第31話 井丸家と不可解なアルバム
学校から駅を越えた先にある、土手の近くの住宅街の一端。
ごく普通の一軒家が俺の家だ。
学校からそう距離は遠くない。
いつも余裕を持って起きてはいるが、もしも大幅に寝坊をしても走れば間に合うくらいには近いと言える。
電車通学である映絵は、いいなあ、と羨ましがる。
俺も不満がないので否定もできない。
ただ地元だからこそ、小学校、中学校と、登下校の風景が変わらないつまらなさはあったりするが。
「ただいまー」
「おかえりぃ。……あれ? お兄ちゃん、また別の女を連れ込んでる」
お母さーん、と大声で母親を呼ぶが、専業主婦の母親は洗濯物を干すために外にいるため、聞こえていないらしい。
返事がない事に、棒アイスをなめる妹は肩透かしを喰らったようで、あーあ、と溜息を吐く。
「人聞きの悪い事を言うなよ。誤解されるだろ」
「事実を言っただけなのに……、ん? 誤解されたらいけない人なの?」
「まあな。俺の彼女を連れて来たんだよ」
「あっ、その、須和映絵です、初めまして……」
目を見開き、アイスを食べる手を止める妹。
……それにしても、家の中だからいいが、俺の部屋着を当たり前のように着ているのはどうかと思う。
また俺は新しいのを出さなくてはならない。
数秒、驚いた妹は、やっとの事、口を開く。
「維吹ちゃんじゃないんだ」
「……彼女の前で他の女の名前を出すなよ」
「んっ、そうだよね、ごめんなさい。映絵さん、ですか?」
「う、うん。映絵です!」
彼氏の妹に緊張するのは、分からないでもないが、中学一年生になったばかりだ、もっと気楽に接してもいいと思う。
敬語で話していると、こんな妹でも大人っぽく見えるから不思議だ……。
それに比べ、俺の背中に隠れる映絵は、幼く見える。
敬語でないから、とは、関係ないだろう。
「お兄ちゃんをよろしくお願いします。あ、お母さん」
洗濯物を干し終わったらしい母親が騒ぎを聞きつけ顔を出した。
あらぁ、と世間話をする商店街のおばちゃんのように(実際、母親は若いが)、映絵を見て目を光らせる。
「今度はどんな厄介な騒動があったの?
作戦会議に使うなら、一連の部屋、存分に使っていいわよ」
「……苦肉の策として、行き先がない場合は俺の家を使ったりするんだよ。手を差し伸べたのに放ったらかしにはできないだろ? だから仕方なく招いているだけで、変な意味はないよ」
彼氏として、別の女を部屋に連れ込んだ弁明をする。
映絵も納得はしてくれたらしい。
感情的には、気持ちの良いものではなさそうではあったが。
これからは自重しようと心に決める。
俺たちの会話を聞いたのか、聡い母親は俺たちの関係を言い当てる。
「そうだよ、彼女。須和映絵」
「はじめまして、よろしくお願いします……」
「維吹ちゃんじゃないのねえ」
と、またしても秋野の名前が出た。
気遣いができない妹と母親だった。
「なんでもかんでもあいつと結びつけるなよ、幼馴染だからって、恋仲になるとは限らない」
「お兄ちゃん、維吹ちゃんの事、好きだったじゃん。顔に出てたよ」
「てっきりもう付き合っているのかと思っていたのよ。
まあ、維吹ちゃんは彼女じゃなくて、親友だものねえ」
一度も言った事がない俺だけの秘密だったのに、こうもばれているとは。
俺はそこまで顔に出やすいのだろうか。
「……秋野は関係ない。俺の彼女は映絵だからな、勘違いするな!」
映絵の手を引っ張り、二階にある俺の部屋へ連れ込む。
一階から母親の声が、扉を閉めても聞こえてきた。
「洗うの大変なんだから、布団は汚さないように!」
「デリケートな部分を叫ぶんじゃねえよ!」
せめて耳元で囁いてくれたら忠告として受け取れるのに……、気持ちは悪いが。
「悪いな……居心地が悪かっただろ。
……維吹ってのは、秋野の事だ。
俺の幼馴染。本当になんでもないから、気にするなよ」
しかし映絵は俺の話など聞いていないようで、六畳ある俺の和室を見渡していた。
畳の上に敷かれた布団。
無造作に投げ出された掛け布団に、脱ぎ散らかされた服。
普段、使っている鞄が、チャックが開いたまま中身が丸見えだった。
