レビュー「ムジカ・レトリックの園」シリーズ~一心同体の青春~

 ~特集「ライトノベルの飛翔 ゼロ年代傑作ラノベの復権」~


○イリヤの空、UFOの夏 秋山瑞人・作 駒都えーじ・イラスト

○CENTRAL―コーディネート・ゼロ― 姫川庵路・作 はさぎ舞・イラスト

○終わりのクロニクル 川上稔・作 さとやす・イラスト

○キーリ 壁井ユカコ・作 田上俊介・イラスト

○涼宮ハルヒの憂鬱 谷川流・作 いとうのいぢ・イラスト

○人類は衰退しました 田中ロミオ・作 山崎透/戸部淑・イラスト

○《文学少女》シリーズ 野村美月・作 竹岡葉月・イラスト

○生徒会の一存 葵せきな・作 狗神煌・イラスト

○ムジカ・レトリックの園 辺見ユウ・作 ぽつねん・イラスト

○アクセル・ワールド 川原礫・作 HIMA・イラスト


○ムジカ・レトリックの園

 ――――2009年、FE文庫より刊行開始。同レーベルの立ち上げとともにデビューした辺見ユウによる「バトルレトリックラブロマンス」で、第1巻「園」から16巻「織」まで累計1000万部を突破。2014年に本編16冊が完結した。第10巻「鍵」以外は2度のアニメ化と1度の劇場版化がされている。2020年11月には、6年ぶりの新刊「ムジカ・レトリックの守」が発売された。2009年発行「そのラノ2010」総合ランキングでは、「とある魔術の禁書目録」や「僕は友達が少ない」を押さえ、当時2巻までしか刊行されていないにも関わらず歴代最多得票率26.6%を記録している。投票者の4人に1人は本作品に投票したという伝説を持っている。ちなみに今回の、「そのラノ2021」総合ランキング第1位である「半べそ勇者の涙は空に(カノウ文庫刊 ぱっきん・作 大岡オーマ・イラスト)」の得票率が7.3%であることを考えると、ゼロ年代の作品数が今よりかなり絞られていたことがわかるだろう。

 2020年9月、89名の死者、200名以上の負傷者を出した「ミスリル経典テロ事件」で狙われたため、「ムジカレ」の名は一気に広がり、休止していたライトノベルレーベル「FE文庫」は復活することとなった。今回のレビューは、「ムジカレ」ヒロイン・紅和奏のモデルであり、日本の文学史上に残るデモ行進「聖者の行進」の先頭にも立った井守千尋氏によるものである。井守氏は「アマチュアとプロの中間点作家」という立ち位置のライトノベル作家でありながら、大のライトノベルファンである。

 また、「ミスリル経典テロ事件」で犠牲となられた皆様には、深くお悔やみ申し上げます。

文・W.U



一心同体の青春―ムジカ・レトリックシリーズ―

文責・井守千尋


 普遍のものがたり、と聞くと、あなたは何を空想するだろうか? 日本最古の物語である「竹取物語」、お札の顔にもなった夏目漱石の「吾輩は猫である」「坊っちゃん」、あるいは活字ではなくスタジオジブリのアニメ映画「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」、「天空の城ラピュタ」などだろうか。時代が移り変わろうとも、変わらない受け手の価値観に刺さる面白さ。これが、普遍のものがたりの魅力だと思う。その対称にあたるのが時代の潮流によって作られるものがたりだ。

 ライトノベルにも、時代の潮流というものがある。普遍的か、そうでないか。これを考え出すと、現代学園ものというジャンルは少し普遍性には欠けるように思う。例えば「とらドラ!」では、主人公・高須竜児がMDに様々な曲を録音している、というエピソードがある。これは、ゼロ年代のライトノベルであれば何も違和感は無いのだが、10年代においてはiTunesを始めとするネットでの音楽販売というハード側の変遷と、MP3プレーヤーやスマートホンの台頭による専用音楽プレーヤーの減少というソフト側の変遷でMDが古臭く感じられるようになり、意中の相手に自分セレクトのMDを渡すという行為も価値が薄らぐのではないだろうか。20年代はサブ・スクリプションが台頭することになると、現代ラブコメではLINEを使ってプレイリストを送るという行為に取って代わられるのだろうか。筆者としてそれは少し寂しいとは思うが。10年後、20年後にもなれば、学園ラブコメにおいて登校という行為が絶対ではなくなるかもしれない。2020年現在、登校せず自宅でのオンライン学習が進んでいるということもあり、ライトノベル紙面上の常識は時間が経てばその意図をつかめなくなる場合がある。

 一方で、「キノの旅」やアニメ化された「魔女の旅々」等、紀行ものというジャンルは普遍的な作品に近いと思う。価値観が多々登場し、現実の日本から離れている世界、あるいは完全に空想の世界には最先端性など皆無なことがあるのだ。「人類は衰退しました」のような寓話的なもの、「テスタメントシュピーゲル」のようなSFものも、現実から距離があるため普遍性を持っているように思う。50年以上前に刊行された「時をかける少女」が未だにメディアミックスされるのは、まずSFで、学園が舞台ではあるが時代を感じるものが特に描写されていないからではないか、と思う。

 だから、ゼロ年代の半分くらいの作品は、2020年現在読んでみると、若干古いな、と思うのは仕方がないだろう。もしかすると生まれる前だという読者もいうかもしれない(ここで補足をするが、古い、という言葉は全くマイナスの言葉ではない。ただ、客観的事実として、古いか新しいかというだけである)。

 それでも「イリヤの空、UFOの夏」「灼眼のシャナ」「涼宮ハルヒ」といった作品がライトノベルを爆発的に広めた10年間。これらの作品も普遍的で傑作なのは間違いないが、わたしは断然「ムジカ・レトリックの園」を推す。今年6年ぶりに新刊「ムジカ・レトリックの守」が出るという理由もある。ミスリル経典テロ事件の標的になったという理由もある。そして何より、わたし自身がこの作品と非常に強いつながりがあるためだ。

 わたしの青春は、ムジカ・レトリックシリーズとともにあったのだ。わたしを作り上げた作品。わたしという人間の価値観において、ムジカ・レトリックは絶対的な基準であるとともに普遍的なのは当然である。

 ムジカ・レトリック(以降「ムジカレ」表記)が、ゼロ年代最高傑作である、ということについて、今から5つの理由を交えてレビューする。最近新装版が発売され、待望の17巻も出るのだから、当時の読者も、これからの読者も、ムジカレという巨大な箱庭に足を踏み入れてみてはどうだろうか。そして、面白いと思ってもらえればいいかなと考えている。


