事故で一度、秋野自身が井丸を庇い、死んでしまった事があった。

 その時も巻き戻されたのだ。


 ただし同じクラスメイトだが、井丸と秋野の関係性に影響を及ぼさない相手であれば、たとえ死んでも巻き戻りの条件には入らない。


 試した事はないが、須和映絵が死んでしまった場合。

 二人の仲に影響を及ぼすほどではないため、須和が死んだところで巻き戻りは起こらない。

 それ以前に異能力が解除されるだろう。


 秋野が知ったら、真っ先の須和を殺しに来るはずだ。

 絶対にばれないようにしなければならない。

 もしもばれれば、一方的な殺し合いになる。

 秋野は死んでも巻き戻り、記憶も保持しているため、実質、生き返るようなものだ。


 新居での生活も慣れた。

 自分の部屋で、机に向かっていた須和はノートを閉じる。



「秋野さんの家ってお金持ちなんですか?」


 巻き戻りを繰り返す内に須和もクラスメイトに嫌われないよう振る舞えるようになっていた。

 今では井丸一派(ほとんどのクラスメイトが集まるグループである)の中に混ざれている。


 昔とは違い、コミュニケーション能力の上がった須和は、自分から話しかける事を苦とも思わなくなっていた。


「そうらしいよ。昔から裕福な暮らしをしていたから人を見下す癖があるんだよ。いつも偉そうにしているから、すっごい腹が立つ」


 女子たちに嫌われている秋野には味方がいなかった。

 だが、須和のように根暗ではないため、一人でも弱さを決して見せなかった。

 いじられれば向かってきた女生徒を言葉で攻撃し、力の強い男子にも絶対に屈しなかった。

 くだらない相手に無視を決め込むスタイルは、一部の女子たちからは憧れの的でもある。


 しかし、誰も味方になりたがらないのは、次の標的が自分になるのは嫌だから、という傍観者の理由だろう。


 須和はこんな状況でなければすぐに味方になってあげたかった。

 秋野が欲しいと思うかは別として、見て見ぬ振りをしている時に湧き上がる衝動を抑えるのもそろそろしんどい。

 何度それが原因で巻き戻ったのか、把握できていない。

 苦しむのは須和だけではなく、やり直す秋野だって同じ生活をしているのだ。

 彼女のためにも抑えなければならない。


「そろそろ、この時期よね……」


 水道で手を洗っている時、三つ離れた蛇口にいた秋野が呟いた。

 須和と秋野は口をまったく利いていない。

 話す事など、ないからだ。


 須和が絡む事で、秋野と井丸の仲が変動してしまう可能性が高まるため、好都合ではあるのだが……。


 手紙ではなく、実際に声を届けてあげたかった。


「(わたしの届けた手紙はことごとく捨てられているけど……、励みにはなっているのかな……)」


 一人きりの戦い。

 須和はその孤独を知っている。

 この異能力を仕掛け、苦しみを強要しているのは須和である。


 今更、励みの言葉など悪趣味な攻撃でしかないかもしれない。

 しかし須和だって、願いがこんな形で生まれるとは思わなかった。


 これを見て、シシ・ジュリーは笑っているのだろうか。


「(……だとしたら、許せない……!)」



 変化が起きたのは十一歳、小学五年生に進級した時である。

 クラス替えもなく同じ顔ぶれの中、休み時間中にイヤホンをしている秋野維吹をよく見かけるようになった。


 注意しなければ分からなかったが、授業中にもはめている。

 しかし、誰もそれに気づかない。


 小学校に必要のない物は禁止されているので、不要物を持っているのはいじめている方からすればいじるアイテムとしては格好の的であるのだが。

 秋野維吹がイヤホンをするのは当然であるとでも言いたげに、無関心であった。


 先生も咎めようとしない。

 許可でも取っているのだろうか。


「おい、この前貸した二百円、いつ返してくれるんだよ」

「は? 借りてないぞそんなもん。勝手な事を言うなよ!」


「ちょ、ふざけんな! 駄菓子屋でお前が腹減ったって言うから奢ったんだろうが!」

「はいはいストーップですっ、喧嘩しないで二人とも!」


 最近、こういう事が多数ある。

 男子に限らず女子の間でも互いの記憶や言い分が噛み合っていない場合が多かった。


