その40 試験本番
……が……くん……お……き……くん。
遠くから聞こえる声がやがて大きくなっていき、
「――大垣くん、起きて」
いつの間にか寝オチしていたらしい。
テーブルの上には、勉強道具が置いたままになっていた。
「……おはよう、大垣くん」
「ああ、おはよう」
結局、この一週間、立川は俺の家に泊まりっぱなしだった。
男の家に泊まるなんて、立川の親が許さないと思ったが、勉強合宿と言ったらすんなり許してくれたらしい。
当然、俺の名は出してはいない――けど、なーんかトラブルの種になりそうなんだよな……。
だが、今はそれよりも、今日の放課後がテスト本番だ。
この一週間、みっちり勉強した。
今まで解けなかった問題が、すいすいと解けるようになっていた。
その感覚は、今までなかった。
言葉にするのも難しい。
こればっかりは実際に体験しないと分からない感覚だろう。
朝食を食べ、学校へ向かう準備をする。
もはや日常となっていた、立川と一緒に登校する時間も、今日は珍しくニヨがいた。
「あ……」
「良ちゃん、頑張ったね」
一週間、徹底して俺の視界に入らないようにしていたニヨ。
食事の時も、学園でも、俺を避けるようにしていた。
嫌われたわけではないと分かってはいても、かなりショックだったし、傷ついた。
だが、だからこそ勉強に打ち込めた、という側面もある。
だから、大好きな人からの「頑張ってね」の一言は、心に強く刺さった。
……ダメだ、まだ、本番はこれからなんだ。
お姉ちゃんに、甘えるな……っ!
「ふーっ」
……深呼吸をし、最後に欲望を抑える。
勝負は、これからだ。
いつもよりは少し遅く、学園に辿り着いて、それぞれの校舎へ分かれる。
放課後、テストが終わるまで、俺たちが会うことはないだろう。
もう、立川のアドバイスも必要ない。
ここまできたら、後は自分を信じるだけだ。
「大垣くん」
「ん、立川?」
俺の制服を指先でつまんだ立川に引っ張られる。
自然と、立川と距離を詰めることになった。
登校中の生徒が多い中、注目されることは避けたい。
片や生徒会長、片や元生徒会長なのだから。
「良い点数が取れるおまじない、してあげようか?」
「いらねえ。おまじないとか、お守りとか、そういうのを頼りにはしないからな。こういうのは全部、自分の力だ。俺は俺自身の力でやり遂げたいんだ」
「でも、思い切り私の力を頼ったよね?」
それは…………そうだけど。
痛いところを突いてくる奴だ。
「少しくらい……私のわがままも聞いてよ」
「お前の退学を阻止するためでもあるんだけどな……まあいいぞ、なんだ、頼みって」
「おまじないをするから。……動かないでね?」
なんだ、動けば危険だったりするのだろうか?
そんなことをまさか本番当日にするとは思えないし……、
まあ、言われた通りに動かないでおこう。
危険だとしたら尚更だ。
「――――え」
「終わり。――えと、ただのおまじないだから、じゃ、頑張ってね、大垣くん!」
そう言って、立川は全速力で走り去ってしまう。
呆然と、俺は立ったまま、何分か放心してしまった。
登校している生徒も減ってきたところで、俺は意識を取り戻した。
……一瞬だったけど、あれは確かに。
俺の頬に触れた柔らかい感触は――、
「っ、ッ!? あ、の、野郎……ッ!」
このタイミングで……っ!