 ムジカレがゼロ年代最高傑作な理由① キャラクターが濃い

 2020年現在、人気のゲームに「Fate/Grand Order」を挙げて不満が出ることはまずない、と思う。原作のFate/stay nightの練り込まれた世界観をベースに、ソーシャルゲームとの組み合わせ方、ボリュームのあるシナリオ、次々と追加される新規キャラクターには人気イラストレーターを何人も起用することで、ゲーム好き、Fate好き、イラスト好きほかたくさんのユーザーが本日も楽しんでいることだろう。驚きなのが、わたしの会社の、50代上司でさえ単身赴任の暇つぶしにFGOをプレイしていることだろうか。Fateという作品そのものは、2005年発売のゲームだが、歴史上の偉人を戦わせ「聖杯戦争」を勝ち抜く、というシステムがしっかりと練り込まれている上、様々なキャラクターが登場できる土台を持っている。そのため、様々なスピンオフほかこのFGOのブームもあるのだと思う。

 様々なプラットフォームに移植されても、金髪を編み込んで青いドレス、銀色の甲冑を身に纏い、伝説の剣エクスカリバーを握り凛々しく立つセイバー、ことアーサー王。アルトリア・ペンドラゴンは常にその中心を任される。生真面目で国を想い悩み、騎士道を貫きたいしかしお腹は空いている。そんな濃いキャラが中心にいるからこそ、今の広がりがあるのではないだろうか。

 Fateのセイバーと同じ高みに立つキャラクターは、東方シリーズの博麗霊夢と霧雨魔理沙ではないだろうか。同人サークルである上海アリス幻樂団より頒布されているシューティングゲームの主人公だが、匿名掲示板やニコニコ動画といったゼロ年代のインターネットの最前線で、半ばフリー素材のように持て囃され、原作ゲームではそこまでのキャラクター付はされていないはずなのに、ファンによって補強され、研ぎ澄まされ、キャラクターが濃いか薄いかでいえば間違いなく濃い霊夢と魔理沙が出来上がっている。そして、未だに新作ゲームが発表され、過去のものにはならない。

 他にも様々なゼロ年代の作品群があるが、キャラクターの濃さがやはり傑作たる裏付けになるのではないだろうか。いつの時代でも、群像劇は愛されるがしかし、憎めない愛すべきキャラクターのものがたりは強いのだ。濃さこそが、多くのファン、そしてそのキャラクターのアンチを生み出してくれるのだから。

 さて、ムジカレである。

 主人公のやまぶき、こと山吹悠。詰め襟、制帽、そして漆黒のマントを身に包み、万丈の剣「翠雨」と時鵠の剣「氷雨」を振るって強大な敵を叩き切る。孤児院「ムジカ・ガルテン」でくれないと一緒に育ち、年下の面倒見はとても良いがいたずらっ子で先生たちには怒られてばかりだ。黒衣の剣士、二刀流。ラノベにおいてどこかで聞いたような……。川原礫・著「ソードアート・オンライン」の主人公キリトとまるでかぶっている様相である。しかし、クールであまり多くを語らないキリトと、感情的でくれないとムジカ・ガルテンが大好きな熱を常に燃やすやまぶきはまるで対照的。ムジカレのキャラクターは、世界一の売上を誇るラノベの日本代表「ソードアート・オンライン」を相手に、互角で戦える主人公を要しているのだ。

 天下にその名を轟かせたレトリック斬、やまぶきと常にならび立つのはメインヒロインのくれない、こと紅和奏。一緒に育ったやまぶきのことが大好きで、彼がぶった斬るレトリックを自ら使えるようになった魔法使いだ。やまぶきに一途なヒロインながら、友情を大事にしていつも喧嘩ばかり。庇護欲を誘う妹系ヒロインとはまるで対局的な、この物語の常に中心にいる存在。でも、もしかしたらクラスメイトにいるかも、というバランスで男子読者からでなく、女子読者からも大人気である。綾波とアスカとマリの人気を全部一人で背負うようなもので、FE文庫だけでなく、ライトノベルのゼロ年代ヒロインとしてその名前を忘れることはできないだろう。そのラノ2010では、ムジカレのイラストレーター・ぽつねん先生が描いた「背中合わせでお互いの作品文庫を持つくれないと涼宮ハルヒ」ピンナップがついたので4判まで増刷されたのもくれないの人気だという。

 作者の辺見ユウは、キャラクター作りで変な履歴書を作ることを必ずやるそうだ。やまぶきは生命保険会社の営業担当、くれないは県庁の公務員になる人生を考えているという。はたしてそれでキャラクターに様々な魅力を付与できるかどうかはわからないが、ムジカ・レトリックの就職活動、というのは見てみたい気もする。

 忘れてはいけないのが、魅力的なおじさんたち。孤児院の園長をはじめ、多くのおじさんがムジカレに出てくるが、彼らはいちいちかっこいい。しゃしゃり出てこない。ルパン三世のように恰好をつけるわけでもない。ただ、自分の仕事の完遂を第一に考えながらも、子どもたちは平和に生きてほしいとだけ願うプロフェッショナルたちだ。たとえ、やまぶきと刺し違えても、斜方空間に放り込まれても、爆散しても(ムジカレのおじさんはたいてい悲惨な目に合う)、その存在感は主人公たちを喰ってしまうほど。特に、13巻「梢」に登場するゲーチスに至っては、中表紙を飾り、大国を騙し、くれないを泣かせ、最後には自ら自害をしてまでもクラウド・システム(このクラウドは、ネットワーク上のストレージのことではない)を守ろうとした。オイしい役どころではある。アニメ版では平田広明氏がキャスティングされたことからなお、強いイメージをつくりあげた。コミックマーケットなどでも、ゲーチスは人気だそうだ。ただのゲスト悪役だというのに、である。だが、あくまでもムジカレは少年少女のものがたり。追唱の6人は、もはや語ることもないだろう。ドラえもんとのび太、しずか、ジャイアン、スネ夫。あるいはSOS団の5人のような、くれないを中心に、やまぶき、えんじゅ、なつめ、あさぎ、すおう。10年代に、お姫様と5人の騎士というパターンがこれでもか、と出てきたのはムジカレが原因で、新人賞に応募していた10年代前半のワナビはさぞムジカレの「歪なカラーチャート」を呪ったことだろう。意識して、SOS団あるいは追唱の6人を避けると、まともな群像劇なんて書けないと思う。いくつか小説を書いたことのあるわたしだってそうだったからその気持ちはよくわかるのである(なお、ムジカレの二次創作は公式から禁止されている)。


