第15話

 ガサガサ、と読み上げたレビューの書かれた紙をわたしは畳む。

「辺見先生。……有紀子さん」

 一時間以上、読み続けたレビュー。すこし掠れた声で、わたしは彼女の名前を呼ぶ。

「どうでしたか?」

 どうでしたか。と聞かれても困るかもしれない。なにせ、感想でなく、わたしの小説でもなく、レビューなのだ。そんなこと言われても、あ、はい。で終わってしまうかもしれない。

『千尋ちゃん』

「は、はい!」

『レビュー、って、つまらないね』

「そうですか……」

『でも、あなたの言葉は嬉しかった』

「わたしの言葉?」

『そして、できればアゲハや有無にも聞かせてやりたかった』

 その二人については、何も言えない。

『ムジカレ、書いてよかった。今も愛されてるな、って思った。聖者の行進がまさにそうだったけど』

 辺見ユウの声は、少し震えているようにも聞こえる。

『断筆宣言は、覆さないからね』

「え?」

『もし、千尋ちゃんにその気持ちがあるのなら、悪いけど、もう私には何も残っていない。ムジカ・レトリックの守は私が書いたものじゃない。アニメ化のボーナスを切り崩して、アゲハと藤澤さんの力によって一冊にまとめあげたものだよ。もう、悠と和奏のものがたりは終わった。二人のこれからを書く気持ちは無いよ。ラノベだもの。大人になった主人公は見つけてもらう必要はないからね。他の作品を書こうにも、一生私はムジカレの人で終わってしまうんだ。それなら、ね』

「ちょっと、待って」

『ありがと。じゃあ、またね』

 一方的に通話が切られてしまった。説得失敗だった。放心状態、しかも辺見ユウの断筆宣言をさらに頑なにしてしまったような気もする。

「あーあっ!」

 このレビューを持ってどうにもできないんじゃどうしようも無いだろう。またね、と辺見ユウは言ったから死ぬ気もないのだろう。渾身のレビューはどうせそのうち出版されるが、そんなことはもうどうでもよくなって来た。一番これを届けたい人には聞かせられたんだし。

「もう寝よっ!」

 時計は二時を回っている。断筆宣言がなんだっていうの。新刊に掲載される内容なんて、わたしの持っているムジカレの特典小説をかき集めれば読むこともできるし、刊行されなかったとしてもぽつねん先生のイラストはコミケ99で出てくるでしょ。だいたい世界なんてそういう感じに無駄のないようにできているのだ。パイクさん以外にもたくさん知り合いができたし、今回のことはもうこれでいいじゃない。と割り切ろう。割り切るしかない。わたしの青春とともにあった、ムジカレという作品が延命できただけでいいじゃない。気持ちを切り替えてキノコモリの二次や電撃に出す作品のプロットやわたしのコミケの構想に入ろうじゃないの。

 アマチュアのワナビとて、暇じゃない。もしかしたら年末にかけてメディアに声をかけられるかも、という恐怖を抱えて、とりあえずはやりきったという謎の達成感とともに今はこんこんと眠る限りである。明日からの一週間は、ただひたすら積ん読を切り崩すのだ。









 10月30日。

 雁ヶ音さんに提出したレビューも二度のリテイクを経てゲラをチェックしOKしたのが昨夜。この三週間はとても忙しかった。積ん読が減る様子など無い。一ヶ月ちかくまともに仕事をしていなかったので、大量の図面がわたしを待っていたのだ。そのすべてをやるには休日出勤も仕方なく、更に聖者の行進について会社の偉い人に謝る必要さえあった。Zoom越しに頭を下げる日々。始末書だっても書いた。でも、強くは責められなかったのは、頭を下げることになった誰しもが、大切な物語を持っていて、聖者の行進に少なからず賛同していたからなのだろう。

 その諸々をクリアして、もうくったくたな金曜日の26時過ぎのこと。この日は定時に会社を出ることが出来たので帰ってくるなり服を脱ぎ散らかして寝てしまったのだが、六時間も寝れば眼が醒め疲れも吹き飛んでしまっていた。ショートスリーパーを強要される作家稼業ならではの習性である。スマホの充電がまもなく切れそうだ。明日に備えて荷造りもしなくてはいけない。なにせ、朝イチで新潟に帰る予定である。昨日のうちにガソリンも補充したので、北陸道にのれば一直線で新潟にたどり着けるのである。鞄にパソコン、着替えを入れればあとはもう一眠りしてクーパーと楽しいドライブだ。車中BGMは、11月25日の「涼宮ハルヒの直観」発売に向けてハルヒのオーディオドラマ「サウンドアラウンド」、ラジオの「SOS団ラジオ支部番外編CD」のVol.1、2、3である。そのあとは延々とBGMを聞く流れでプレイリストを組んだ。楽しみだな。

「もう二時……か」

 眠い目をこすりながら、起きるかもう一眠りするか逡巡する。今眠ればとっても気持ちが良いのだろうな……。高速、走るの疲れるんだよな……。

 と、携帯が鳴った。こんな時間に誰?

「はい……井守」

『ちぃ!? 大変なの』

「ヒビナ……、おやすみ」

『寝るなあッ!』

 電話越しの声はきっと眠らず起きていた早霧谷のものだった。とても慌てた声をしている。

「なにさ……、夜中だよ」

『お姉ちゃんが来た』

「え?」

『今うちにお姉ちゃんが来ているの』

「ちょっと待ってどういうこと?」

 辺見ユウが?

『落ち着いて聞いて。お姉ちゃん今ソファで寝てるわ』

 ほんの一時間前。終電に乗って、辺見ユウがヒビナを訪ねてきたという。数カ月ぶりの再開で、非常に疲れた表情だという。いつもユーモアたっぷりな大きい瞳も、光を失ったかのようにヒビナと視線を合わせなかったという。

「今日泊めて」

 とだけ言って、ヒビナの部屋にあがったかと思えば、すぐに寝息を立て始めた。姉妹だから、ただそれだけではヒビナが電話をかけてくることもなかっただろう。ミスリル経典テロ事件でショックを受けて、きっとずっとどこかに閉じこもっていたのだろうから。

『持ち物が問題なのよ』

「なにを持っていたの」

『ネタ帳』

「は?」

『ムジカレのネタ帳! 鞄から落ちたの見えちゃったの! 二センチくらいかな、分厚い紙束にびっしりとレトリックが書かれているんだから!』

「は?」

『ラップトップも一緒に持ってる。仕事に行くって感じじゃないし、引っ越しかどうなのかわからないけど』

「ヒビナ、有紀子さんはさっき寝たのね?」

『そ、そうだけど』

「他の人に連絡は?」

『周さ……、ぽつねん先生に』

「ぽつねん先生はなんて言ったの?」

『すぐに行くって』

 ああ、先を越されたか!

