第34話 彼女と幼馴染

 井丸と共に来た時とは違い、多少の光が道を照らしていた。

 授業中であるため閑散とした廊下にある、無機質なグレーの扉を開け、階段を降りる。

 道の先に見える部屋から漏れる光は、中に誰かがいる事を示していた。


 半分ほど開いた扉。

 風が吹けば、きぃ、と音を立てそうであった。


 須和映絵が恐る恐る顔を部屋に入れる。

 教室ほどの広さであるのに物が少ない。

 生活感のある家具が数点、置かれているだけであった。

 明かりはあっても誰の気配も感じられないため、さらに部屋の奥へと足を踏み入れる。


「あ……」


 ソファの上に積まれてあった着替えは、思ったよりも枚数が少ない。


 少ない着替えを押し上げていたのは、埋もれていた『なにか』があったからだった。


 制服の上に大きいサイズの白衣を着た女生徒であった。

 メガネをかけたまま眠っているものだから、完全にずれている。

 長い髪は必要以上には手入れがされていない。

 須和が思わず注目してしまうのは、容姿は控えめでも視線が集まる大きな胸だった。


「…………」

 自分の胸を見下ろせば比べるまでもなく敗北している。


 だが、井丸一連は須和映絵を選んだ。

 かつては秋野維吹を好きでいたかもしれないが、こうして須和を選んでいる時点で、胸の大きさは重要視しない項目である。


 胸の大小に、引け目など感じる必要もない。


「(でも、憧れる……)」


 ――用件は胸ではない。

 本来の目的のため、万一にも違う可能性も捨て切れないが、ほとんど本人と言ってもいいだろう……。

 秋野維吹を、睡眠から覚まさせる。


「起きて、秋野さん」


 と、一声。


 一瞬で、秋野維吹は目を覚ました。

 寝ぼけ眼ではない。

 意識がしっかりとあるところを見るに、浅い眠りだったのかもしれない。

 ただ、メガネがずれているため、よく見ようと目つきを細めるのではなく、純粋に攻撃的な目つきであったのは、寝起きで不機嫌だからだろう。


「誰よ。ああ、須和映絵……最も必要とされていない劣等人材か」


 ソファから足を降ろす。

 体に積まれていた着替えは秋野が起きた事で全て地面に落下する。

 それを取ろうともせずに、目の前の須和の肩に、わざとぶつかったように見えた。


 実際は秋野維吹の通り道に須和映絵がいただけだ。

 そこに悪意はない。


 須和映絵本人に敵意があるのではなく、そこにいる人物が誰であろうとも敵意を向ける。


「邪魔よ」


 須和は思わず秋野の腕を握っていた。


「――説明、してもらいますよ」

「……なせ」


 須和の手はいとも簡単に振り払われた。


「離せっ! 私に触るな――触っていいのは、井丸だけよ!」


 井丸一連と秋野維吹は幼馴染であり、恋人以下ではあっても特別な関係なのだろう。

 分かっている。

 だが須和映絵も、納得はしていても、気持ちの良いものではなかった。


「一連は、わたしの彼氏です。勝手に自分のものみたいに、言わないでくれますか?」


 呼吸が止まる。

 ソファの上に押し倒されていると、天井の前に見える秋野維吹の据わった目で理解する。

 首の皮膚にくっきりと痕がつきそうなほどの強さで、首が締められている。


「かっ、は……ッ」


「今は違うでしょ。今の井丸はあんたの事なんかただの暴力事件を起こした問題児の一人としてしか見ていないわ。あなたがどれだけ想っていても、井丸は決して振り向かない」


 そこまで理解しているのならば。

 確定だ――、

 秋野維吹がこの世界を作り出した張本人。


 自分勝手に全てを歪めた、強欲でわがままなお姫様。


「(まずい、意識が、朦朧もうろうと……)」


 首を絞めている手にさらに力がこもっている。

 冗談ではなく、秋野維吹は本気で須和の息の根を止めようとしていた。


 ならば仕方がない。

 須和は、中腰状態でいる秋野の空いた腹部に手加減なしの膝蹴りを喰らわせた。

 締めていた手が緩んだところで、腕の力だけで相手の顔面を思い切り殴る。


 ……頬骨の感触に嫌な気分だ。

 倒れた秋野は殴られた部分を手で押さえ、目尻に溜めた涙を拭う。


「こんのっ、チビ……ッ」

「脂肪ばかりの牛女よりも、チビの方がマシですっ」


 睨み合う二人はいつ、再び殴り合いになってもおかしくはなかった。


 ――と。

 