 ムジカレがゼロ年代最高傑作な理由② アマデウス・メディア・ミックス

 キャラクターがイラストとして、紫色を基調とした表紙に映えるムジカレという作品。この見栄えは、小さなA6版の文庫にとどまることをしなかった。ムジカレは第1巻「園」発売時から最終巻である16巻「織」を見据えて伏線が貼られはじめており、FE文庫もそのつもりで刊行スケジュールを建てたという。大々的にメディアミックスをしていきたい考えからか、第1巻「園」の発売と同時に、岸原涙香作画によるコミカライズ全24回が開始された。岸原涙香と言えば、「葦原のアマテラス」の作者であり、オリジナル作品をバリバリ描ける漫画家として有名なのにも関わらず、デビューしたてのラノベ作家のコミカライズを担当することが当時かなりの話題になったらしい。ただし、タイトルは「ムジカ・レトリックの花園」とコミカライズ独自のものとなり、岸原涙香タッチそのままで描かれている。

 この流れは、最終巻「ムジカ・レトリックの織姫」まで続く。原作第10巻「ムジカ・レトリックの鍵」を除いた15冊が、15人の実力派漫画家によって描かれたとあって、それぞれの漫画家ファンがムジカレに引き寄せられてきたのだった。その中でも、「ムジカ・レトリックの春宵」の作画を担当した翻光彦は、2017年に自分のオリジナル作品「エンジェル・カスク」がアニメ映画と実写映画に同時にメディアミックスを果たし、実写がアニメ以上に高評価を得るという話題を掻っ攫った。他にも、梶尾ツィル(ムジカ・レトリックの御旗担当)、JIGSAW(ムジカ・レトリックの紅焔)、安賀多かなえ(ムジカ・レトリックの夢中)の3大少年誌の看板漫画家が揃ってムジカレのコミカライズを担当したという輝かしい功績を持っている。いずれも各々独自のタッチで描かれているが、どの巻にもマッチしていると好評であり、間違っても編集部とのコネで淡々と描かれているだけのクオリティが中途半端なコミカライズとは一味もふた味も違うものとなっている。

 コミカライズが素晴らしいだけではない。ムジカレはアニメも出色の出来となっている。3度のアニメ化で、原作16巻中10巻の「鍵」以外を網羅。中編と長編いずれも、鍵以外はひと作品でも欠けたら話の辻褄が合わなくなる構成になっているため、必要あってのアニメ化であるが、豪華スタッフが集められた。今でもクオリティの高さに定評のあるAONE動画製作である。監督が幾原邦彦、音楽は菅野よう子で、レトリックというケレン味たっぷりな舞台装置をアトラクションと見紛う配置をして視聴者を二重に酔わせてくれた。「ムジカ」=音楽もムジカレには切ってもきれない要素であり、間違いない作曲をしてくれる菅野よう子がついてくれたのもあまりに大きな功績だろう。2011年10月から2012年6月にかけての「第一期」は、第一巻「園」から第9巻「旗」まで。2013年10月には劇場版アニメとして第11巻「夜」第12巻「睡」がをまとめた「ムジカ・レトリック-睡蓮の夜想曲-」が公開。深夜アニメ原作ながら8.1億円の興行収入はまずまずだったが、大問題なのがこの映画、3時間40分という長い長い上映時間にも関わらずリピーター続出であったことだ。そして、原作が2014年6月に完結をしたのち、2015年の1月から6月にかけて「第二期」である「ムジカ・レトリックの織」が放映された。主要スタッフは最後まで続投。いずれのクールにおいても覇権と言われ敵なしのアニメ化。しかも同じライトノベル、2009年シリーズ開始でありライバルとも言われているソードアート・オンラインとは一度も放映時期が被ることなくライトノベル読者は両方楽しんでいたという。

 構想はあっても、シリーズもののライトノベルが最後までコミカライズ、あるいはアニメ化される作品は稀であり、さらにそれが高いクオリティであることはほぼ無いと言っても過言ではない(あの、ソードアート・オンラインも含む)。このようなすべてのメディアミックスが大成功となった作品は果たして他にあるだろうか。やれやれ系、鈍感系、俺TUEE系、そんな売れた作品を揶揄する言葉がムジカレにはなく、ニコニコ動画でムジカレまとめ動画を見れば「末永く爆発しろ」「ここに式場を建てよう」というファンの祝福コメントにあふれているのが見ることができるだろう。

 誰が言い出したか、すべてのメディアミックス、特にコミカライズの功績が大きいが、あらゆる方向からムジカレの追い風となったことを「アマデウス・メディア・ミックス」と呼ぶ。シンデレラストーリーとも言われるが、この作品に限ってはこの呼び方が浸透しているのも事実だ。アマデウス、というのはご存知のとおり、天才作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのミドルネームであり、神に愛されたという意味を持つ。アニメ第一期17話「消える春風」のCパートで流れたのは、モーツァルトが紛れもない天才であることを誇示することとなった礼拝歌「ミゼレーレ」であることも縁深いのだろう。このアマデウス・メディア・ミックスということばは実は一ファンのブログから発信された言葉である。……何を隠そう、筆者である。本章を、2011年11月のブログ記事の一節から引用として終わらせようと思う。

───「春」の始まりで出てくるレトリックって、全部モーツァルトのミゼレーレから引用しているんだよね。9つのムジカ、4つのレトリックの複合体が春を封じ込めたんだけど、これって9声合唱のミゼレーレを模倣している。のはいいんだけど、第17話!「消える春風」ってアカペラ9声合唱なのね! わざわざこのカンタータをアニメのために作ったんだよすっげぇよアニメスタッフ本気すぎ。そしてコミックの「春風」も、この9声にミゼレーレ使っているんだけど、その楽譜モーツァルトの写譜からレトリックを拾っているのがわかるように書かれているの。ムジカレって人類の神に捧げるものすべてを終わらせるコンセプトがあるってわたし前々から思っていたんだけど、ヒトの歴史の尊さを逆に実感できるすごい人類史でもあるのね。原作に込められていた想いを、しっかりとコミカライズでマンガとして次元を一つ上げて、アニメでは映像と音で更に2つ次元を上げているなんて、すごいよ。他の巻だってそうだけど、特に音楽に関してはこだわりがあるから書いています。ムジカレのアニメ化はシンデレラストーリーって言われるけど、もうそんなおとぎ話じゃない。アマデウス。アマデウス・メディア・ミックスだよ。神様がいるのであれば彼(彼女)に愛されているんだ!───