『ちょっとこれ……、別のノート』

「別のノート?」

『うん。表紙に日付。2020年5月、見るよ。レトリックじゃない。悠と和奏の子供……、ユメマボロシの世界、ムジカのない世界……』

「新作だ!」

『新作……』

あるいは続編の構想かもしれない。でもどうして、それを持ってヒビナの部屋に来たんだ。断筆宣言をしたばかり……。ムジカレのネタ帳まで持って、辺見ユウが持っている荷物ってムジカレの源泉、文化遺産級のものばかりじゃないか。普通なら金庫にしまっておくものだろう。憔悴した状態なのも気がかりだ。

「他に誰かに伝えていない?」

『う、うん。夜中だし』

「ヒビナ」

『ん?』

「わたしに伝えてくれてありがと」

『うん。……夜中にごめん、でもどうすればいいか』

「行くから」

『はい?』

「今から、そっちに」

『何を言ってるの?』

「辺見ユウは、すべてを捨てるつもりで来たのかも。だから、止めないと」

 ハンズフリーにしたまま、冷水で顔を洗って強制的に身体を目覚めさせる。冷蔵庫にひやしておいたウィルキンソンを半分くらい一気に煽ると、部屋着からジーンズとタートルネックのモスグリーンのセーターに着替える。袖は七分、髪を襟からかき出して、乱暴にヘアゴムでポニテにまとめあげた。

 ぱんっ、ぱんっ。鏡の前で頬を二度張る。眼は冷めた。ヒビナの言葉で完全に覚醒した。リュックサックに財布と時計を放り込んで、クーパーの助手席に置いた。外の気温は5度、エンジンをかけると寒暖差でどんどん窓ガラスが曇っていく。芯から冷える北陸の冬の澄んだ空気。空には薄く雲がかかっていたが、オリオンの鼓型がくっきりとなぞることもできる。サンダルから、ドライビングシューズに履き替えて、ゴロワーズを一本くわえると、しゅっ、と火を点けた。暖機中のボンネットからうっすら立ち上がる湯気と混じって、紫煙が無風の空に上がっていく。

「わたしが行くまで、有紀子さんを逃さないで」

『逃さないでって言われても……』

「辺見ユウが死んでもいいの?」

 それは、ヒビナに言ったつもりの言葉だったのかもしれない。しかし、わたしに問いかけた言葉でもある。答えは簡単だ。小説家辺見ユウが死ぬなんて、嫌だ。許せない。灰がぽろりと地面に落ちる。窓ガラスの曇りは落ち、室内灯がやわらかに私の騎乗を待っているようだ。

 火を消して、乗り込む。長い指がハンドルに絡みつく。緊張で、手汗がにじんでいる。

「ヒビナ、このまま電話繋いでいてもいい?」

『いいけど、何時間かかるの』

「五時間、いや四時間で行く」

 今まで実用的には使ったことの無い、クーパーのスポーツモード。シフトノブ下のダイヤルをそれにあわせると、ナビパネルは淡く赤く光り始めた。

『無茶しないで』

「それは、無理よ。無茶をせずに生きて、大切なものを失ったら死ぬと変わらないんだから」

 シートベルトを締める。ドアロックをかける。シフトをドライブへ。サイドブレーキを下ろす。ヘッドライトはハイビーム。外は真っ暗。ナビの行き先は、神奈川県横浜市保土ヶ谷、ヒビナの家。

「行くよ」

 滑るように、アクセルの踏み込みとともにクーパーは加速する。エコモード走行と全然違う暴力的な加速だ。

「そのライトノベルがすごい! 2010の記事に書いてあった。辺見ユウの大切なネタ帳は、クリエイターとして大切なものだ。上波さんや有無さん、ぽつねん先生との苦労はネタ帳にまず結集するんだって」

 国道8号線からノンブレーキで武生インターのランプに突っ込む。ハンドルを切るだけしっかりとクーパーは鋭く曲がってくれる。そして時速60kmオーバーでETCを通過し(しっかりと開いてくれるものだ)、米原方面の車線に上がる。武生、今庄、敦賀の杉津峠を越える区間は通年時速80km制限速度区間だ。でもこれでは保土ヶ谷まで四時間で行けるわけがない。

 アクセルをじわりと踏み込んだ。スピードメーターの針がぐんぐんと動いていく。120、130、140。登り5%の勾配をものともせず、平地のようにかっ飛ばしていくミニ・クーパー。闇の中でも高速道路上はうっすらと明るく、たまに100kmオーバーでうるさい音をたてて走るスポーツカーをぶちぬいて行く。

「断筆宣言をして、大切なネタ帳を持って来たってヤバいでしょ」

『ちぃ、それよりクルマがやかましいと思うんだけど』

「失礼な。わたしのクーパーちゃんはそこいらの暴走族とはちがうよ」

『どのくらいのスピードで走ってるの』

「90」

 なあんだ、とヒビナは落ち着いたようだ。険しい峠の杉津地区で北陸道の上下線は分離する。ひたすら追い越し車線を時速90マイルでぶっ飛ばす。でもまだまだ余力はあるみたいだ。時速90マイルはおよそ時速145kmである。嘘は言っていない。

『ちぃ、来てどうすんの』

「殴ってでも変な考えをやめさせてやる。今夜は生放送でムジカレの新情報……、まさかね。引退宣言なんて考えていないよね」

 10月30日21時時点では、辺見ユウは断筆宣言をしたまま、「ムジカ・レトリックの守」が出版されるのか非常にあやうい状況。10月31日に放送予定のムジカレ宣伝番組でどのような情報が解禁されるのか、おっかなびっくりだ。

