第25話 選択肢は結局ひとつ
早い朝だった。
天野の親父さんに合わせて、天野家は活動を開始するらしい。
六時半に起床し、七時には朝食を食べる。
その後、家と道場の掃除をし、今日、使う予定の道具をチェックし、きれいに汚れを落としていると、もう九時になっている。
今日は門下生が道場に来る、練習の日らしい。
男手が必要という事で、俺も手伝いに駆り出されていた。
家の廊下を雑巾で拭いていると、天野のお母さんが腰を下ろした。
自分の雑巾を絞っている。
「あんまりあの子をつつかないであげてほしいわ。あなたからすれば、気になるでしょうし、理不尽に怒られている事に不満があるでしょうけど、そういうわけじゃないのよ」
「いや、でも……さすがに近づいただけで突き飛ばされるくらいに拒絶されたら、ちょっと」
ちょっと、どころか、かなりショックである。
昨日の夜は仲直りできて、異能力に巻き込まれた一週間のように楽しく会話も弾んでいたのに――。
それが一度、寝て起きたら、さらに悪化しているとは思わない。
俺が悪いのかと思ってしまう。
そうであるなら謝りたいのに、須和は取り合ってすらくれない。
怒っているわけではないのは分かるが。
俺の顔を見て、すぐに逃げるのだから。
「待ってあげて。
きっと、あの子は覚悟を決めれば、凄く押しが強いと思うから。
かつての私みたいに、ね」
押しの強い母親が親父さんを無理やり惚れさせたのだと馴れ初めを聞かされた。
確かに声と態度は大きいが、親父さんは母親に頭が上がっていなかった。
「頑張ってね、男の子」
天野の母親にそう言われ、俺は掃除を再開させる。
雑巾がけを続けていると、細い足が見えた。
ショートパンツを穿いた松本だ。
「あー……」
「スカートなら良かったのに、という顔だね。お望み通りに今度、穿いてあげようか?」
松本にスカートは似合わないような気がする。
背が高くスタイルが良いのだから、今のショートパンツの方が似合うだろう。
それに海外のテニスプレイヤーみたいで健康的に見える。
屈んだ松本は俺に唇を押し付ける。
……慣れというのは恐いな。
松本とのキスを、もうなんとも思わなくなっている。
昨日の銭湯の後、真夜中に二回。
一度は叩き起こされ、一回は知らずの内にされていたと松本に教えられた。
松本の体調が悪化していないのなら、構わないが。
「しかし、そろそろ決着をつけないとまずいよな……学校が始まっちまう」
「学校でのキスはすぐに噂になっちゃうもんね。いっその事、付き合うって公言する? そうすればいつキスをしても問題ないでしょ」
「誰が公言するか。……人と自分の気持ちをおもちゃにするなよ」
「ふふっ、優しいねー。あっ……」
屈んだ松本が足を滑らせたのか、前のめりに倒れてくる。
それを受け止めると、松本は腕を俺の背中に回して、ぎゅっと服を掴んだ。
間隔が早い気もするが、また異能力が発動した?
「単純に足を滑らせただけ。ごめんね」
「気を付けろよ……ん? 今、後ろに誰かいたのか?」
「みやっちたちが通り過ぎて行ったよ。
幸い、抱き合っているところは見られていないから安心して」
「不可抗力だから弁解できるけどな」
「信じてもらえるかは別である事を忘れないでねー」
嘘で塗り固めて、冤罪を成立させるようとする恐ろしい言葉だった。
女の子は強い。
というか、女の子の言葉や主張はいつだって強い。
須和映絵の本心を問い詰めた三人は、松本の行動にある狙いを見出す。
須和の心情を吐露した現場にいなかったのは、以前から知っていたのかもしれない。
そのアドバンテージにより、須和を焚きつけた。
「昨日までは大丈夫だったのに、今は井丸くんを目の前にするだけで心が苦しい……ッ」
まともに顔なんて見られない。
会話だって満足にできない。
一挙一動がどうにも須和の心をかき乱す。
この気持ちに決着をつけるには、須和が井丸に伝えるしかないのだ。
だが、その選択には恐怖が付きまとう。
失敗すれば、もう元には戻れない。
たとえ井丸が元に戻れると言ってくれていても、須和の中にはやはり壁ができ、一緒にいる事は叶わなくなるだろう。
それがどうしようもなく恐かった。
このまま停滞している方が、楽である事を知ってしまい、甘えてしまっている。