 ムジカレがゼロ年代最高傑作な理由③ セカイ系と俺TUEE!の間

 ゼロ年代、という言葉は妙にラノベ読みを引きつける力を持っている。ライトノベルが爆発的に広まった10年間であるし、ラノベのメディアミックスとしてアニメやコミカライズも規模が非常に拡大した10年間だ。そのゼロ年代を語るキーワードとしてまず、「セカイ系」が出てくるのは必至だろう。

 セカイ系というのは、ご存知の方も多いだろうが、主人公が「ヒロインか、世界か。その命運を選択する」という展開を示す。有名どころでは、新世紀エヴァンゲリオン(1995)で、主人公の碇シンジが、ヒロインの綾波レイか、あるいは世界かを選択する場面が教科書的なセカイ系といってもいいだろう。一番わかりやすいのは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破のラストシーンだろうか。作品として、主人公の見せ場でもあるし、賛否は分かれるが、起承転結の結がドラマチックになるのも間違いないだろう。ライトノベルでは、「イリヤの空、UFOの夏」、「涼宮ハルヒの憂鬱」あたりが有名どころだろう。今回の特集であるゼロ年代ラノベではさして珍しくない展開だ。

 ムジカレも、ゼロ年代の終盤にあたる作品ではあるが、みんな大好きセカイ系を採用している。作者の辺見ユウがゼロ年代の中盤にライトノベルにはまりこんだという事情も大きい。彼女の大学時代における研究テーマが中間小説とライトノベルということも影響しているのではないかと睨んでいる。研究されたセカイ系を、斜方空間の空が覆うムジカレのセカイに落とし込んだのである。

 わたしがムジカレがセカイ系だと感じる箇所は、全シリーズ通じて7回ある。それはいずれも長編だ。1つめ、「園」のクライマックス。レトリックの力を受け取るやまぶきが、1人の大切な少女の姿をくっきりと思い浮かべた瞬間。2つめ、「焔」のクライマックス。テンシャン山脈の暴走を食い止めるために篝火のムジカを吐くあさぎの階層。3つ目、「春」の、春の来訪。茜色の空から振る破滅の花弁に対しレトリックを編むえんじゅの笑顔。4つ目、「旗」の、聖者の行進で紫雲の旗を強く握るくれないの涙。5つ目、「睡」の夜の終わり。なつめが大切に育んだ極光カレンと友情、その手を自ら切り落とした葛藤。6つめ、「夢」の空が割れた時。すおうが他の五人に向けてカノンコードを発動した繰り返しの感謝のことば。そして7つ目。やまぶきとくれないが、堅く手をつなぎ詠み上げた「織」のムジカ・レトリック「流れ星ティアーズ」だ。7つのシーンともに、自分と、友情と、愛情と、世界とを天秤にかけ、だいたい3ページから10ページ近く悩んだ挙げ句追唱の6人は選択をする。紛うことなき、ムジカレはセカイ系。おそらくゼロ年代最後のセカイ系なのだ。

 セカイ系がゼロ年代の象徴だとすれば、まあ一般的なラノベだと言える。ということは、これがムジカレがゼロ年代最高傑作な理由とはいえないのではないか? と感じるのだが、しかしムジカレはただのセカイ系ではない。十年代の前半を飾る「俺TUEE!」をふんだんに編み込んだセカイ系なのだ。

 俺TUEE!。この言葉がどこから出てきたものなのか特定は難しい。とある魔術の禁書目録なのか、ソードアート・オンラインなのかあるいは魔法科高校の劣等生なのか。パワーバランスをぶっこわす、納得の行かない強さを持つ主人公だ。たとえば人外の強さを持つ炎髪灼眼の討ち手・シャナであっても、シリーズ序盤から苦戦の連続だったりするし、更に遡ればフルメタル・パニック! という作品の主人公、傭兵の相良宗介は物理法則を無視した装置「ラムダ・ドライバ」を起動させることはできる少年だが、勝った負けたの回数ではどっこいどっこいではないだろうか。チームメイト、あるいは共闘によって強大な敵を倒していくところにライトノベルのカタルシスがある。とわたしは思っていた。

 そこに登場したのが、俺TUEE! という新規概念。十年代の爽快なラノベには標準装備の便利な奴である。例えば、わかりやすく「魔法科高校の劣等生」を例にあげよう。主人公の劣等生、司波達也は国連軍くらいなら塵一つなく吹き飛ばせる戦略級魔導師であり(どこが劣等生なのか)、国立魔法大学付属第一高校の同級生との性能差は三輪車とF1カーくらい開きがある。味方がいても実力差がありすぎるので達也が全部、それはもう揉め事を全部解決してしまうのである。カタルシスもなにもない。バランスブレイカーだ。徳川吉宗が変装もせずに庶民の揉め事に首を突っ込むようなものである。デウス・エクス・マキナだと言われてしまえば言い返せないほどの理不尽な強さ。でも、かっこいい。いつしかこれを、「俺TUEE!」と呼ぶようになった。周りは嫉妬もなにもない。ただ一言、ヒロインが「さすがですお兄様」と言えばOKという時代が、ラノベの十年代前半と言っても良いのだろう。似てはいるが、とある魔術の禁書目録の上条当麻は弱点だらけだし、ソードアート・オンラインのキリトは別にそんな描写なんて無い。SAOはチーム戦が多いからキリトが俺TUEE!というのは誤解なのだ。誤解だと信じて欲しい。

 さて、俺TUEE!。だが、ムジカレの登場人物は葛藤こそする、仲間と背中合わせで戦う場面こそ多いが、基本的に俺TUEE! の条件を満たしている。空間時間を支配できる二本の剣を握り、どんな強敵でも力だけではなくムジカもレトリックも駆使して必ず倒す。そんな主人公山吹悠を俺TUEE!と言ってしまえばそのとおりなのだ。追唱の6人全員がそれだけの強さを秘めている。たった6人の少年少女が世界を相手に大立ち回りを繰り広げるのだからそりゃあ、そうなんだけどさ。

 セカイ系は面倒くさい。

 俺TUEE!は鼻につく。

 その2つの要素を必ず込めているのに、読んでいる時は爽快感を得て、誰もが鴾告と氷雨の剣による剣術のマネをしたり、右腕を大きく高くあげるくれないの詠唱を真似したくもなる。疾走感のあるかっこよさ、辺見ユウの文章は万能感を読者に与えてくれるのだ。