 山に囲まれた敦賀を突っ切って、琵琶湖の東を変わらず130~140kmで駆け抜ける。北陸道の終着点、米原ジャンクションをハンドルを最大まで切ってアクセル全開。

「げっ」

 ほんの一秒に満たない時間わたしは前方から目を離してしまった。あまりの高速コーナーに後輪がずるっ、と滑ってしまった。斜めの体制のまま、ジャンクションから東名高速の本線へと滑っていく。

「くそっ!」

 はじめて、右足を床までベタ踏みだ。ここで事故なんかを起こしてしまったら、ムジカレがまた永遠に失われてしまうかもしれないじゃないか。

 また。

 またなんだ。

「なんで、またなんだよッ! ヒビナ!」

『な、なに? 今、タイヤのすっごいイニシャルDみたいな音がしたけど』

「音楽!」

『もうちょっとクールに運転しなよ。音楽なら、あんたの携帯にあるでしょ』

「そうね、……一旦切る」

『ちょ』

 ヒビナと喋ってはやる気持ちを落ち着かせよう、と思っていたがやめた。無理だ。前方を見たまま、ミュージックを起動する。プレイリストはもちろん、ムジカレだ。

 くれない役の三笠晴子のレトリック詠唱からはじまる、アップテンポな第一期第一クールのオープニング「RhetoricMusica」。まどマギの「コネクト」、シュタゲの「Hacking to the gate」、タイバニの「オリオンをなぞる」そしてこの「RhetoricMusica」は2011年のアニソン四天王。

「ひびかせーよお! 空の果てにおわらない夢のムジカあをおおお!」

 サビでノリノリ、わたしも歌いながら快調だ。ツーバスが激しい間奏を聞きながら、クルマは岐阜から愛知に突入した。スピードメーターは150kmに到達しようとしている。国産車ではメーターの上限が180kmであることは多いが、このミニ・クーパーは260kmまで数字が刻まれているのでまだまだ出せると言っているようだ。タコメーターは5000回転以上を表示しているが、気にしたもんではない。リフレクターが光ったかと思うと中央分離帯がびゅんびゅんと後ろに飛んでいく。星空の中をドライブしているようだ。

「あと15kmね」

 ナビが、15km先の豊田ジャンクションで新東名高速に移れと言っている。もちろんそのつもり。BGMは第2クールのオープニング「Burning Baroque」に変わった。火傷しても本を手放すな! のキャッチコピーである「焔」をフューチャーした楽曲で、JAM Projectがプロデュースし、シラノタケル(やまぶき役声優の白野武尊のアーティスト名義)がシャウトする超かっこいいロックナンバー。ジャンクションまでの距離を、たかだか6分7分で駆け抜け、ヘッドライトの先に分岐車線があらわれた時。わたしの右側からさっ、と別の車が抜けていく。狭い側壁との間に無理やり巨体をねじ込んでいったので、とっさにブレーキを踏み込み50kmも速度が落ちてしまう。

「あぶないじゃないの! オーバースピード! ……あれ」

 巨大なボディとは裏腹に、レーシングカーのように90度方向が変わるジャンクションをジェットコースターのように抜けていった白銀のクーペ。見覚えがある。

「ぽつねん……先生?」

 BMWの8シリーズ。品川ナンバーの数字はまぎれもなくぽつねん先生のものだ。東名高速から新東名高速へ。速度制限は一般の高速道路より20kmも高い時速120kmの道路で、名古屋の東側から箱根まで東海道の内陸をぶち抜くサーキットのような高速道路。本線に合流する時には、もう100メートル近く8シリーズとの距離を開けられていた。

「待って!」

 再びアクセルをベタ踏みする。130km、140km、150km、160km!いまだかつて出したことのないスピードまで加速していくオレンジのミニ・クーパー。しかし距離は詰まることなく、さらにテールランプは遠ざかっていく一方だ。

「オーバー200kmかよ……、ヘイ、Siri。今吹周に電話。いいから、今すぐ!」

 全区間3車線、しかも車もほとんど走っていないで、曲線が曲線とは思えない真っ直ぐさ。東名や北陸道のほうが怖い怖い。

『……千尋ちゃん? 今運転中なんだけど』

「わたしも運転中ですよ! あなたの後ろにいます」

『後ろ……、ってさっきの暴走ミニクーパーは千尋ちゃんか!』

 あんたに暴走とか言われたくない!

「保土ヶ谷に向っているんですか? そうなんですか?」

『有紀子が危ない』

 電話に気を取られたのか、ぽつねん先生は速度を若干緩めた。180kmくらいだろうか。ずっと踏み込み続けているわたしとの距離が少しだけ縮まったように思う。

『やめさせないと』

「ですね。だからわたしも」

 徐々に、本当に徐々にだがテールライトが近づいてきている。車のパワーやグレードで考えれば、この先のサービスエリアで向こうに便乗させてもらえないだろうか、と思った。危険な運転めちゃくちゃ疲れて眼が乾いて仕方ないし。

『そう。同じ思いなんだね……、ユッコに執筆をやめさせるって』

「え」

『え?』

「わたしは、辺見ユウが作家をやめる、なんていうのをやめさせないとって」

『それは……』

 交渉の余地も無かった。ぽつねん先生はユッコと呼んだ。わたしは辺見ユウと言った。

 車内でも聞こえるほどの、ばおんっ、というエキゾーストノート。ぽつねん先生のBMWがきつい加速をかけていく。

「待って!」

 クーパーはまだついていく元気があるようだ。180km、190km、ついに200km。新幹線と変わらぬ速度でこの車は走っているんだなあ、と感動もひとしおだが、行かせるわけにはいかない。ぽつねん先生は、憔悴した辺見ユウの様子をヒビナから聞いて、彼女にこれ以上小説家という辛い稼業を続けさせまいときっと京都から走ってきたのだろう。京都には学生時代に二人が通った大学や思い出の地がたくさんある。それらを巡って、辺見ユウがいるんじゃないかと考えたのではないだろうか。

『だめだ、千尋ちゃん。ユッコにこれ以上』

「知りませんよ、辺見ユウのことは!」

『すでに断筆宣言だって』

「だから知らないんですって!」

『これ以上プレッシャーをかけたらユッコは壊れる!』

「ああもう分からず屋! Siri、切って!」

 もう時速何キロ出しているのかわからなくなっていたが、ようやく8シリーズのバンパーに手が届くほどの距離まで追い詰めることができた。向こうもさすがに300kmとかまでは出ないのだろう。風よけになって、わたしをスリップストリームに入れてくれる。だが、クーパーの限界はこのあたりのようで、230kmには全然届かないくらいのスピードだ。8シリーズは余裕を残しているのか、2台の距離は縮みそうにない。