貯金箱の中身が散乱している。
全て俺が片づけていないから見えている光景だった。
咄嗟に連れ込んだので、掃除する暇もない。
「あー……、ちょっと待ってろ」
畳を隠している散乱した物を壁際に寄せる。
見えた畳の上に座布団を敷いた。
どうぞ、と手招く。
だが、映絵は座ろうとしなかった。
腕を組んだ後、こめかみを押さえる。
「一連、この惨状は見過ごせないよ……」
「……? なにがだ?」
「今すぐ! きれいに掃除をするの! わたしも手伝うから!」
映絵も家事自体は上手ではない。
料理も洗濯も掃除も、人並み以下ではあるが、しかし俺とは違って一応はできる。
俺と付き合い始めて意識し出したのか、母性本能でも目覚めたのか、家事は一通りできなければならない、と強迫観念があるらしい。
それを含めても、映絵は上手くなりたいと思ったのだと言う。
今回も己のステップアップでもあり、俺のだらしない生活を見かねたから……もあった。
「お兄ちゃん、お母さんがバームクーヘン……って、なにしてるの?」
扉を開けた妹が棒立ちで固まる。
年末の大掃除のような惨状に呆れた顔だった。
「一連、ちょっと休憩しよっか」
「そーだな。腹も減ったし……」
妹からバームクーヘンを受け取り、ちゃぶ台に乗せて二人で食べる。
二人に対してバームクーヘンが三つだった意味は、妹も居座るからであった。
「……なんでお前がいるんだよ」
「監視。布団を汚さないパターンもあるからって、お母さんが」
「お前は意味が分かっているのか?」
「ちょっと、妹にそういう事を聞かないでよ……。でも、布団って汚れるものなの?」
その疑問が出るのならばよく分かっていないらしい。
ついこの間まで小学生だった妹に母親が詳しく説明するはずもないか。
保健体育も小学生はどれだけ教わっているのかも、俺はもう覚えていない。
「簡単に言えばエロい事だよ」
「なんだエロい事か」
「一連!?」
映絵が驚きバームクーヘンを喉に詰まらせる。
一緒に持ってきた飲み物で流し込む。
「大丈夫かよ、慌てるなって。下手に隠すより、漠然とでもいいから言っといた方が、変に勘繰られないんだよ。こいつはそういう妹だ」
「そういう妹なので」
と、警察のように敬礼をする妹。
早く戻れと思うが、食べ終わっても一向に俺の部屋から出ようとしなかった。
食べてすぐに俺の布団に横たわる。
牛になるぞ、といつもの癖で言うと、
「もー」と牛のモノマネをする。
井丸家はゆったりとこんな感じがしばらく続く家系だ。
「戻れって」
「戻ったらエロい事をするんでしょ。なんだか、それは嫌」
「なんでだよ、お前に関係ないじゃん」
「お兄ちゃん離れができていない内は、別の部屋で音も聞こえなくても、お兄ちゃんがエロい事をしているのは、なんだか嫌。嫌ったら嫌」
須和の妹が明け透けなら、俺の妹の心中は透け透けだった。
好んでくれているのは素直に嬉しいが、俺の世界を侵食されるとなると話は別だ。
鬱陶しく感じる。
でも、突き放せない俺も俺で、妹離れができていないのだろう。
「仲が良いんだね」
「まあ、な。気持ち悪いと思われそうだけど」
「わたしは全然思わない。家族だから当たり前だとも思うけど、誰かに嫌われているよりも、好きでいられている一連を見る方が嬉しいに決まってるよ」
気遣い、ではない。
映絵は気を遣う事が多いが、俺に向けては素直だ。
好意も嫌悪も、真っ直ぐにぶつけてくる。
その態度は俺にとっては心地良いものだった。
「ありがとな」
「お兄ちゃん、変わったよね。随分前からだけどさ」
妹は押入れを開け、上半身を突っ込んだ。
軽そうな尻が左右に揺れる。
尻軽女ではない事を祈る。
お兄ちゃん離れできていない内は、安全だろう。
「維吹ちゃんとよく遊ぶようになってから? かな。お兄ちゃんは変わったと思うよ」
「変わったって言われてもなあ……成長したって事じゃないのか?」
「そうかもしれないけど。昔はもっと野蛮で乱暴だったよ。
優しいのは変わらないけど、不器用にやり方が間違っているって感じで」
よく似た奴を見た事があるな……宮原か?