 仲裁に入ったのは、部屋の中にぬいぐるみのように紛れ込んでいた、見た目は悪魔のようにも見える、二頭身のマスコットであった。


『殴り合い。面白くないなあ。退屈しないための異能力だろうに』


 ウケケ、と人を馬鹿にしたように笑う。

 人を嘲る三日月の口。


 コンマのような豆粒の瞳は秋野と須和を同時に追う。

 瞳はそれぞれ、別々に動いていた。


「邪魔しないで。あんたには関係ない」

『いつからお前の味方になったんだ? 神を顎で使う人間は中々いねえが』


 珍しくとも気分の良いものではねえな、と、マスコットの両の瞳が秋野に向いた。


「【シシ・ジュリー】……」


 思わず零したその名前。

 だが須和は、はっきりとは覚えていなかった。


「わたしは、あなたを知っている……?」

『知っていた、だろうなあ。異能力と共にオレサマに関する記憶は断片的に消える』


 名前だけをなんとなく知っていたのは、消えなかった断片だ。


 結局それも、一つだけの欠片では意味をなさず、頭の片隅にはあっても、いらない情報として脳が勝手に忘れさせるが。


『そんな事よりもだ。退屈しのぎが退屈になってきやがってなあ、暇なんだ、こっちは。やっと面白くなってきたかと思えば、ただの殴り合い……、武力を誇示する単純明快な解決法にはガッカリだぜ』


「あんたを楽しませる気なんてこっちには毛頭ないのよ」


『おいおい、オレサマは退屈しのぎのためにお前ら人間に異能力を授けてるんだぜ? モルモットとまでは言わねえがな。せっかく道具を与えているんだ、視聴者を楽しませる芸人にはせめてなってくれよ。じゃねえと、異能力を渡すオレサマと受け取るお前らとの契約が成り立たねえじゃねえか。文句があるか? 願ったのは、お前らなんだぜ?』


「待って。待って、待ってよ、シシ・ジュリー!」

『ジュリーでいいぜ。ジュリアンでもいい。フルネームを呼ばれるのは気持ちが悪い』


 分かりました、敬語もいらねえ。

 そんなやり取りの後、須和はジュリーと呼ぶ事にした。


 ただ敬語を直しはしなかった。

 敬語を取って話す相手は、親しい仲だけである。


「ジュリーは、一体なんなんですか……? さっき、神と言っていましたけど……」


『ああ、神だぜ? 見えねえか? 確かにお前らにとっては慣れ親しんだ可愛らしい悪魔みたいな見た目をしているしな。お前らの都合にこっちが合わせてやってんだぜ? 本来の姿に戻ればお前らはオレサマの全体像を捉えられない。大きさの規模が想像もできねえだろうさ。お前らは一か所から青空を全て把握できねえだろ? それと一緒さ。その存在量を凝縮させたのが、お前らが好きそうなぬいぐるみの形になったわけだ』


 オレサマは柱だ、とジュリーが言うと、景色が一変した。


 宇宙空間に投げ出されたと錯覚するほどの景色と無重力感。

 教科書にも載っている地球の青い姿が真下に見える。


『仮定だ。地球を、広がる宇宙の中心としよう。地球に吸い込まれるように落下する宇宙……これは屋根だな。それを支えるための柱が、オレサマだ。オレサマを含めて十二神いる。分かりやすいだろ?』