「もう、3度めは嫌なんだよ、嫌、嫌!」

 大好きな作品を、大切な思い出を、わたしの分身を。

 1度目は魔法に書けられて記憶とともに。

 2度目は暴力と恐怖によってヴェールの向こうに。

 そして。こんなことが起こってほしくはないが。

 3度目は、神様よりも信奉している大好きな小説家が地に堕ちることによって。

 ムジカレはそして永遠に停止してしまう。わたしにはそれは耐えられない。

「嫌、嫌、もう嫌!」

 甲で涙を拭う。ムジカレの思い出は全部、温かいもの嬉しいものだ。そして、今年エモいものや恥ずかしいものまで上乗せされた。大好きな作品をやっぱり大好きだと気づくことが最近ようやくできたのに、作者がもう過去のものにしてしまうだなんて嫌だ。わたしはムジカレをずっと、一生、全盛期の作品として共に歩んで生きたい!

 逃げられてたまるか。

 わたしは握りつぶすほどにハンドルにかぶりついていたのだった。


 時速200kmオーバー走行は、静岡県までで終わった。新東名と東名の合流地点、御殿場からはせいぜい時速150kmでしか走れない区間。朝が近づき自然に交通量も増えてきた。追い越し車線にも車が見られるようになり、ぽつねん先生も何度も減速をしなくてはならなくなっていく。当然それはわたしもだ。酒匂川を渡った時、時計を見る。まもなく6時、家を出てから3時間半かかっていない。夜もまもなく朝へとバトンタッチをするようで、だいだいいろに雲が染まっていった。

「くそっ、追いつけない」

 大きな車のほうが馬力もあるし、運転している人間にとっても安全なのだろう。この小さなミニ・クーパーはピーキーすぎて運転すると疲れが指数関数的に溜まっていく。ミスをすれば直ちに事故を起こしそうなスピードで、いよいよ東名高速から保土ヶ谷バイパスへと降りランプを下っていく。ハンドルを限界まで切って、もう祈るばかりにETCレーンに向かう。ぽつねん先生はめちゃくちゃ運転が上手いのか、でかい車体をいともせずにETCに100kmオーバーで突入した。わたしもそれに追随する。3車線のバイパス道路は制限速度が80kmと高規格道路なので高速となんら変わらない。追い越し車線をどけよどけよと走っていくBMWが、100km程度で流しているスカイラインに阻まれた。チャンス、走行車線はがら空き! アクセルを思い切り踏み込む。クーパーが8シリーズに並ぶ。左ハンドルの運転席から、わたしを蒼白な表情で見るぽつねん先生がよく見えた。

 と。その視線がマズかった。BMW相手では分が悪いと思ったのか、スカイラインがこちらの車線に切り替えようとしてきたのだ。向こうのほうが鼻先が前にある。左側には大型トラック。ブレーキは間に合わない。右側にはぽつねん先生が運転するBMW。右にハンドルを切ってブレーキをかければBMWが壁になってスカイラインとの衝突を防げるけれどまともな衝撃じゃないし対向車線にBMWが飛び出したらもしそれでぽつねん先生が怪我をしたら絵師さんの大切な手を指を怪我することになったらブレーキが間に合わないぽつねん先生新作のイラストはわたしが事故ってもムジカレのほうがそれならトラック側にハンドルを切れば一番衝撃の被害が少なそうだしまてよまだスカイラインとトラックの間に2メートルくらい隙間があるクーパーの車体幅は1メートル73センチだからああと考えている間に10センチ20センチ30センチ追い越し車線とスカイラインの間の距離は駄目ぽつねん先生に怪我をさせちゃいけないしもう少しだけ左にハンドルを切っているしもうやってやるわよ!

「いやあああああああああっ!」

 中央分離帯のリフレクターが走馬灯に相似して、時間がゆっくりと流れているように見えた。ブレーキではなくアクセルを踏み込む、右にハンドルを思い切り切って、遠心力と体重をすべて左側にぶつけていく。ふっ、と右側のタイヤの接地感が消えた。瞬時にハンドルをもとに戻すと、無意識に両手を離して拳を握り両胸の前に持っていく。その指を守るように、守りの姿勢を取るように。急な操作で完全にコントロールを失ったクーパー、左側の二輪だけで、トラックとスカイラインの間をすり抜けていく。ルパン三世で見たような光景。このまま右側のタイヤが設置すればすべて元通りでBMWを追い抜いたことに、あれ、あれ、あれあれあれえ?

 一度すごい勢いで右側を跳ね上げたクーパーは、その勢いを無くすだけの要因を何も持ち合わせていない。運転席側を上に、助手席のドアが、アスファルトにッ!

 金属が削れる嫌な音がする。ガラスにヒビが入る音がする。そして次の瞬間、天地が一気にひっくり返る。天上の板が、つまりさらにわたしの耳に近い場所で金属を削る音がして、リアガラスとフロントガラス両方からヒビの入る音、時速120kmからの急激な加速でスピードは相当出ていたのだ。まだ勢いは止まらない。今度は運転席脇のウィンドウ。右側を見れば20センチ下にアスファルト、車線間の白線がちらりと見えて、ぼごんっ、どっ、と更に浮き上がる感触が来たかと思った瞬間、視線の先にはヒビナのところに続く保土ヶ谷バイパスが見えていた。

 きりもみ状態でクーパーは一回転して、再び四輪を道路上に戻したのだ。奇蹟だ。アクセル全開! すぐ脇に急停車したぽつねん先生の車とドアから出てくる姿も見えるがこれで勝った。視界が見えにくい、フロントが割れて……ってエアバッグで下半分が埋まっているじゃないの。邪魔! 後部シートの上にかかる屋根は潰れてひゅうひゅうと風が入る音もするし、タイヤのアライメントが狂ったのかまっすぐ走らない。ただ、トランスミッションは無事なのか、エンジンも大丈夫なのか、変わらず走る。衝突の瞬間に電子機器が全部死んだのか、スピードメーターの表示さえわからないし、直前までBluetooth接続で流れていたムジカレのサントラもiPhoneから直に流れている。まだ視界が見えにくい。と思ったら、額から血が出ているのか。手のひらで前髪ごと拭いあげる。水分を含んだ髪が隙間風に煽られてポンパドール状態だ。バックミラーは明後日の方向を向いているし、サイドミラーも転覆直前にどこかに吹っ飛んでいったので後方を一瞬振り返って見ると、着地地点の前で車の渋滞が起きようとしていた。ごめん、あとやっていおいて。