変化を望むのに、変化する事を躊躇うのが人間だ。
つまらなくても平凡でもいいと妥協するのが人間だ。
憧れや理想があっても手に入れるための過程に恐怖があるならば、おとなしく諦める……、
須和は典型的なタイプだった。
「井丸くんは、誰かを選ぶのかな……」
周りには大勢の女の子がいる。
井丸が手を差し伸べ、作り上げたコミュニティだ。
だが、未だに誰かを選んだわけではない。
井丸自身、選ばない事を選んでいるのではないだろうか。
たとえ気持ちを伝えなくとも、今のままでずっと一緒にいられるのではないか。
言い訳と共にうだうだと逃げ続ける須和に苛立った宮原が、実力行使に出る。
「あたしが一番嫌いなのは、うじうじと悩んで言いたい事も言わずに黙ったり嘘をつく事だ。その点、小春は口に出さないが表情で語り、決める時はバシッと決める。だがお前はどうだ、弱音を吐いて言い訳ばかりを積もらせて、あたしたちに『そうだな』とでも言って欲しいのか? 甘えるな。一度踏み出したんだ、中途半端に終わらせないぞ」
「まあねー。諦めなよ映絵。あの恥ずかしい告白をわたしたちにしたんだから、最後まで責任を持ってサポートする。じゃないと、こっちも目覚めが悪いし。ね、はるっち」
「うん」
門下生が来るまでは少しの時間がある。
宮原は須和に道着を着せた。
「闘志を燃やしてやる。昨日、教えてもらった技、覚えているだろ? なんでもいいからかかってこい。今のあんたに、あたしは負ける気がしないよ」
躊躇う須和へ、宮原が近づく。
「あたしが道着を着ていないから、なにもできないか? それを言い訳にして、逃げ出すか? なにも変わってないよ。いいからこいよ、服を破ったって構わない。それくらいの覚悟はある」
「なんで……、なんでそこまでわたしに!」
「友達だからだろ。そりゃ苦汁をなめる結果にはなってほしくないんだ、当たり前だろ」
道場の戸が開く。
それを合図にして須和が飛び出した。
宮原と組み合う。
須和が見せない、必死の顔だった。
「お前ら! 勝手に道場を――」
「父さん、ちょっと黙ってて。すぐに終わるから」
「掃除をしたばかりなんだぞ、これから練習があると言うのに汚されたら」
「あなた」
冷たい中に熱を持つ母親の声に、天野風香も背筋をぞくりとさせた。
「一生に一度あるかどうかのイベント事なの、奪わないであげて。ね、いいでしょう?」
むう、と唸る父親は、しかし答えなど決まっていた。
悩んだフリをしただけだ。
「……使い終わったら、きれいにしておけ」
「満足するまでやりなさい。みんなのそんな姿が、母さん大好きだから」
須和が激しく倒される。
それでも何度も起き上がり、宮原にしがみつく。
「(彩乃の言葉の本気を、わたしは知っているはず……だからこそ決意したのに、また言い訳を繰り返して、逃げようとしていた! 井丸くんが彩乃の気持ちを断っても、また別の誰かが絶対に井丸くんを手に入れようとする。
……井丸くんだって、ずっと一人でいるわけじゃない。時間と共に必ず変化する。だったら、今、身を退いても、気持ちを伝えて断られても! 同じことのはず!
彩乃が動けば結果がどうあれ、この輪は崩れる……、
わたしがなにもしなくても――だったら!)」
失敗してもどうせ変わらない。
他人によって崩されるのならば、自分で崩す方がまだマシだという、後ろ向きにも見える意識ではあったが、前進しているのは事実だった。
井丸に出会うまでの過去の自分。
出会ってから、そしてこれからの自分。
井丸のいない世界、井丸がいる世界。
どっちを選ぶかなど、考えるまでもなかった。
「良い瞳になった」
小さな体の須和が大きな体の宮原を投げ飛ばす。
きれいな、一本背負いだ。
「……告白する。ありがとう、みんな」
凄いな、と宮原は呟いた。
自分では決してできない事を、須和が決意した。
背中を押して、その背中に手が届かなくなる事を不安に思いながらも、引き止める事はできない。
「行ってこい。
当たって砕けたらあたしが全部、拾い上げてやる。
お前の味方は、ここにいる」
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