第14話

「ちぃ、久しぶり! ようこそ富山へ」

「ありがとう! 友情に乾杯」

 わたしは遊穂を煽った。純米吟醸の日本酒が喉をかーっと熱くする。ここは友人のヤナ・柳川美優宅だ。新潟大学演劇研究部時代の数少ない友人にして、酒好き。クソ真面目が祟って劇研女性陣の中で浮いていた子である。まあ、わたしも存分に浮いていたのだけれど。

「突然だね」

「まあね」

 二時間ほど前に電話したというのに、卓上には白エビのかき揚げが乗っている。家庭的ということは知っていたが、ここまでのおかんっぷりとは思っていなかった。バブみさえ感じる。おいしい。薬味のネギ、冷凍だろうけどミョウガ。この辺まで気配りができるのであれば、店を開いてくれたらいいのに。居酒屋柳川、わたしは通うぞ。

「それで、ムジカレの関係?」

「ぶっっ!! ……ヤナ、あんたも知ってるの?」

「井守千尋を今知らない奴はいないでしょ。駅詰所で見てたよ。こいつら管内に向かう列車に乗ってくるんだろうな、って呆れて言葉も出なかった」

 ヤナの方を見ると、糸目を見せる笑顔でわたしを射殺そうとしていた。

「わたしの責任じゃないから!」

「ちぃがラノベ好きなのは知っていたけどさ。ムジカレのモデルだなんて、ねえ」

「……一回生の頃から言っていたのにね」

 しかし誰も信じてはくれなかった。それはそうだろう。例えば、自分の母校が何かしらのラノベ作品の聖地だ、だなんて思うまい。弊社の先輩が通っていた高校が色づく世界の明日からの聖地だった、という話を居酒屋で聞いたことがあったので、わたしの出身高校がエロゲでよく使われているらしい、というくらいの与太話だ。これが例えば弊社がなにかのアニメに登場していたら話題として面白いのだけれど。

「ヤナはムジカレ知っていたんだっけ?」

「ああ、アニメなら見ていたよ。原作は読んだことないけどね」

 ということは、こいつはものがたりを隠されたことは無いわけだ。わたしは、福井にきちんとした書店が無いために、わざわざ富山の書店を訪れた顛末を話す。

「なるほど。金沢にも無いんだ?」

「そうなんだよね。なんでかでかい本屋が無いんだよ北陸三県。わたしなんて今ほとんどの書籍を買うのがアマゾンなので困ってんだ」

「ふうん。うちに来るのは歓迎だけど、なにかやりたいことがあって来たの?」

「いや……、えっと、24時からウェブ会議をする」

「ウェブ会議? なんで? 休みの日じゃない」

 仕事じゃないから、とヤナのグラスに酒を注ぐ。ポケットWi-Fiは持ってきたし、当然iPadも持参だから、場所だけ使わせて欲しいとお願いをする。

「ああ、わかったわかったよ。わたしは部屋であつ森やっているからご自由に」

 家でやれよ、と言わないあたりいい奴だ。うちでやると、わたしに制服コスを希望されそうで嫌なんだよな……、今更だけど。

「恩に着ます」


 二人で四合瓶を1つ空にすると、ヤナは部屋に戻っていった。キッチンのテーブルを借りて、電源コードにつないだiPadを起動する。Zoomのトークルーム、「非実在ライトノベルをレビューする会」は今、登録人数が13に増えていた。

 [井守千尋][倉敷パイク][ベータ][ハルミ][しゅんぎく][ズコー伸之][堀][ロス子][田上海][杉山][辺見ナツ][フーちん][ぽつねん]

 彼らに向けて、わたしは長い話をしなくてはならない。運転中に頭の整理をしようとしたが、それがまるでまとまらなかった。わたしは今、怒りに震えているのだから。ミスリル経典テロについて、だ。

『こんばんはー! 辺見ユウの妹、辺見ナツです』

『ぽつねんです。はじめまして』

 早霧谷有紀子との交際関係について、ぽつねん先生は隠し通すつもりなのだろう。

「みなさん、遅くにお呼び立てしてもうしわけありません」

『別にいいですよ。いいですよね?』

 最年長、ハルミさんがにこにことしながら承諾を得る。

『誰もコロナは大丈夫ですか?』

 ロス子さんが心配そうに問うたが、どうやらここのコミュニティは無事なようでなによりだ。せめてもの安心だろうけれど。

『それでは、非実在ライトノベルをレビューする会、第二回全体ミーティングを開始します!』

 座組の中で、ベータさんが仕切ってくれるのがうれしい。聖者の行進前夜に行ったミーティングは、全体では無くわたしとベータさんで分担して行ったため、こうやって画面に12の窓が並ぶ様子は久しぶりの感じがする。

『井守さん、あいさつどうぞ』

 え、わたし? そうか、わたしか。

「こんばんは、みなさん。まずは、聖者の行進おつかれさまでし」

『おつかれさま!』『井守さんおつかれ!』『みんなおつかれ!』『本当ぅーに、おつかれさま!』『ぽつねん先生も!』『いや、我々全員でしょ!』『ナツさんもおつかれさま』『パイクさん当日はいろいろとありがとうございました』『僕からも感謝の言葉があります、みなさんありがとう』『千尋ちゃん、おつかれさま』『千尋ちゃん?』『ぽつねん先生?』『あー、いや、他意はないです』