 保土ヶ谷バイパスを降りるランプで、国道1号線に入るジャンクションで、みるみるうちにクーパーが弱っていくのがわかった。まあ、なんで走っているかわからないしな。というかなんでわたし生きているかもわからないしな。ヒビナの家に向かう最後の信号機で止まった時、エンジンが一旦死んだかと思ったら、なんとか息を吹き返した。弱々しい声で、最後まで走り抜いてくれるみたいだ。

 間違えようがない、ヒビナの住んでいるマンション。その前につぶれたクーパーを停める。まだBMWは来ていないようだ。エンジンを切る方法もわからないので、サイドブレーキ……、も効くかわからない。引くだけ引いて、わたしはドアを蹴飛ばして外に転げ落ちた。

「ふう……、いたっ、血が出てるじゃない」

 可愛らしい丸いヘッドライトも亀裂が入っていたし、ひまわりのように鮮やかなボンネットも擦れた傷で半分はひしゃげて色が見えなくなっていた。バンパーはぐちゃぐちゃ、左の前輪が狂っていたのだろう、タイヤのパンクも含めて前かがみになっているように思える。

「ありがとね」

  満身創痍になって、それでもわたしをここまで運んでくれた相棒は答えない。

 どうやら二足歩行ができるらしい。両腕も無傷。よかった、額が割れただけ。

「ヒビナぁっ!」

 部屋番号を押して、怒鳴りつける。

『ちぃ!?』

 インターホンで血塗れの表情をみてさぞ驚いたことだろう。日付は変わっているからもうハロウィンだ。トリック・オア・トリート。その前に止血をお願い。

『何があったの!? 待ってて!』

 三十秒もせずにヒビナが飛び出してきた。わたしを見て、アパート入り口でもう車としての役目を終えつつあるクーパーを見て、何があったのかを察してくれたようだ。

「約束通り、四時間で来たよ」

「もう……、ばか!」


 ヒビナの部屋に入ると、まずセーターを脱がされた。頭から浴びるように冷水をぶっかけると血が洗面台に流れていく。少し固まりかけていたのに、また流れ出してしまった。髪についた血を全部流して、あとはタオルを額に当てて何度も拭い取る。

「あとで病院行きなね」

「それより辺見ユウだよ」

 わたしが顔を洗っている間に、ヒビナには車の中から着替を一枚持ってきてもらう。ワイン色のタートルネック、血がついても目立ちにくい! ナイスなチョイスだ。

「これ……」

 リビングに通される。ソファベッドの上で死んだように眠っている姿。それはわたしの知っている辺見ユウそのままだった。ゆるくウェーブのかかった薄い色の黒髪。あんなに奇抜なものを書いているにもかかわらず純真無垢な子供のような表情。丸いアンティークなメガネはテーブルの上に置かれている。

「これが、ネタ帳?」

「そう」

 電話で聞いた通りの、2センチの厚みがあるムジカレのネタ帳。ヒビナは気にせずに持ってわたしに渡してくれるが、受け取る手が震えていた。こんな大切なものを、ただのファンなわたしが手にしていいのか、という恐れだ。

「……すごい」

 魔導書がこの世の中にあるのであれば、それはこれだ。様々な言語の単語が等間隔に並べられていて、すごくちいさな文字で言葉のつながりを、矢印と共に書き込んでいる。その矢印は1ページの中では完結せず、行き先が何ページのどの単語かという情報まですべて細かく書き込まれている。二次元平面のノート上には書ききれない三次元方向の言葉の繋がりを見て、宇宙だな、なんて思った。

「う~ん、周?」

 わたしの物音がうるさかったのか、辺見ユウは数秒うーうー言ってからヒビナに話しかけた。

「起きた? ちぃが来たよ」

「ちぃ……、千尋ちゃん?」

 有紀子さんがメガネをかける。眠ったからなのか、ヒビナから聞いたような憔悴の色は見られなかった。

「どうして……ここに?」

「ヒビナに言われて来ちゃいました」

「そう……。ねえ、千尋ちゃん」

「はい」

 有紀子さんは身体を起こして、わたしをまっすぐ見つめる。水晶のように澄んだ瞳は光を持っているのかどうかわからなかった。

「少し話せるかな」

「話す……ですか。なにを」

「ムジカレのことを」

 駄目かな? と微笑んだ有紀子さんは、とうていムジカレを書いた辺見ユウ本人のようには見えなかった。

「ええ」


 リビングで、と言ったわたしの提案を、有紀子さんはどこか静かなところで、外に行きましょう、と遮る。わたしは断る理由もないので、額に包帯を巻くとスマートホンと財布を持って出かける準備をした。有紀子さんはテーブルの上にあるネタ帳2冊を持つと、鞄に無造作に放り込んだ。

 ジーンズの上にチュニックを着た姿はラノベ作家というよりも大学の文芸サークルにいる物静かな女子、といった雰囲気。羽織るトレンチコートはバーバリーの高そうな奴だから、それで学生ではないな、と差異がつくくらいだ。

「ヒビナはここにいてね」

「大丈夫?」

「大丈夫よ」

 有紀子さんをヒビナは追おうとはしない。仲のよい姉妹だが、干渉はあまりにも少ないのをわたしはなんとなく知っている。だって、この夏までヒビナはムジカレを読んだことがないくらいなのだから。