「角が取れて丸くなったって感じ。
――あったあった、アルバム。映絵ちゃんも見たいでしょ?」
差し出された重たいアルバムを受け取る映絵。
わわっと落としそうになるのを支える。
ページを開くと、俺が赤ん坊の頃の写真から、段々と大きくなっていく記録が見れる。
三歳下の妹も、途中から記録に登場している。
妹は妹で別のアルバムがあるが、一緒に映っているのも、互いのアルバムで被っていたりする。
あくまでも俺のアルバムであり、妹の登場頻度は少ない。
小学生に上がり、懐かしい面々が登場してくる。
秋野と仲良くなったのは確か小学五年生の頃だったはずだ。
それまでは秋野のいない、写真に写っている面々と遊んでいた。
当時を思い出す。
やんちゃだった一面も、俺には確かにあった。
しかし、野蛮や、乱暴という言葉が似合うような行動はしていない気がするが。
「学校のイベントで行ったバーベキュー、お兄ちゃん覚えてる? 大変だったよね、この時はあまり仲良くなかったけど、維吹ちゃんが川に流されちゃって――」
「ん? 秋野? そうだっけか? 別のクラスの女子じゃなかったか?」
「維吹ちゃんだよ。足を滑らせちゃって川に落ちて、流れが急だったから助けるのも一苦労で……助かった後も維吹ちゃん大変そうだったなあ。維吹ちゃんだけ、不幸な目にたくさん遭っていたし。もうっ、あの頃のお兄ちゃんってば、傷心中の維吹ちゃんに捕まえた虫を見せて恐がらせて……好きな子をいじめちゃう心理だったんだねえ、いま考えると」
懐かしむ妹と、へえ、とアルバムを見る映絵に挟まれ、俺はなんともしっくりこない。
さっきからずっと、俺の頭の中で繰り返している言葉がある。
『――そうだったっけ?』
昔の記憶だからこそ喰い違いがあるのは不思議ではない。
妹も俺も小さかった。
主観が混じっていたり、想像を付け加えてしまっている可能性だってある。
写真に写っていない部分は、どうとでも言えるからだ。
それを踏まえても、俺の知る記憶と妹の記憶が、違い過ぎる。
バーベキューに行った、行っていない。
川があった、ない。
そんなレベルではないにしても、だ。
川の流れが急だった、川の流れがゆるやかだった。
その程度の違いは現に今、俺は感じている。
川の流れが急だった。
ならなぜ、川で泳いで遊んだ記憶がある?
だとすると別の女の子が川に落ちて溺れかけたという記憶もおかしな話だ。
別の場所?
別の川?
別の日の出来事なのか?
可能性は否定できない。
枝分かれしたあらゆる可能性が広がっている。
しっくりこない。
俺の感想はそれ一択だ。
アルバムをめくるごとに、妹との差は大きくなるばかりだった。
小学五年生を過ぎた辺りからは一致してきてはいるが……、
それ以前の記憶が曖昧だった。
古い記憶だからと言われればそれまでだが。
それに、喰い違いがあるから、しっくりこないから、だからなんなのだと言われれば、どうって事のない謎ではある。
解いたとして、得られるものはスッキリとした感覚だけだ。
最悪、スッキリしなくとも、いずれは消えてなくなるようなものである。
気にしない方が賢い選択だろう。
「……一連、どうしたの?」
「いや……」
体勢の問題かもしれない。
俺は起き上がり、部屋の外へ出る。
二人は不思議そうな顔をしていたが、俺は理由も言えなかった。
なんだ……、二つの異なる映像を重ねて見せられているような。
その異なる映像もまったく違うわけではない。
舞台も景色も人も同じなのに、行動や言葉が違う。
微妙に重ならない映像が一瞬の中で膨大に頭に流れ込んでくる。
俺は吐いていた。
映絵と妹に抱えられ、自分の布団で目覚めたのが、数時間後の事である。
映絵は既に帰っており、枕元に一通の手紙があった。
『明日、詳しく話そう。お大事に』
返事はスマホで伝える。
その後、胃の中のものを全て出したのだ、空腹を我慢できずに残っていた夕食を食べる。
随分楽にはなったが、やはり多少の頭痛は残っていた。
熱を測ったが平熱。
風邪ではないらしい。
母親と妹、遅く帰ってきた父親に、今日は早く寝た方がいいと言われ、再び布団に横たわる。
目を瞑ると頭痛も和らぎ、そのまま眠っていた。
真夜中、人の気配がした。
ぬいぐるみを抱えた人影。
手に持つ端末にコードが伸びている。
イヤホン?
音楽を聞いているのか?
片耳のイヤホンははずし、耳はこちらに向いている。
指が止まる事はなく、高速でフリック入力が行われている。
三日月のような笑みの口と、コンマのような瞳。
二頭身のぬいぐるみが声を出して笑った。
窓が開いたまま、カーテンが風に煽られる。
誰かいたはずのそこには、誰もいなかった。
「明日になれば、なんとか、なるだろ……」
睡眠と睡眠の隙間の覚醒。
覚えている事など、あてにはならない。
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