 セカイ系と俺TUEE! を兼ね備え、でもその2つの時代の間に現れたムジカレは、いいとこどりをして、とにかく文章で読者を引き込んでくれる力を持っているのだ。やったことの無いムジカレ読者は、ぜひ一度、やまぶきによるレトリックを音読してほしい。身体の奥で眠っていた血潮が熱く滾っていく瞬間を感じられるだろう。


 ムジカレがゼロ年代最高傑作な理由④ 10年代の礎

 ラノベには当然流行り廃りがあるが、古典として残される作品も少なからずある。今回のレビュー特集に名を連ねた10作品はいずれもその古典となる面白い作品だが、その半分くらいは「ゼロ年代を作り上げた作品」、だと思う。じゃあ、ムジカレが違うのか、と言われれば、前述したとおり半分十年代の俺TUEE!に足を突っ込んでいるような作品であり、いわば十年代の礎として語り継がれる作品とも言えるだろう。十年代、2010年から2019年まで、これまたいろいろなことのあった10年間。ライトノベルの潮流は思いもよらぬ方向へと流れていったような気がする。

 2011年、彗星のように、という言葉がふさわしい。「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」のスタートを皮切りに、王道をひねったような王道作品が多数出てくるようになった。また、「この素晴らしい世界に祝福を!」「Re; ゼロから始める異世界生活」といったウェブ初作品がライトノベル界を席巻するようになったのも十年代の特徴である。そして、「響け!ユーフォニアム」「りゅうおうのおしごと!」など、かなり専門的な(ニッチな)ラノベも受け入れられるようになった。

 三者三様、ゼロ年代にライトノベルが多様性をもって受け入れられるようになった土壌を持っているのだろうけれど、その土台として様々な作品の影響を受け、次の世代につなげたムジカレという作品があってこそだとわたしは考えている。

 まず、ムジカレの源流はハルヒである。

 それはどうしてか、と問われても、ハルヒなのだ、としか答えようがない。ムジカレのおおまかなキャラクターの思想は涼宮ハルヒスタートなのだから。それについては、理由⑤に詳しく書くのでここでは気にせず読み流して欲しい。

 そして、王道ファンタジー(ゼロの使い魔)、学園ラブコメ(とらドラ!)、疾走感のあるSF(オイレンシュピーゲル、スプライトシュピーゲル)、理不尽さと童話感(キノの旅)、異能力バトル(とある魔術の禁書目録)、文学引用(文学少女)などをすべてリライトして一つの作品として織り上げたのだ。これに関してもそうなのだ、と確証は無いが言うことができる。辺見ユウならではの切り口で、ひねったように見える王道と、目指したものは異世界ファンタジーであること。また、ルーンをはじめとした様々な言語、音楽理論を盛り込んだニッチさすべてを前面に出すことはなくあくまでも緻密に作り上げられた設定のみのもの、というのも素晴らしいじゃないかと思う。ほとんどの十年代に発表された作品の要素はムジカレですでに抑えてあるのだ。いろいろなジャンルのラノベを読みたければムジカレを読めばいい。

 なにより、十年代の作家のほとんどはムジカレを読んでいる筈である。影響を受けるなというのが難しい話だ。影響を受けるということは、ムジカレに近いものになるということだけではない。ムジカレから自分の書く作品を離そうとする行為だってもムジカレの影響を受けているということになるのだから。20年代になれば、ムジカレの呪縛から逃れられるかと思ったが、どうにもそうはいかないようである。

 このレビューを書いている時点では、ムジカレシリーズの第17巻「ムジカ・レトリックの守」は発売されていない。だから、新シリーズが20年代の礎になるかどうかは筆者にはわからない。ただ、わたしは20年代もムジカレ無くしてラノベ無しという、ラノベの礎をアップデートしてくれると期待している。

 また、白眉なので記しておくが、ムジカレ、というよりもFE文庫は2009年の創刊時より電子書籍版と朗読版を同時発売していた。電子書籍リーダがまだ黎明期の頃。iPhoneはまだ3GSまでしか無かった頃だが、2020年現在の電子書籍の台頭する将来も見据えてなのか、ムジカレはソフト面だけでなくハード面でも一歩先をいっている作品だ。


 ムジカレがゼロ年代最高傑作な理由⑤ わたしと一心同体 

 この章に関しては、普通のレビュアーに書くことができない内容である。

 わたしがムジカレがゼロ年代最高傑作な理由は、すべてこれにつきる。井守千尋という人間が、ムジカ・レトリックシリーズのヒロイン紅和奏のモデルだという点だ。

わたしは高潔な魂を持つ和奏とは似ても似つかないと思うのだが、辺見ユウはわたしをモデルにキャラクターメイクをしたのだから、間違いないのだろう。

 まずは、わたしと辺見ユウについて書かなくてはいけないのかもしれない。2020年9月12日に発生した、ミスリル経典テロ事件から、10月3日に開催された聖者の更新デモに関連するニュース等々で知った読者もいるのかもしれないが、わたし・井守千尋の友人の姉が辺見ユウである。辺見ユウの妹である友人とは高校一年生の頃、2007年からの付き合いであり、辺見ユウは当時京都大学に通っていた大学2年生だった。人文学部で、ライトノベルについての論文を書こうと現役女子高生に話を聞きたいと、どうやら高校内でも相当ユニークなことをやっていたわたしに取材をしに来た。それが、辺見ユウとの出逢いである。

 そして、1年後。辺見ユウから連絡がきた。わたしをモデルにライトノベルを書いてもいいか、と。わたしは生返事でOKしたようだ。なにせ生返事なので記憶がない。正確にいえば、その頃まだ辺見ユウというペンネームは無かったため、一人の作家志望からのお願いだった。辺見ユウの妹はそのことに大して興味が無かったのか、デビューしたことさえ知らなかった。わたしはムジカレがはじめて世に出てから一年半も経ってから、アニメ化発表のタイミングで文庫本を手にすることになる。辺見ユウという作家が、わたしをモデルにラノベを書いていいかと聞いた知り合いであることを知らないまま。