「あっ、ミニ」

 エレベーターを下りて、エントランスをくぐると早速有紀子さんはぼろぼろの車を見つけて駆け寄った。

「千尋ちゃんの?」

「はい。自損しましたけど」

「自損って……、豪快だね。どうしてミニ? 千尋ちゃんは雪国にいるなら4WDとかあるでしょ。私も乗っていたから二輪駆動は大変だよ」

「まあ、あははは、青ブタの麻衣さんと同じ車だからです」

「なるほど」

 あなたが乗っていたから、とは言わなかった。

「青ブタね。じゃあ、七里ヶ浜に行きましょうか」

 ここから電車で30分くらい。江ノ島と鎌倉の間にある長い海岸線は、その絶好のロケーションとして様々なアニメや漫画の舞台となってきた。有名なところで言えばスラムダンクや、エルフェンリート、ハナヤマタやTARI TARI。そして忘れてはならない青春ブタ野郎シリーズ。わたしに転機を与えた電撃文庫のライトノベル。何度もあの海岸をわたしは訪れて、きっとここなら素敵な恋ができたろうに、と思っている。

「七里ヶ浜ですね。じゃあタクシーを」

「ユッコ!」

 声が響く。直後、バタン、とドアを閉める音がして、ぽつねん先生が下りてきた。ようやく到着したのか、有紀子さんに駆け寄ってくる。それをさせないように、わたしが二人のあいだに割って入った。

「……千尋ちゃん」

 あれだけの自損事故を起こして、まさか自走でここに到着しているとは思わなかったのだろう。驚きの表情から、次にわたしの額を凝視し、はあとため息を突いた。

「わたしの勝ちです」

「僕の負けだよ。ふたりとも、どこに?」

「今から七里ヶ浜まで行こうと」

「送るよ。安全運転でね」

 ぽつねん先生は、寂しそうな表情で鞄を持つ有紀子さんに目配せをした。


 この前のアクアラインや先ほどの新東名高速とはまるで別人のように穏やかなドライブでぽつねん先生は運転する。

「今までどこにいたのさ」

 助手席に座る有紀子さんに訪ねた。

「京都のホテルに、8月からずっといたよ」

「ああ、だから」

 ぽつねん先生は口を噤んだ。

「そう。だから、私はミスリル経典テロには巻き込まれずに澄んだというわけ」

「……………………」

 夜中3時まで映画を見ていたから翌朝遅刻したの、というくらいの感覚で有紀子さんは言った。

「周も千尋ちゃんも、行進おつかれさま。嬉しかったよ」

 実感の籠もらない声で有紀子さんは言う。

「千尋ちゃんの引越し先は、ヒビナから聞いていたからね。無事にムジカレを読めてよかった」

 やっぱり送ったのは有紀子さんだったのか。

「有紀子さん」

「ん?」

「あなたは雪鷺さん、ですね?」

「……あー、そうそう。バレた?」

「バレバレですよ。もう、あれ大変なんですから」

「それより周と同じタバコ吸ってるなんてね。好きなの?」

「それは、全然違くて」

 低いテンションだが、有紀子さんはわたしとぽつねん先生をからかうようなことばかり繰り返しているうちに、車は江ノ電と並走しだして、七里ヶ浜の駐車場に入っていった。オフシーズンだというのに、土曜の朝っぱらからサーフィンをしている奴が見える。幸い砂浜は全然人気がない。

「僕はここで寝てるよ。京都から時速200kmで走ってきたから」

「まあ、免停でしょそれ」

 お前が言うな、と思わず口に出してしまうと、はじめて3人で声を出して笑った。


 階段を下りていくと、灰色の太平洋に日の出がかかるところだった。モノトーンだった世界がにわかに色づき始める。わたしと有紀子さんは、どちらからともなく歩き始める。何を話せばいいのか、心の整理ができないうちに、有紀子さんが話しかけてきた。

「千尋ちゃん」

「はい」

「もう一度、お礼を言います。聖者の行進、ありがとう」

 いえ、そんな、とも言えず。無言で頭を振る。

「創作の力ここに極まれり、って感じがしたよ。完結から6年もたつのに、あれだけ多くのファンがいて、嬉しかった」

「有紀子さん、どこで見ていたんですか」

「非実在ライトノベルをレビューする会の集団の後ろの方。ほんとうに感動した」

 10列で進む先頭にヒビナがいたことも知らなかったらしい。

「感動したんですか」

「うん。作家としてだけじゃない。ほかの作品のファンとしても」

「じゃあ」

「うん」

「どうして、断筆するんですか」

 ざざあ、と波が砕け、足元に飛沫が飛んでくる。

「どうして」

 わたしたちは立ち止まって、有紀子さんが鞄に手を入れるのを待った。

「私ね、8月から京都にいたって言ったでしょう。カンヅメしていたんだ。新刊を出そう、ってアゲハと藤澤さんが言ったから、今なら書けるかもしれない、ってやる気を出して」

 これ、と薄いノートを私に手渡す。表紙に日付、2020年5月。電話でヒビナの言っていた新作のメモだろう。

「この前電話で言ったけど、アゲハと藤澤さんが書いたようなものだって、ムジカ・レトリックの守。本当は、オリジナル長編にするつもりだったんだ。だから、ネタ帳も作った。有無に監修してもらって、ムジカレの正当な続編シリーズ全16作の構想も出来上がったんだよ」

 そんなことは、藤澤さん一言も言わなかった。

「そりゃあそうだよ。黙っていたんだもの。アゲハは知っていた。でも、藤澤さんは新しい担当編集だから、なるべく振り回さないようにって思っていた」

 それで、既存の短編とあたらしい中編?

「うん。中編は、前にストックで書いておいたものをブラッシュアップしたんだ。全然、本編に関係ないものだけどね。きちんと新作が書き上げたらそっちを渡すつもりでいた。そっちのほうが話題になるし、そこから続編をはじめようと本気で思っていたんだよ」

 本命と予備、二段構えで書こうとしていたんだ。

「プロットまでしっかりとできていたし、有無もそれにあわせてレトリックを編む準備はできているよ、と言ってくれた。草稿はアゲハにOKをもらっていたから、さあこれから書こうって京都にカンヅメすることにしたんだよ。悲しいことばかりの2020年に、クリスマスのプレゼントとしてムジカレが出せればいいですね、って出版枠も取ってもらった。それが、9月の11日の話。私はそこまでは作家でいられた」

「9月11日? テロの前日ですか?」

 有紀子さんはうん、と頷く。

「アゲハが刺されたのは、私との打ち合わせが終わってから10分も経たないうちだった。彼女の最後の言葉は、一緒に頑張りましょう、だった。有無とは前の晩にチャットのやり取りをしていたよ。面白いレトリックのアイデアができたから明晩にまた連絡する、って。それきりさ」

