第24話 欲しいものは自分の手で

「……事情は理解しました。仕方のない、事ですよね……。

 でも、医療行為を盾にして、実際はキスを嬉しく思っているんじゃないですか?」


「……堪能する空気なんかじゃないよ。キスの感触なんて覚えていない」

「つまりこんな状況でなければ野獣のように襲って味わいたいという事ですね」

「そうは言ってないだろ!?」


 どーですかねー、と冷たい視線と共に棘のある言葉を吐く須和だが、怒りは見えない。

 こうした会話の応酬が、楽しくて仕方がないと言いたげだった。


「――で。どうだ? 松本一派の中に混ざってみて。

 まだ一日目で、答えなんて出せないと思うけどさ……」


「話題を逸らしましたね……絶対に逃がしませんから。

 ……小春も、風香も、純も彩乃も優しいです。とっても、楽しいですよ。敵対していたのは、わたしが悪かったんです。みんなはわたしを仲間に混ぜようとしてくれていた。感謝をしても、恨む事なんてありません。昔から一人ぼっちで輪の中に入る事が苦手だったわたしには、今の状況は慣れていなくて戸惑いますけど、わたしが欲しくても手を伸ばせなかったものが、今は胸の中にあります。

 だから、最高に、幸せですっ!」


「そうか……。良かったな、須和」


 俺は無意識に須和の頭を撫でていた。

 くすぐったそうに、須和は首を引っ込める。


「井丸くんにも、感謝しています。わたしを救い、変えてくれた恩人ですから」


「だからって、俺に尽くすような事はするなよ。お前の人生はお前のものだ。俺のものじゃないんだ。須和が楽しそうにしているのを、遠目に見れたら、俺は幸せだよ」


「……井丸くん、それって――」


 だが、須和は口をつぐんだ。

 そこから先を聞けば、もう後戻りはできないとでも悟ったような苦しい表情を浮かべる。

 しかし、すぐに暗かった表情は光を取り戻した。


「ううん、なんでもないです。じゃあ、わたしが手伝える事ってありますか? わたしも彩乃の事を助けたいです。いまいち、彩乃とだけは未だに壁がある気がしますから……」


「やっぱり須和もそう感じるか。宮原も違和感には気づいているだろう。鈴村と天野は良くも悪くもマイペースで自分優先だからな、気づいていないみたいだけど」


 松本だけが未だに須和を名字で呼んでいるし、二人きりで喋って、会話が弾んでいるところを見た事がなかった。

 見ている俺でも分かったのだ。

 まだ松本だけは、打ち解けていない。


 それが須和の問題かと思えば、逆だ。

 松本が、須和に心を開いていないのだ。


「巻き込まないようにしている……、だとすると須和だけを弾くのはおかしい……? 他のメンバーには中途半端な突き放しは逆に厄介事に巻き込んでしまうと考えて……? んー、松本らしくないよなあ。あいつはアグレッシブに接するから、苦手もなにもないと思うんだが……」


「わたしの事が、嫌いなんでしょうか……?」


「そんなわけないだろ。じゃなきゃ、やり方はどうあれ、お前に手を差し伸べたりはしない。結果的にお前は救われたし、こうして輪に混ざれている。須和を呼んだのだって松本なんだぞ。あいつがいなくちゃ須和はここにはいないんだ――そう言えば、松本がお前に謝りたいと言っていたんだ。というか、目的がそれだったはずだ。もちろん、須和は許したんだよな?」


「いえ……、いやっ、もちろん許す気ですけど、まだ、謝られていませんよ?」

「そう、か……。変だな、松本はそういう礼儀はきちんとする奴だと思ったんだが」


 忘れているだけだろう、そう思いたかった。

 そうであればどれだけ良かったか。


 嫌な予感はいくつも浮かび上がるものだ。

 ……根本を見直す必要があるかもしれない。

 松本は須和の事を、一体どんな風に思っているのだろうか。



「あーあ、須和ちゃんにばれちゃったか。誤解から嫉妬させる気でいたけど、それもあまり効果は期待できない、かな。……嫉妬もこれ以上は続きそうにもないし、そろそろ次の一手に出る頃合いかなー、っと」


 襖一枚を隔てた先の廊下では、松本彩乃が耳を立てて井丸と須和の会話を聞いていた。


 鼻歌を口ずさみ、松本はスキップをしながら自室へ戻る。

 須和が戻ってくる時を、静かに己の布団で待ち続ける。



 静かに襖を開けて、既に寝ているみんなを起こさないように気を付ける。

 須和映絵は自分の布団に入り、ゆっくりと目を閉じた。

 井丸とぎくしゃくしていた関係が元に戻って安心し、布団の中でだらしない笑みを垂れ流す。


 そして安堵もしていた。

 井丸と松本は、特別な関係ではない――と。


「須和ちゃん」


 耳元で囁かれる声に振り向こうとするが、背中にぴったりと張りついた誰かが、須和の頭を固定する。

 寝返りを打つ事ができなかった。

 胎児のように寝ていたので振り向けなければ後ろにいるのが誰なのかは分からない。

 だが、唯一、名字で呼んでいた人物がいたはずだ。


「彩乃……」

「来ちゃった。安心して、なにかをするわけじゃない。ただ、言いたい事があっただけ」


 ふぅ、と耳に息を吹きかけられる。

 須和は体に力を入れ、緊張する。

 なにもしないって言ったのに、と文句を言いたくなるが、松本の次の言葉に息が詰まった。


「早くしないと、奪っちゃうよ」


 頭の中で何度も繰り返される言葉に、須和は動けないでいた。

 やっと動けた時、須和の背中に気配はなく、

 松本は自分の布団の中に戻って、寝息を立てていた。


「ずっと、今のままでいられるわけがないんだ……」


 不幸は長く続き、なにもしなければ永遠と伸ばされる苦痛だ。

 だけど幸福は、永遠とはいかない。

 いずれは崩れる。

 その形を維持するために、自らが動かなくてはならないのだ。


 地獄を知り、長く体験してから須和は今、この場に立っている。

 一度、味を占めた幸福を手放す事はできない。

 したくないと強く思った心は原動力を生む。

 須和に勇気を授けてくれる。


「彩乃には、負けたくない」


 誰にだって負けたくない。

 須和は握り拳を胸に抱く。

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