 毎回、見つけては須和が止めているが、どちらが本当なのか知らないため、止める事はできても解決はできなかった。


 そういう場合は、大抵、井丸が仕切り、勝負事にしてしまって勝敗を決めるのだが。

 一件落着しても、友情にひびが入ってしまうのは防げない。

 仲が良かった二人が次第に別れていく光景を見るのは、いつも寂しく思う。


「おっ、須和じゃん」


 夕暮れ時、課題をこなすための残っていた後、帰ろうとしていた須和のランドセルを飛び蹴りしたのは、井丸だった。

 派手に転んだ須和は顔と服を砂だらけにして立ち上がる。


「い、一連っ――!」

「ぎゃはははっ! 戦場帰りみてえ!」


 自分が好きになった相手とは思えない、乱暴で失礼な男だった。

 恐怖政治、とまではいかないが、クラスメイトは井丸に怯えている者も多くいる。


 それでも一定の信頼を得ているのは、井丸一連の人格はこの頃から根本的なところでは変わらないからだ。

 お節介なところは、過去も現在も同じなのだ。


「課題、困ってるなら手伝ってやろうか? 早く終われば一緒に遊べるじゃん」

「遊ぶ事ばっかり考えているんですね。もっと真面目に勉強したらどうですか?」

「勉強なんてつまらねーもん。みんなと一緒にふざけていた方が楽しいだろ」


 井丸の行動理由は全てが面白い事に繋げるため。

 自分だけではなく周りのみんなを笑顔にするのがどうしようもなく好きなのだろう。

 そして苦痛も一緒に共有する。


 誰かの失敗はいじって笑いにしてしまい、ネタとして消化する。

 一人に重荷を背負わせないように率先して立候補し、同じ時間を共に過ごして負担を減らす。

 一人になっている者がいれば、どんな手を使ってでも己の輪に巻き込んでしまう。

 たとえ攻撃的でも、結果のために井丸は鬼のような過程にも躊躇わない。


「(いじめもいじりも、主犯格は大して攻撃性はないんだよね。だから周囲で煽っている人の方が、いじめる相手に悪意を持っている事が多い。というか、大半がそう)」


 隠れ蓑にしているのだ。

 大きな影に紛れて利用し、発覚してもすぐに逃げられるように。

 それが一番、最低なやり口だった。


「で、どうする? 手伝ってやろうか?」

「……じゃあ、お願いしようかな」

「あいよっ」


 翌日の放課後、約束の時間になっても来ない井丸に溜息も出なかった。

 そんな気はしていたし、それに課題も待っている内に終わってしまっていた。

 伝える手間が省けた、と帰る支度をし、図書室から出る。


 静かな廊下、校内にはほとんど生徒はいない。

 残っている人数は一桁で数えられる。


 靴箱に向かう途中、空き教室から怒鳴り声が聞こえてきた。


 音を立てないように近づき、扉の隙間から中を覗くと、三人の同じクラスの女子と――詰め寄られているのは、秋野維吹だ。


 胸倉を掴まれ、壁に叩き付けられている。

 秋野はいつも通りに無視を決め込んでいた。


「お前、井丸になにをしたのよ……どんな手を使って従えた……っ! お得意の裕福な暮らしとやらで得たお金で釣ったって言うの!? 最低ね、井丸が可哀想よ……」


 井丸になにかあったのだろうか……、と須和は考えるが、それよりも状況が先に動く。


 秋野は詰め寄られても尚、イヤホンをはずさず、手に持つ端末を手放さなかった。

 女子が話しかけていてもお構いなしに常に指を動かし続ける。


 無視されている事に腹を立てた三人は顔を真っ赤にした。

 一人が秋野の頬を平手で叩く。

 ぱちんっ、と音が響いた。


 さすがに止めようと須和が動きかけた瞬間。

 秋野の指が止まり、同時に三人の女子が周囲を見回す。


「……先生、来ないね。呼び出されたから来たのに。……秋野さんも、呼び出されて?」

「そうね。来ないなら帰りましょう。私もこの後、用事があるし」


 それじゃあまた明日、と言い合い、秋野と三人の女子生徒は別れて帰って行った。

 時間をずらして靴箱へ向かった秋野の歩く速度はかなり遅い。


 まるで、須和映絵が追い着くのを待っているかのようであった。


「……今日が境目なのよ。私と井丸の関係性は、嘘で固められているの」