 語る有紀子さんは涙さえもう出ないような声をしている。

「周と私は生き残った。でも、彼女たちは死んでしまった。ひどいテロだよね。弔いだと思ってそれでも書こうとしたけど、てんで駄目なの。まるで手が動かない。締め切りは10月20日頃、裏の締め切りは11月5日、輪転機を回す限界が11月30日。裏の締め切りまでには書き上げようとするんだけど、テロのことから何から気になって仕方ない。ますますカンヅメで悪循環。そこに。聖者の行進が行われたんだ。襲われるかも、っていう恐怖もあったけど私は紛れ込んで見たよ。すごかったね。ムジカレって面白いんだな、って思っちゃった。愛されているな、って。あそこに集まった人の何パーセントがムジカレのファンかは知らないけれど、デモに参加するって駆り立てる力を持っているんだなって関心した。私が書いたものだけど、もう自分の手を離れているからね」

 波の音、遠くからは江ノ電の走る音。絵になる平和の中、有紀子さんはまだまだ続ける。

「私そもそも思っていたんだよね。ムジカレは終わったコンテンツなんだって。何年に一回か思い出してもらえれば御の字。当時中高生でももう大人なんだし、ラノベには流行り廃りもある。だから、ムジカレの新刊は蛇足かもなって。書こうとすれば、アゲハや有無のことを思い出してしまうし、潮時かもなって」

「でも、プロットを作ったんですよね」

「そう。ようやく本題に入れるね。きっと神様の作ってくれた偶然だよ」

 有紀子さんは、胸に抱いた新作のノートをわたしに差し出す。数秒の沈黙に波濤が砕けていく。


「私はもう書かない、書かない。だから、千尋ちゃん。ムジカレを書かないか?」


 よく見れば、有紀子さんの手は震えていた。か細い指先には、そのB5サイズのノートが重たいように見える。

「わたしが……ムジカレ?」

「実は、私昨夜賭けをしたんだ。ムジカレ新作のプロットノートと、ムジカレシリーズの設定資料。これを廃棄して引退するつもりで、出版社のあいさつ回りに行くつもりだったんだ。今夜の生放送に間に合うように。ただ、どうしても引っかかることがあった」

 引退、という言葉が冷たくのしかかる。

「君からの電話だよ。君のレビュー、前半はつまらないレビューだった。でも、後半は怨念というか執念というか、メンヘラくさい恐ろしさを感じた。ねえ、千尋ちゃん、ムジカとレトリックのほとんどを理解したのは本当?」

「本当です」

「商業誌デビューもしたんだよね」

「作家として本を出す、が条件でなくて助かりました」

「つまり、君は日本で唯一、ムジカレの二次創作をする公的な権利を持っているんだ。ほしかったんでしょ? だから、書かない?」

 当人に煽るつもりは無いようだ。この人は、思ったことをただ正しく伝えることしかしていない。書けない。書けそうな人間がいる。だから委託する。自然な流れ。

「賭けっていうのは、千尋ちゃんが先に来たらムジカレの引き継ぎをしたい。周が先に来たら、その場でノートを焼き捨てて引退を宣言する。だった。ヒビナには何も言わないまま疲れて寝ちゃったけど、しっかりと千尋ちゃんと周に連絡を入れてくれたんだよ。で、君が先に来た。だから、焼き捨てず、こうやってここにある」

 わたしが30センチ右手を伸ばせば、ムジカレのノートに手が届く。潮風にページがぱたぱたと揺れている。

「受けてくれるなら、悪いようにはしないよ。今何の仕事をして福井にいるのかは知らないけど、その仕事よりもずっと高い生涯年収を渡せる。新シリーズの印税の半分以上あげるし、既存シリーズの歩合もわけたげる。サークルの同人誌、読んだよ。器用だよね。上手いよ」

 上手いよ、模倣が。と言わなかったのは優しさだろう。どんなに少なく見積もっても、ムジカレの新刊だ。30万部は刷られるだろう。1冊50円でも1500万円。それ以外のムジカレの総売上から数%が入ってくれば、今の仕事をすぐにだってやめられるし、BMWの8シリーズやマセラティクアトロポルテだって買えるかもしれない。

「どうだろう。締め切りが危ういなら伸ばすこともできるから」

「それは……」

 できるんだろう。辺見ユウという作家であれば、最高の待遇をあらゆる出版社が行うはずだ。

「原作:辺見ユウ、井守千尋:著の併記にしてもらっても」

「それは…………」

 つまりそれは、わたしの名前が商業の単行本に載るということだ。わたしが書いた小説で、流通するということだ。

「なんならいろんな出版社にかけあう。千尋ちゃんのオリジナル作品だって出版できるように計らうから」

「それは………………」

 わたしの夢、作家になること。藤澤さんはまるで取り合ってくれなかったけれど、辺見ユウの力をもってすればきっと可能なんだ。はい、と言えばわたしはプロの作家になれる。またとないチャンス、大好きな作品をオフィシャルとして書き継ぐことのできる奇蹟のような誘い。

「それは……………………」

 右足を一歩、有紀子さんに近づけた。左手をあげて、拳を開く。

「千尋ちゃ」


「それは……、それは! お前が! 書くんだよ!」


 右手で、辺見ユウが持っていたノートを砂浜にはたき落とす。左手は襟首を掴んで締め上げる。きっと今までそんな経験のない(普通の女性にはあるまじき状況だしな)辺見ユウは、驚愕と恐怖で目を見開いた。

「なんで、プロットもシリーズ構成もできてるのに書かないんだよ! ムジカレは、あんたが書いたものしかムジカレじゃないんだよ! あんたが書いたものが読みたいんだ、それが全部なんだ、聖者の行進だって、今夜中に走ってきたのだって、わたしはムジカレに頼って、すがって、生きていきたいんだ。決して、ムジカレを書きたいわけじゃない! なんで、書けないなんて言うんだよ……、あんたが書いてよ、書けよ、書くまでわたしは諦めないから、6年くらい平気だから、悲しいこと言わないでよ。ただのワナビに書かせるなよ……、ねえ、辺見ユウ! 辺見ユウっ!」

 一気に叫んで、恥ずかしくて情けなくて悲しくて、わたしが先に膝から砂浜にへたり込んでしまう。

「ごめんなさい……、でもわたしはできない、待つから、ね……?」

「千尋ちゃん」

 襟元を正して、辺見ユウはわたしの名前を呼んだ。

「残念。でも、千尋ちゃんには書く資格があるから、じゃあ今度は千尋ちゃんの書いたムジカレも読んでみたいなって。私が書けば書いてくれる?」

……え?