 そして、読んだ瞬間。わたしはムジカレを大好きになっていた。わたしのために書かれた小説だとさえ思った。いや、今も思っている。例えるなら、私の食生活をすべて把握した上で、一番食べたい料理を極上のものとしたフルコースとして出されたようなものだ。食事の内容だけではない。店の雰囲気も、ドレスコードも、何もかもが自分が良いなと思っているもので揃えられた完全無欠のラノベだと信じて疑わなかった。ネタバレは、ムジカレのアニメ放映中のアニメ雑誌で行われた。辺見ユウが新潟出身で、とある女子高生をモデルにキャラクターメイクをしたこと。その女子高生の話がインスピレーションにつながったこと。それを読んで友人の姉である辺見ユウに連絡を取れば、それはわたしだということを教えてもらったのだ。唖然とし、恥ずかしさも覚えたが、こんなにも嬉しいことは無い。わたしの好きなこと、わたしが嬉しいと思うことを詰め込んだ作品が、16巻まで出ることを知ってからは有頂天の日々が続くようになったのだから。前述のとおり、しっかりとしたメディアミックスと、原作小説以上とも呼ばれるコミカライズ。緻密に作り上げられた世界観は、辺見ユウの不世出の天才の力あってこそのことだが、それもすべてわたしが好きな感じの設定だ。

 わたしの中で特別となった作品、ムジカレは、それを越える作品を探しながら年間250冊を読み続ける上でどんどん天上の存在へとなっていった。面白いけど、ムジカレと比べちゃうとね、と思うようになったのである。だからいつしか、比べるのをやめていた。レビューを読むのもやめた。どんな言葉を並べて第三者が評価したところで、わたしとムジカレとの間にある特別な関係性以上のものはそう出てこないと思ったからである。

 規格外の劇場版があり、死屍涙々のアニメ二期も終わり、ムジカレは過去の作品へとなりつつあった。2016年にコミカライズの最後の単行本が発行されて以来、ムジカレの新刊は二度と出なくなったのである。ラノベ界隈の流行りも、2017年2月の「86-エイティシックス-」以降徐々に移り変わりつつあり、ゼロ年代から十年代前半を席巻したムジカレはわたしの大切な思い出になろうとしていた。ライバルとして比較されることの多かったソードアート・オンラインは2020年10月現在でも最新巻が発刊されているし、時代は文庫本から単行本へとシフトしつつある。

 そんな中。2020年8月に、ムジカレ第17巻の発売が発表された。晴天の霹靂だ。16冊で完結という、「園」発行時から考えられていた世界は閉じたのに、あわや蛇足とも言われかねない新刊を出すニュースが飛び交ったのだから。しかし、わたしはムジカレとの出逢いという、何度でも記憶を失ってめぐりあいたい感動への欲望に負け、再度ムジカレを第一巻から読み始めたのである。そして同月。衝撃がもう一つやってきた。8月31日、少年少女にしてみれば夏休みの最終日。「涼宮ハルヒの直観」発売のニュースだ。ムジカレの根底にあるのがハルヒであるように、わたしの根底にある作品もハルヒだ。ムジカレがわたしとともにあった作品であるのならば、ハルヒはわたしを作り上げた作品。ムジカレの再読を一度ストップし、数年ぶりに「涼宮ハルヒの憂鬱」を読み返した。非常に、面白かった。

 そして、ムジカレの再読を中断しているタイミングで、わたしは辺見ユウが仕掛けた罠にかかったのである。第一巻「園」の「はじめに」と、第十六巻「織」の「おわりに」に書かれている、読者の一番大切なものがたりを隠してしまうという暗示の魔法。わたしはその時点で、最も大切な物語はムジカレだったのだ。九年半にわたるムジカレとの日々、そして活字として永遠に残るわたしの思い出の鍵。それらは一時的に記憶の彼方に隠されてしまったのだ。

 ムジカレという作品を、わたしは忘れてしまった。そのタイミングで、このレビューを書く依頼を受けた。どうやら業界界隈ではわたしがくれないのモデルであることは知れ渡っているようで、でもわたしだけがムジカレを忘れてしまっている。他にいなかったのか。ムジカレこそがもっとも大切なものがたりだという人間が。更に間の悪いことに、ムジカレの原作を友人に貸してしまった。その原作も、ミスリル経典テロ事件で失われ、戦後唯一の禁書にムジカレが指定されてしまったのだ。ムジカレを読みたくとも、この国を流れる空気が許しはしなかった。書店の平台に今も鎮座するムジカレの姿を見れない数週間、わたしはムジカレが読みたくて仕方がなかった。だから、そのラノのレビューを担当するラノベ読みたちと手に手をとって、禁書の撤廃を目的としたデモを実行するに至ったというわけ。

 各出版社、そしてラノベ読みの人たちも禁書という事態はどうにか撤回したかった。それぞれの目的が合致した結果、わたしというくれないのモデルとなった人間が、紅和奏のコスプレをして、日本武道館から東京ビックサイトまでのデモ行進の先頭に立つことになった理由だ。わたしだけだと思ったら、ぽつねん先生もまたやまぶきのモデルだということはあとから知って驚いた。

 シリーズの中でも屈指の見せ場であり、アニメ第一期のクライマックスを飾った「旗」の聖者の行進を、わたしは自分がムジカレにどれだけの偏愛を抱いていたかわすれたままに参加した。でも、記憶を失っていたからこそわかったことがある。

 わたしは、もとより紅和奏だったのだ。

 迷言ではない。わたしが聖者の行進で行った発言は、ほとんど思ったことを口にだしただけだ。くれないのセリフを忘れている状態で呼びかけた言葉は、一言一句原作のくれないのセリフと違わなかったという。ムジカレを読んだ記憶が遠くからわたしにそれを言わせたのかもしれない。しかし、わたしは違うと思っている。わたしという人間を、辺見ユウはヒロイン紅和奏としておそろしい再現度で書き上げたのだ。

 ライトノベル史、文芸史、日本の民主主義史におそらく残るであろう500万人参加のデモによって、わたしはくれないが作中で何を考えたか知った。わたしの考えることがくれないの考えることであれば、それはイコールでいいだろう。怖いけれど、失うのはもっと怖い。だから、行進しよう。というものである。

 聖者の行進から少しして、ようやくわたしはムジカレを読み返す機会を得た。

 そして魔法が解けたかのように、ムジカレとの日々を思い出したのだ。今思えば、全て覚えている状態で聖者の行進に参加できなかったのが悔しいが、こればかりは再現しろとは言えないし、もう一度やりたいとも思えない。危険な行為であることは間違いないが、わたしが更に作品を大切に思うようになったきっかけであるのは間違いないだろう。

