第32話 奪われたものを奪い返すために
いつもの時間に駅前で待っていた須和映絵は、迎えに来ない井丸を心配してメールを送るが、一向に返信がこない。
入れ違いになってしまうかもしれないが、メールをしておけば後で必ず見るだろう、と先に行く事を伝える。
校門を通る際、意識して井丸を探すが、見慣れた姿は見えない。
――そして、気になる部分も須和の心をかき乱す。
慣れ親しんだ空気。
慣れても、親しんでしまってもダメではあるのだが、中学から続くこの空気に慣れてしまうのは仕方のない事だ。
井丸と関わってから軟化されていたものが、久しぶりに須和を狙い撃ちにしている。
奇異な目線と、怯えた視線がごちゃ混ぜになっている。
普段は井丸が一緒にいるからこそ気づけなかっただけで、周囲はなにも変わっていなかった可能性もあるが……そこで須和は遠くに見える背中を、井丸だと確信する。
返信もしないで約束をすっぽかし、先に行ってしまった理由を問いただす気満々であったのだが、背中を見ただけで全てが消し飛んだ。
会えただけでじゅうぶん過ぎるのだ。
「一連っ、おはよう」
「ああ、おはよう」
昨日の体調不良など嘘のように、井丸はいつも通りに返事をした。
しかし気になるのは体調だ。
嘘のように見えても、実際はどうなのか、本人にしか分からない。
詳細を聞こうと口を開いたところで、須和が止まる。
違和感があったのだ。
先に喋り出すのは大体が井丸だ、須和の口の方が先に動くのは珍しい。
たったそれだけの違和感であれば誤差であると言えるが、気になったのは視線だ。
さすが井丸と言うくらい、嫌悪はない。
怯えだってない。
あるのは疑問だった。
なぜ自分に話しかけてくるのか、接点などなにもないだろうとでも言いたげなその疑う視線に、須和は嫌な予感を感じ取る。
その先の世界を体験したくはなかった。
だが、須和がなにもしなくとも、自分で考え、動くのが井丸一連という男だ。
井丸に限らず、人間とは、本当は一人でなんでもできる。
「どうかしたのか、須和」
須和――、名字呼びに戻っている。
須和はまだ大丈夫と自分に言い聞かせ、挽回可能な想像で自我を保つ。
名字呼びをし始めたのは昨日の話だ。
なら、昨日以前、そう遠くない日に戻ったと解釈をすれば(たとえば異能力に巻き込まれたとして)、須和と井丸の関係性は恋人でなかったとしても遠くはない。
思い出を共有していけば、いずれ思い出してくれるはずだ。
『はず』――そんな希望的観測。
忘れたのならば思い出させてあげればいい。
記憶喪失になった例はいくつもある。
実例もそうだがフィクションにもたくさんある。
記憶喪失の相手を知る人物の動きだって、須和は知識として持っている。
思い出を失くし、思い出せなければ、新たな思い出を作って共有すればいい。
できない事はない。
井丸への想いが偽りではない以上、須和が動く理由はじゅうぶんにあるのだ。
何度でも、同じ事をして、何度でも、あなたのハートを射止める。
口で言うのは簡単だ、でも、実行するのは難しい。
――記憶喪失の相手を見る人物だって、メンタルが無事であるはずがない。
平気な顔をしながらも同じように苦しむ。
なにも思い出せずに不安だらけの当人よりも、失い、元に戻らないかもしれない親しい人物に痛める心へのダメージは、強力だろう。
須和は、井丸からそんな言葉を聞きたくなかった。
だが、耳を塞ぐ暇なんてなかった。
「なんで俺に話しかけたのか知らないけど、あんまりやんちゃするなよ。暴力事件だったり器物破損だったり授業をサボったり、そんなことしてたら退学になっちまうからな」
須和の足が止まった。
どこまで遡っているのかと思えば、出会う前だ。
須和を知っている、噂を聞いている時点での知識量。
積み重ねてきたものが全てなくなったと悟った瞬間、須和の膝が崩れる。
周囲の視線や対応を見れば明らかなのが、昨日まではここまで酷くはなかった、須和への当たり。
松本一派が牽制してくれていた。
それすらもなくなっている。
築き上げた松本一派との信頼は、きれいに全て、消えている。
クラスのみんなと打ち解け始めていた。
友達になれそうなクラスメイトも数名いた。
自分に嫌悪ではない興味を持ってくれている人も数名いた。
井丸が繋げてくれた人の輪は段々と大きくなっていた最中だった。
それが一夜で崩れた。
元に戻ったのだ。
全校生徒から厄介者扱いされていた、井丸と出会う前の、自分に。
「なん、で……」
時間が戻った。
別世界に移動した。
異能力を知ってしまったら、可能性の全てが実現可能に見えてしまう。
絞り切れない。
選択肢が多過ぎる。
自分一人では、どうにもできない。
「一連……っ」
また、助けを求めるの?
過去の自分の声である気がした。
まだ隣に井丸がいた頃、二人ならばなんでもできると信じていたあの時間。
助けるべきは、誰?
被害者は、須和映絵では、ないでしょ?
異能力であるとして、巻き込まれたのは井丸、松本……全校生徒、そう考えるべきだ。
自分だけが全ての記憶を持っているだなんて、仲間はずれにされているだなんて――、
相手の作為を感じる。
須和映絵を敵視したような采配だった。
偶然、須和映絵にだけ異能力をかけられなかったのかもしれない。
わざとかけなかったのかもしれない。
どちらにせよ、全てを把握している人物がもう一人が、最低でもいるはずなのだ。
それは誰なの?
須和映絵は答えを知っている。
須和映絵だからこそ分かる、女の嫉妬を感じ取った。
相手の事などよく知らないし、名前だけしか聞いた事がない。
須和にとっては小さな存在であるが、
井丸自身や井丸の周りでは多大な存在力を発揮する、一人の女の子。
「――秋野、維吹」
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