「今、書くって」

「うん、言ったよ。まさかここまで怒るなんてね、おおこわ。今の激昂、よかったよ」

「はい?」

「和奏が、娘を叱るクライマックスのシーン。娘が自分のレトリックに音がないことを悔しくて捨てようとする姿を和奏が怒るんだ。あんたのレトリックはあんたのものなんだ、って感じで」

 ……はぁ?

「じゃあ、辺見ユウの断筆宣言は?」

「思いついたんだから書くわよ」

「ミスリル経典テロでビビって書かなかったのは?」

「スランプって言えばそれまでだし」

 ……はぁ? なにそれ……? わたしが呆れ果てている様子を尻目に、帰るよー、と辺見ユウはすたすた砂浜を歩いていく。

「ただね、千尋ちゃん」

「はいーー?」

「レトリック、有無がいないから監修してくれない?」

「……それくらいなら」

「本当? ありがとう! それなら行けそう。ああ、でも新シリーズでしょ? 守、っていうのは確定だけど」

 水平線からは赤い太陽が完全に姿を出して、モノクローム海はもうどこにも無くなっている。わたしの長い夜が終わっていくのが感じられる。

「新シリーズはね、音のないレトリックなの。やまぶきとくれないの娘は唯一無詠唱レトリックを操れる。それが新シリーズのかなめになるんだ。なんちゃらレトリックの守、になると新シリーズって感じがするよね、あー、通巻番号がないとこういうとき微妙なのわかるなあ。どう思う?」

「どう思うって、そんなタイトルなんて担当としてください」

 ばっさり切り捨てると、それもそうか、と辺見ユウは言った。

「ただ、わたしなら。ミラージュ、なんてどうですか」

 ふいに頭に浮かんだ単語を口にだす。ミラージュ。幻。ミラージュ・レトリック・幻のレトリックだ。

「ミラージュ。ミラージュ・レトリック。ミラージュ・レトリック。うん、いい感じ! いいよ千尋ちゃん、やっぱりスタッフとしてムジカレ新シリーズに」

「お断りします!!」

 声を出しながらわたしは笑った。なんだか、どっ、と疲れたけれど、そのまま砂浜に大の字になって天を仰ぎ見る。

「ミラージュ、全部繋がっているのかなあ」

「全部?」

 辺見ユウも、地面に座り込む。ぼんやりと水平線を眺める。

「ミラージュ・ライトノベルス・クリティシズム・クラブ。非実在ライトノベルをレビューする会です。わたしが勝手に名付けているだけですが」

「非実在ライトノベルをレビューする会。……語呂悪!」

 そういって、わたしたちはもう一度大笑いをした。


 服についた砂を払い、ムジカレ、そしてミラージュ・レトリックの守のネタ帳を鞄に入れると、階段を下りたときとは180度違う明るい表情でぽつねん先生のところに戻る。

「やあ、二人とも」

 今まさに向かいのセブンイレブンから買ってきたのだろう。青いカップに入ったホットコーヒーを渡してくれた。

「その様子だと、千尋ちゃん受けてくれたんだね?」

「いいえ、辺見先生が書くそうですよ」

「ユッコ!?」

 結果として、わたしがムジカレの新刊「ミラージュ・レトリックの守」を辺見ユウに書かせるきっかけを作ったことになったらしい。それはまるで「ムジカ・レトリックの園」の再現でもあり、またわたしは紅和奏のモデルであることもアップデートされたのだ。


 憑き物が取れたように、辺見ユウはよく喋るようになった。おしゃべりが途切れないからと、葉山のほうまでドライブに行くかという車内で、わたしは辺見ユウにひとつ質問をする。

「ムジカレについて質問なんですけど」

「なに? なんでも聞いて」

「ありがとうございます。わたし、ムジカレのレビューを書く企画を書くために、ムジカレを再読しようとしたら、暗示にかかってムジカレの記憶を全部失ってしまったんです。これ、どういう魔法なんですか? わたしの大切なものがたりは、先生が隠したんですか?」

 大真面目にわたしが言うと、辺見ユウは首を数秒かしげたまま考えて応える。

「私は隠すつもりはないし、そもそも催眠術や暗示もかけるつもりはないかな。強いて言えば……そうだなあ。読んでくれた千尋ちゃんがムジカレを信じようとした結果自分で自分に暗示をかけたんじゃないの」

「わたしが?」

「ものがたり、ってそうでしょ。空を飛ぶのも宇宙で戦うのもタイムマシンも、常識とはかけ離れたものをさぞ当たり前のものだって思い込むのが物語に没入する基本形。それを何度もやってきた人間は暗示を自分にかけやすいんじゃないかな。きっかけを園のはじめに、で書いたから忘れてしまって、織の最後でお返ししますって書いたから自分で暗示を説いたっていう」

 なんてこった。奇跡も魔法もなかったというの?

「でも、でも、非実在のみなさん、自分がレビューする作品のこと全員が忘れてしまっているんですよ。ムジカレのせいで」

「ああ、それも同じでしょう。彼ら彼女らは心が純粋で、自分の一番大切な言葉を質に入れてムジカレを読んでくれたんだろうから」

「辺見先生のせいですからね」

「私の?」

「わたしも含めて、ムジカレの新刊が出るっていうニュースを見て再読を始めたんです。犯人はあなたですよ」

 そのやり取りを聞いて、ぽつねん先生がぷっ、と笑った。

「悪いやつだな、ユッコは」

「一連託生だから。ぽつねんの呪いだってきっとある!」

「無い無い。僕はユッコの作品とおりにイラストを書いているんだから」

 再び、笑い声が重なった。気が抜けて、ふかふかのシートに甘えてあくびがでてしまった。ふわあああ。


 わたしの、ムジカ・レトリック、そしてミラージュ・レトリックを巡る旅はまもなく終わろうとしている。

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