 だが、一番悔しいのは、聖者の行進ではない。ミスリル経典テロ事件で失われた、ムジカレ関係者たちの名前を忘れていたことだ。忘れてはいけない名前、忘れてはいけない功績。辺見ユウの魔法があまりに強いからといって、忘れていいものと悪いものがある。9月12日の早朝、桜木町駅前で起こったニュースを見て、その名前を聞いて、わたしは何も思わなかった。その過去がとにかく悔しい。だけではない。辺見ユウが作り上げた綺羅星の箱庭に対し、それが自分たちのものに酷似しているからと暴力的手段に訴え出た人間たち。誰にでも訪れることのできる世界だというムジカレの作中に書かれた園について何も知らずに力に訴え出たあまりにも凄惨な事件の犯人たち。そして、その事件の規模を見て、ムジカレを禁書とした空気だ。誰か一人が悪いわけではない。自粛ではない、出版物回収でもない、禁書だ。許してはいけない。忘れてはいけない。わたしたちの失ったものの大きさと、わたしたちの手で取り返した自由という尊さを。

 と、わたしとムジカレとの関係は切ってもきれないものである。これだけで一冊の小説にでもなりそうだが、それはまたの機会にしよう。

 このレビューのタイトル、「一心同体の青春」は、ムジカレと一緒に巡った季節を思い返して名付けたものである。青春というのはだいたい十代と言われているが、それは気にしないでほしい。わたしがムジカレにかけた情熱は、青春と呼ぶに違わぬ熱と青臭さを兼ね備えているのだから。ムジカレが好きだ。ムジカレの世界に行きたかった。ムジカレと同じ時代に生まれたことを誇らしく思う。ムジカレを世に生み出した人たちと同じ時代を生きたことを誇らしく思う。

 辺見ユウという、頭の中に銀河系をまるごと入れているような天才作家、ぽつねんという、辺見ユウのイメージを完全にトレースしイラストに落とし込むことができる神絵師、そして生み出した人たちはこの二人だけではない。

 わたしの憧れであった、ムジカとレトリックのすべてを担当した、東京オリンピック2021ロゴデザインとしても知られている有無先生。辺見ユウワールドをわたしたちに伝えてくれる架け橋としてあなたはなんて優しい言葉を紡いでくれたのだろう。あなたの大系立てたムジカ、レトリックを理解しようと未だに様々な外国語の本を読んでいますが、まったく理解できる気がしません。せめて、わたしが生きている間にその片鱗でもつかめれば御の字だとおもっています。できることならば、あなたのイメージするムジカ・レトリックの守を読みたかった。絶対に、面白いのはわたしが辺見ユウにかわって保証します。

 そして、担当編集の上波アゲハさん。わたしがムジカレとはじめて出会ったのはアニメ化があったからです。さまざまなイベント、山のようにあるソフト化、アマデウス・メディア・ミックスという言葉のきっかけとなった豪華なコミカライズ。ムジカレを好きになる門戸を無限個まで作っては、ほんとうにそこらじゅうに建てていってくれた敏腕編集。最新刊となるムジカ・レトリックの守でも、どうか同じようなメディアミックスがされるとわたしは信じています。それができなかったといしても、わたしの持てる限りの(たいしたものではないが)力を動員していきたいと想います。

 ぽつねん先生とは、聖者の行進でご一緒させてもらいました。ユニークで飄々として、本当にこの人があのイラストを描いたのか、少し疑問でした。でも、血のインク骨のペンでイラストを書くがごとく、鋭く祈るような作成風景を見せていただいたとき、本物だと想いました。ムジカレのイラストは、すべて優しさにあふれていると想います。それは、ぽつねん先生によって多めに込められているものだと、最近知ることができました。あなたの作品への愛は、辺見ユウという才能を愛して仕方ないからだということをわたしは知っています。それをかたちにできる人間はきっと、あなたと有無先生、上波アゲハさんしかいないのでしょうが。でも幼稚で力んだ行動力であれば、わたしもきっとぽつねん先生と同じところまで、いいところまで行ったのではないでしょうか。頬の傷の痛みを思い出す度に、共に歩いた旗の下の景色が思い浮かびます。

 そして、辺見ユウ。

 わたしは、あなたを尊敬しています。

 わたしは、あなたを友人として大切だと想います。

 わたしは、あなたをきっと愛しているんです。あなたは様々な才能に愛されているんです。嫉妬さえ追いつけない、亜高速の才能です。その先を光の速さで飛ぶあなたを、ただわたしは見つめるしかない。この感情はきっと愛なんです。

 あなたは、わたしの人生を何度も救ってくれた救世主です。何度もわたしは折れそうになった。倒れそうになった。いや、腹痛や頭痛で辛かったことが何度もあります。人との会話で、重責で、将来への不安で、あるいは恋に。どんなに打ちのめされたときだって、どんなに涙を流したときだって、わたしはムジカレの示してくれた光の中を歩きたいと必死にもがいてきたつもりです。だから今、わたしはここでこうしてラノベのレビューなんて書くことができる。そういう人間になれました。

 あなたは、わたしの人生に星や月や太陽を与えてくれた神様です。ただのワナビでした。いや、まだワナビか。ムジカレという、ライトノベルを好きになってしかたない作品のおかげで、わたしもこういう作品を書きたいと思った。まずは二次創作からやってみたいと思い、6年かけてムジカとレトリックを少しずつですがわかるようになってきました。ムジカとレトリックの大系的な理解と商業誌への掲載が、ムジカレ二次創作の許可条件ですから、わたしは小説家の卵として頑張ってきました。そして2018年には、ちっぽけな進歩ですが、その承諾条件のひとつである「商業誌への掲載」が叶った。ムジカレの二次創作が許可される立場、近いです。でも、商業誌への掲載が叶った頃にはもう、二次創作への興味はだいぶ薄れてきました。今は、あなたに少しでも近づきたい。小説家として、自分の書いた文章、綴った謡で誰かの歩く道を照らしたい、と思います。あなたが真夏の太陽だったら、わたしは満月の夜の六等星かもしれませんが、それでも少なくともあなたと同じ方向が向けるようになりたいです。

 ムジカ・レトリックという作品は、わたしの好きなものすべて。わたしの構成要素すべて。ムジカレの示す未来に向って、ムジカレの追唱の6人のように生きていきたいと戒めをもらいます。戒めだけじゃない。癒やしも喜びも。読んでいるだけで快楽さえ手に入ると思っています。