 秋野維吹にしては珍しく、攻撃性が薄い。

 疲弊したのは体ではなく、心だった。


「五年も積み重ねた悩みをもう一度体験する……。

 それだけで、私の心はもう折れているのよ」


 靴を履き替え、下駄箱を出た。

 校門までの道のりを、二人並んで歩く。


「私の異能力は人の心を読む事ができる。イヤホンをつければ、はずした片耳から聞こえた相手の心を、片方のイヤホンから繋がった端末のメモ帳に映し出す事ができる。その文章を修正したり消したり書き足したりする事で、相手の心を操る事ができる。

 見てたんでしょ? さっきの三人組とのやり取り。あの三人の私に向けた敵意を全て消し、私をただの友人として見るように入力し、あの場で集まっていたのはありもしない先生の呼び出しに従ったから、と辻褄を合わせた。

 今日の井丸もそう。不思議じゃなかった? いつもよりも積極的に、私に話しかけて、誘ったりしていたでしょ?」


 須和は違和感をあまり感じなかった。

 それは当然だ。

 須和がよく知る井丸一連が、今日の井丸一連であったのだから。


「『秋野維吹を好きになる』――井丸の心に、そう入力したのよ」


 五年経っても、この時の後悔を忘れる事ができない、と秋野の声は震えていた。


「こんな事をしなくても、いずれは友達になれていたかもしれない。興味本位でやるべきではなかった。こんな作られた関係性を続けたくなかった。でもしょうがないのよ、秋野維吹を好きではなく、ただの友人として見ると入力しても、変わった井丸を元に戻す事はできなかった。

 誰にでも優しく、手を差し伸べるようになり、攻撃的で乱暴なあの井丸は、二度と出て来なくなった。――私が、あの井丸を殺したも同然なのよ」


 須和がよく知る井丸は、この改竄によって生まれた。

 元に戻すには、あらゆる手を尽くした結果、秋野維吹を嫌いになる、と入力しなければ叶わない。

 ただ、それは秋野維吹にとって、どうしても入力できない文章であった。


 やり方はどうあれ、味方がいなかった秋野を一番、構ってくれたのは井丸であったのだ。


 孤独で苦しんでいた須和に手を差し伸べた、井丸一連と同じく。

 改竄されようとも、されなくとも、井丸一連はなにも変わっていなかった。


「ちょっとした出来心だった――でも、どうしようもなく、好きだった……」


 秋野維吹は屈み込んでしまう。

 須和は夕暮れを見上げて、懐かしい現在を思い出す。


「わたしだけが取り残された、わたしたちの世界も、その能力で改竄したんですね……」


 秋野は無反応だった。


「一連を奪ったわたしを、消そうとして。嫉妬と強欲で、あんな事をしたんですね……」


 秋野は立ち上がった。

 いつものような、孤高を貫く表情へ戻っていた。


「ええ。あんたを消す事に、後悔はしていない。井丸だけは、奪われたくなかったのよ」


「たぶん、改竄したところで一連は変わらないと思います。きっかけは違くとも、わたしと一連は出会い、そして再び恋仲になるでしょう。秋野さんと一連が結ばれる事はないと思います」


 たとえどうしようもなく好きだと井丸一連に入力したとしても。


「あんたに、なんでそんな事が――ッ!」


「だって、一連って、自分から言わないと思います。こっちから好きだって言わないと、あの人は恋の感情と向き合えませんから。――秋野さんは言えますか? 胸を張って、一連に好きだと。改竄した負い目を完全に振り払って、ただの自己満足で一連に好きだと、言えますか?」


 自分で操作し、作った関係に後悔をしている。

 そんな人間が、井丸一連に秋野維吹を好きになると入力した上で、好きだと告白できるわけがない。

 もしできて、成功したとしても、どうせ上手くはいかないだろう。

 なにも入力しなかったとしても、今度は井丸が告白を受け入れないだろう。

 須和という相手がいなければ、別の誰かを好きになるはずなのだ。


 井丸一連の中に、恋人候補として、秋野維吹は載っていない。


「だって秋野さんは、一連のタイプじゃ、ないんですよ」

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