「一月から十二月」


『ご名答。だが、維吹には一度教えたんだ、知っているのは当たり前だろ』


 無重力空間にも取り乱さないのは、一度体験したからだろうか。

 須和もしばらく漂っていれば慣れてきた。

 後ろに向かっても見えない壁に阻まれ、距離が離れる事はなかった。


『オレサマを含めて十二神はとにかく娯楽に飢えている。宇宙空間にはなにもないのに欲求だけは溢れ出てくる。だから各々好き勝手に地球のような星……世界を作っていた。だが、あっという間に崩壊するんだよ。理由は分からんがな。リーダーシップの強い一月は過干渉だとか言っていたが、手をつけられない箱庭シミュレーションゲームなど面白くもない。誕生と崩壊を繰り返し、そして今のところ維持できている唯一の世界がお前らのいる、地球だ』


 崩壊が続いていた後の、維持された地球の成功の理由は、合作だった。


『十二神が協力した、すると、季節が巡るようになった。天候に変化が起こるようになった。そして失敗から学び、適度な干渉に留める事にした。それが、異能力を授けるルールだ。オレサマたちは異能力を授けるだけでその使い方、使い道はお前ら人間に任せた。人間が思うように使えば、崩壊に繋がる事もなく、一度きりの干渉でオレサマたちは長い時間を眺める事で楽しめる。見ていて面白いんだよ、箱庭観察ゲームはなあ。……人間はやっぱり見てて飽きないんだぜ? そして、一番楽しめる時期ってのがいつか分かるか?』


 人間が最も輝いていたと感じる時期――、

 あの頃は良かったと挙げる最大の思い出。


『青春時代。オレサマたちは多くの青春を見てきた。そして何度も笑ったさ』


「馬鹿にして笑って楽しんだ、でしょ?」


『ああ、そうだぜ。神にとっては人間なんて実験動物みたいなものだ。娯楽に使われるだけありがたいと思えよ。光栄な事なんだぜ? 青春嘲笑劇に参加できるのは栄誉な事だ』


 身勝手な神に言い返したい気持ちだった。

 だが世界の創造主。

 須和映絵も秋野維吹も井丸一連も、シシ・ジュリーに作られた存在。

 彼の一声で存在を抹消できる――かもしれない。


『恐がらなくていいぜ。お前が思っている事はできなくもないが、できればしたくない。ご機嫌を取る必要もないぜ、ただオレサマは退屈にならなければそれでいいんだ』


「退屈にならないように、ですか……?」


『殴り合いは面白くもなんともねえ。対立するならいいものを授けてやろうか?』


 須和映絵の目の前に、一瞬で移動するシシ・ジュリー。

 いつの間にか宇宙空間から景色は戻っており、気づけば地に足がついていた。


『あと数秒の内に、お前の記憶は改竄される』


 須和は言葉を失った。

 記憶の消去ではなく、改竄。

 思い通りに世界を操れる、桁違いの影響力を持つ異能力。


 方法は分からない。

 だから回避法だって予想もつかない。

 須和映絵の記憶が改竄されれば、もう二度と、井丸一連と元の関係に戻る事はない。


 ――それだけは絶対に、嫌だッ!


「ジュリー! 邪魔をしないで! その女を改竄すれば井丸は私のものにできるのよ!」


『いつから言っていやがる。異能力を使って五年も経っているのに願いも叶えられない無能に付き合うのも、もうごめんだ。たまに眺めるくらいなら楽しめはするがな。ここで少し、お前にも壁を与えておくか。現状維持に満足されても困る。そろそろ、前に進む時だぜ、維吹』