 辛い就活のときも、いつも「箱」を読んでけらけら笑っていました。実はわたしのイチオシは箱です。一般的なものではないかもしれないけれど。不条理な起承転結、理不尽な恋愛模様、不明瞭なレトリック。何度も何度も、これを舞台化したいと思っていました。今も思っていますよ。どうでしょう、わたしは演出兼くれないをやるという条件だったらOKしてくれませんか。ぽつねん先生をやまぶきにすれば、小説通りに舞台にすることもできると思うのですが。

 くれないは、紅和奏は紅和奏。わたしは、井守千尋は井守千尋です。だって、和奏にいつも勇気をもらっていたのだもの。自給自足だとした効率がいいのですが。残念ながらわたしはこれを自給自足だとおもったことはありません。見た目が近いといっても、くれないの高潔な清廉潔白さと頑なさ、その溢れ出るチャーミングさはひっくり返っても小指の先ほどもわたしにはないものです。あなたはわたしを高評価しすぎだと常々思っていました。なんでわたしなのか。ただの劣等生、ワナビ、ラノベにかまけているだけの成長のない人間なのに。涼宮ハルヒになりたくてエキセントリックを真似ていただけの中二病が可愛らしい少女だっただけなのに。それでもわたしに興味をもってくれたことは今思えば非常に運命的な瞬間だったのだなと思います。

 あなたと直接話した、触れた時間はさほど多くはない。でも、ムジカレという作品でわたしは何十時間、何百時間、千時間を越えているかもしれない。それだけの時繋がっていたように想います。他愛もない世間話にもならないくらいの、どうでもいい話を、あなたはいつも微笑みながら話してくれる。そんなあなたにお礼を言います。

 ありがとう。

 最後に、友人Hに。

 あなたとの、あなたを含む新潟高校弓道部との出逢いは、わたしの人生を大きく変えました。ライトノベルとの出逢いだって、あなた達との出逢いがあってはじめて成り立ったものです。今までだけじゃない、これからも。一生。よろしくね。

 と、ムジカレとわたしとの話を書き始めていくと、最終的には辺見ユウや、ムジカレの中枢を担っていた人たちへの感謝の意になってしまった。もう、この原稿に際してわたしは途中からレビューを行うことを放棄しているという自覚は少なからずある。レビューという行為が、自分の人生を出し切って、身を削って生み出した作品に大してずけずけとケチをつけるようにしか今のわたしには思えないのだ。今回のレビューに関してだけ言えば、10作品とも作者の関係者であり、レビューをするだけの距離感と立場を持っているからかろうじていいのかな、とは思うが、なんだかな、と思う。それは、そのライトノベルがすごい! という統計本に対する侮辱になってしまうかもしれないが、そして統計本という存在の必要性はなんとなくはわかるが、でももうわたしはレビューは書かない、いや、書けないんだと思う。そう、ムジカレとわたしという特殊な環境に身をおいてさえなお、本当に書いていいの? と悩んだのだから。

 それでもムジカ・レトリックシリーズをレビューするなら、たった一言で済む。


 面白い。


 誰がどうムジカレを読んだって、100人が100人、総売上部数である1000万人が1000万人、面白いというポイントを持っている。

 ムジカレという作品を称える音楽や修辞なんて、いらないのである。だから、このレビューを読んで、店頭に並ぶムジカレ全16巻、あるいはコミックス全30巻、もしくは5クールのTVシリーズ&劇場版を見てみようと思った人は、わくわくしながらそれを受け入れてみて欲しい。きっと面白い、という感想が出てくるだろうから。理屈なんていくらでもこねることができる。でも、一生心に残る、自分と一心同体の存在ともいえる作品への感想はその一言でいいのだ。




 ゼロ年代の作品はその名前のとおり、2000年から2009年にの10年間に出版されたものを指し示す。この頃を知る人も知らない人も、結構前だなと思うのではないだろうか。スマホがほとんど普及していない時代、といえば現代との隔絶があると感じられるだろうか。

 2000年からであれば20年、2009年からでも11年が経過した。2000年の高校3年生であればもう不惑の38歳だし、2009年の中学一年生であっても大学を卒業して社会人だ。ライトノベル大爆発のゼロ年代、そしてあらゆるジャンルが台頭してきた激動の十年代、星の数ほどラノベは発行された。表紙を見かけた作品、タイトルだけは聞いたことのある作品、あるいは存在を知らないままとうの昔に絶版となった作品がたくさんあるのは間違いない。

 わたしはゼロ年代、最後の3年しかラノベを知らない。それまではライトノベルをまるで知らずに生きてきたからだ。今思うと惜しいことをしたとも思うが、別のたくさんの本との出逢いがあったので、それはそれで掛け替えのない出逢いだと思う。だからこそ、最後の3年で出会ったラノベはほぼすべてしっかりと記憶しているのだ。

 そして、ゼロ年代をあまり知らないうちに移り変わった十年代のほとんどを青春から朱夏へと移り変わる20代として過ごしてきた。この間に読んだラノベ作品は少なくとも2000はあるだろう。大学生、社会人になるにつれて、見境なくなんでもラノベを読むようになったから。でもその半分程度が十年代に出版された作品だ。過去の作品だって山のように読んでいた。その半分程度として1000冊読んだ。とても素敵だったり、感情を揺さぶられた作品だってたくさんある。ラノベの内容だけじゃない。読んだ環境や、その本に関するエピソードがいくらでも出てくるのだ。青春がいつしか朱夏になる、長い10年間。つねに新しいラノベがわたしとともにあった。わたしに大きな転換期を与えてくれた「青春ブタ野郎シリーズ」だって、2014年に第一巻が発売された人気シリーズだ。

 ただ。わたしはもう危なっかしい十代としては十年代を過ごしていない。人生の最も多感な頃。あるいはもっとも行動力を抱えた時代。わたしにとっては、ゼロ年代がそれにあたる。しかも、ラノベと出会ってからの3年間。高校生の3年間だ。その3年間が今につながる鍵穴だ。

 ゼロ年代を全力で駆け抜けたわたしと、ゼロ年代から今そして未来へと飛翔するムジカ・レトリックシリーズ。ものがたりの登場人物とはもう年齢はかけ離れてしまったが、文庫本を手に取ればいつでもその場所あの時間に戻ることができるだろう。紙を綴った形の鍵として。

 わたしたち、ゼロ年代の作品をレビューする人間にとって、かけがいのない作品は、常にわたしたちと共にある。わたしたちだけではなく、そのラノを手にとっている10代だって、同じようにかけがいのない作品があるだろう。その作品がムジカ・レトリックシリーズ、あるいは新作であるムジカ・レトリックの守であることを願う。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る