…………だけど。
「まあ、ちょっとは、やる気が増えたかもな」
放課後、特別教室にてテストが始まる。
試験時間は五教科全てを合わせて二五〇分。
休憩時間はなくノンストップでおこなわれる。
全ての問題用紙と答案用紙が渡され、俺はそれを自由な順番で解くことができる。
普段の試験とは違う仕組みに戸惑ったが、覚えている範囲から手をつけられるのは助かる。
教室には巳浦だけがおり、監視役を勤めている。
「ふぅ……」
「準備はできたか?」
消しゴムとペンを用意し、目を瞑って心を落ち着かせる。
できることは全てやった。
何度も繰り返し解いた問題は体が覚えている。
基礎が分かれば後は冷静になって応用していけば、難易度の高い問題も解けるはずだ。
激しく鼓動していた心臓の音が、やがて静かになっていく。
さっきまで外で部活動をしている生徒の声が聞こえていたはずだが、今は時計の針の音しか聞こえなかった。
……良い感じに集中できている。
今なら、どんな問題でも解けそうだ。
「準備できました」
「よし。ただいまより、テストを開始する――問題用紙を開きなさい」
そして、戦いが始まった。
一問一問、問題を解く度に立川との一週間にも及んだ修行が思い出された。
はっきり言って、地獄だった。
もう二度と体験したくはない。
勉強なんて、やっぱり楽しくなんかない。
……そりゃ、遊んでいた方が楽しいし、楽に決まっている。
苦労なんかしないで人生が成功できたら、どれほどいいか。
だが、苦労の末に達成したあの喜びは、地獄を見た人間にしか分からない。
登らなければ見られない景色。
分からなかった問題が自分の力で解けるようになっていく――あの快感。
知らない世界に足を踏み込む感覚。
それによってさらに広がる、自分の世界があった。
選択肢が広がり、なにをしてもいい、なんでもできると自信になった。
成功しようが、失敗しようが、頑張った事実は、無駄になったりはしない。
結果が全てじゃない。
勝たなきゃ意味がない、とは俺は思わない。
たとえ勝てなくとも、その先に広がっている世界を見ることができたなら、その努力に意味はあったんだって――俺はそう言える。
時間ぎりぎり、二五〇分を使い切り、ペンを置いた。
答案用紙に空欄はない。
全てを埋めた。
不安なところもまあ、多々あれど、絶対に間違っている、と言えるような問題はなかった。
ケアレスミスがなければ、全教科満点を取ることは難しくない。
……一週間前の俺に言ってやりたいところだ。
俺だって、できるんだって。
いや、誰にだって、できるんだってな。
「一〇分後、結果を伝えにくる。ここで待っていてくれ」
巳浦がそう言い、教室から出て行った。
そして、入れ違いで、立川が教室へ入って来る。
「……お疲れさま」
「おう」
立川は俺の隣に座ろうとして一瞬だけ躊躇い、一つ空席を挟み、その隣の席へ座った。
なぜかなにも喋らない。
テストの内容でも聞いてくるのかと思ったが。
テストにうんと集中していたせいか、しばらくぶりに会った気がする。
たかが二五〇分だ。
ああいや、朝ぶりだから、なんだかんだ数時間ぶりになるのか。
朝……そう言えば、こいつ。
「立川、朝のさ」
「――テスト、自己採点どうだった!?」
問題用紙と答案用紙が持っていかれたため、自己採点はできない。
一〇分で点数が分かるのだから、わざわざ自己採点をしようとは思わなかった。
「してないけど……満点、いけるさ。だから安心しろ。立川は退学になんかならない」
「……うん」
それから会話がぴたりと止まってしまい、しかし居心地が悪いとは思わなかった。
頭に知識を詰め込んだ反動なのか、今はなにも考えられない。
一〇分だけだったが、ぼーっとしているこの時間が、なんだか心地良かった。
すると、教室の扉が開き、巳浦が姿を見せた。
採点し終えた答案用紙を持っている。
「採点が終わった。……立川もいるなら、呼ぶ手間が省けたな。結果報告だ」
空っぽになっていた頭に電流が走ったように、意識がはっきりとする。
強がってはみたが、実は俺も不安だ。
本当に満点なんて取れるのか?
努力の数が足りないんじゃないのか?
そんなことを何度も思った。
満点でなければ、俺の退学が決まる。
……ここで緊張しないわけがない。
「…………」
「取りにこい、大垣。お前が自分で見て、受け止めろ」
席を立ち、巳浦の元へ近づく。
ゆっくりと、その足を進めて。
見たいような、見たくないような。
だが、見ないと始まらない。
答案用紙に、指先が届いた。
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