 秋野が握っていた端末が手から弾き飛ばされる。

 シシ・ジュリーの指先から出た、説明するまでもない支配者としての、自由度の高い『力』だった。


 端末に繋がっていたイヤホンまでもが共に飛んでいく。

 拾って再び作業に戻るまでに時間がかかる。

 シシ・ジュリーがくれた僅かな時間。

 だが、考えている暇はない。


 願うか願わないか。

 このまま改竄されるか。

 利用されると分かっていながらも神の誘惑に乗ってあげるか。


 シシ・ジュリーは既に須和の内側、深層心理に潜む願いを読み取っている。

 だからこそ面白くなると確信して、僅かな干渉を実行しているのだ。


「一連を取り戻せるの?」


『さあな? お前の願いは、それじゃないみたいだぜ。井丸一連……あいつの影響力は凄まじいな、あっという間にお前はあいつに染められちまっている。だからこそ、まだこんな願いが深層心理に潜んでいるんだよ』


「わたしの、願いは……」

『異能力が、欲しいか、映絵』


 井丸一連を確実に救えるとは限らない。

 だが、なにもしなければ改竄されて終わりだ。


 秋野は端末を拾い上げ、作業に戻ろうとしていた。

 もう残り時間はないも同然だった。


「ジュリーっ。わたしに、異能力を!」

『任せな、青春嘲笑劇の開幕を宣言してやるッ!』

「待てッ、待ちなさい須和映絵っ! あんたなんかに――ッ」


 肩を強く引っ張られたところで、景色が真っ白になった。


 短時間で長時間分の睡眠を取った時のような感覚で目を覚ます。


 懐かしい匂いと内装。

 車内。

 助手席の後ろに座っていた須和は、自分の手を握っている小さな少女の存在に気づく。


 頭を須和にもたれかけ、ぐっすりと眠っている。

 反対側を見れば、景色を眺めている、小さいが大人っぽさを感じさせる少女がいた。

 須和よりは全然年下だ。


 さっきまでの須和映絵から見ればの話であり、途中、見かけた宣伝広告を見て理解する。

 今の須和映絵からすれば、彼女は年上であった。


「(六年前……わたしが、十歳の時代……)」


 窓ガラスに映る須和映絵の容姿は、当たり前だが幼い。


「――何度も言ったけど、三人ともごめんね。急に転校をする事になって……」


「大丈夫だよ。友達と会えなくなるほど遠くなるわけじゃないし。仕事の都合なら仕方ないって分かっているから。お父さんの仕事は場所や時間に左右されるし、専門の道具がないと完成度だって落ちちゃう事もちゃんと調べて知ってる。だから何度も謝らなくてもいいよ、お母さん。映絵ちゃんも、気にしてないよね?」


「うん。気にしてないから大丈夫。(なるほど、そういう事ね……)」


 過去に戻っていると気づいた時、思い出を探してみたが、車でこの町へ来た記憶などなかったのだ。

 忘れている可能性もあったが、しかし、今の会話でなんとなく把握した。


 須和映絵が辿ってきた記憶とは違う。

 井丸一連が生まれ育った町、『浮足』へ引っ越す事になった、と変更されていた。

 それに伴い転校する事になる――。


 つまり、恐らくは須和映絵が混ざる事になるクラスには、幼い頃の井丸一連、そして秋野維吹がいるはずだ。


 考えていると、視線を感じて顔を上げる。

 姉の紅羽と母親が驚いた表情で固まっていた。


「え、なに……?」

「映絵ちゃん……スムーズに喋れてるなって思って」


 失礼な、と怒りかけたが、確かに当時の自分は恥ずかしがり屋で言いたい事も満足に言えない子供だった。

 家族にさえも尻込みしてしまうほどで、何度も迷惑をかけた。

 それが長く続く妹との冷戦の原因にもなっている。


 今は幼い体に成長した須和が入っている。

 家族にはまともに見えているはずだ。


「この転校も、映絵には良い結果になるかもしれないわね」


 須和にとっての現在を変えるために、過去へ戻ってきた――、

 いや、そういうわけではないのだろう。


 過去を変えたいなどと、須和は思った事などない。

 後悔をしても、やり直したいとは願わなかった。


 やり直した事で歴史が変わり、井丸一連と出会えないかもしれないのだ。

 そんなリスクを背負うのならば、ありのままを受け止める。


 だからこのタイムスリップには別の理由がある。


 深層心理に潜む須和の、願いとは――。

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