 聖者の行進で並んで進んだ10人は、当日のうちに仲良くなっていたらしい。わたしはそんな余裕がなかったので、直接ではまだはじめましてもしていない人が大半だ。

「それで、ですね。ムジカレが復刊しました。読みました、全部。いや、復刊した本を買ってきたわけでなく、送り主不明の初版セットが送られてきたんですけどね」

 わたしが読んだムジカレの経緯についてはたいしたこと無いので端折った。しかし、ムジカレを1巻から読み進めるにつれて、初めて読んだ時の記憶も同時に蘇ってきた話をする。

「つまり、みなさんもムジカレを16まで再読すれば、作品に関する記憶が蘇るんですよ」

『マジですか……』

 聞けば、わたしの想定どおり、発売直前に15巻の夢と、16巻の織を読むつもりだったと言う。

「レビュー原稿締め切りが伸びましたから、なんとかムジカレを読んで」

『レビュー原稿? ならもう出しましたけど……、っていうか10月5日が締め切りだったでしょ?』

『まあ、ムジカレは特別なのかもしれませんね』

 どうやら、他の9名は、再度それぞれの作品を再読してレビューをでっちあげたらしい。さぞ、自分に似た境遇の登場人物が出てきてあたふたしたのだろうな。

『井守さんの締め切りは?』

「まだ連絡していないので微妙ですが、すぐに書くことはできると思います」

『すぐに書いたほうがいいですよ。20000文字以内って結構すぐに埋まっちゃって添削が必要ですから』

「そのつもりです。わたし、あともう1週間会社に来るなって言われていますから」

 16冊で20000文字なら1冊あたり1250文字しか感想を書くことができない。いや、感想でなくレビューだけれど、同じ文字数でも登場人物だったら紹介しきれないだろう。しかも、ただ淡々と書けばいいというものではない。聖者の行進を越えた、わたしの本音が欲しい筈だ。わたしが雁ヶ音いろはだったら、そういう原稿を所望するだろう。

『それで、今回集まった理由は、ムジカレのからくりについての話ですか?』

「いえ、もう皆さんわたし以外レビューを書いたわけなので、非実在ライトノベルをレビューする会っていうけったいなルーム名もおしまいかもしれませんね。それはどうでもいいですが、えぇっと、そう。辺見ユウについて。断筆宣言です。どう思いますか。意見を伺いたいです。特にベータさん、藤原さん、ぽつねん先生に」

 現役編集者2名、そして担当絵師は黙ってしまう。田上さんがなにかを言おうとして、思いとどまったようだった。

「田上さん、どうしました?」

『いやあ、ですね。辺見ユウは聖者の行進を見たのかなって』

「藤澤さん、なにか知りませんか?」

『いかんせん既読無視ばかりです。あいつ、とっちめて原稿を絞りとってやる』

『ですねぇ……協力しましょうか。書かない作家に原稿を書かせるのはなれていますから』

 ベータさんとはなにか心がつながるところがあるらしい。

「でも、雪鷺は見たってツイートしています」

『雪鷺?』

「辺見ユウの裏垢……と思われるものです」

『うっそ、お姉ちゃん来ていたの?』

「来ていたっていうか見ていたようだよ」

『あいつ、今どこでなにをやってるんだ! ぽつねん先生』

『知りませんよ。なんで僕が知っているんですか』

 はたしてぽつねん先生の言葉が本当かどうか、わたしにはわからなかった。

「断筆宣言は、どのように伝えられたのですか?」

『封書が届きました。直筆で間違いないと思います』

 消印は、神楽坂だという。しかし、辺見ユウ自身が都内にいるとは思えない、と藤澤さんは言った。

「ムジカレの新刊はどうなるのですか?」

『もう印刷所は可動しています。しかし、やはり編集部では辺見先生を放っておいてまで出すわけにはいかないでしょうね……』

『フーちんさん』

 杉山さんが尋ねる。『ムジカレの新刊って、どんな内容なんです? 断筆宣言をするような内容なんじゃ……』

 ムジカレ本編では、たくさん人が死ぬ。その総数、16000人以上。ファンタジーなのだから、それは別に構わないが、結構残酷なシーンだってもある。もし、そのシーンをミスリル経典テロ以前に書いていて、思うところがあったから取り下げたい、という意思があったとしたら誰が責められるだろうか。

『ミスリル経典テロとの関連性はないと思いますよ。新刊、今まで単行本未収録の短編を7作、書き下ろしの短編中篇それぞれ1本ずつのものですから』

『なんだよ短編集か』『6年半ぶりなのに!』『第2シリーズじゃなかったのですか!?』

 会議は踊る。わたしもそれはどういうことだ、と問い詰めたくなるのをぐっ、とこらえて、別の質問をした。

「内容、教えて下さい」

 それはまだ公表されていないものだ。ムジカレ第二シリーズとしか公表されていないからである。

『ムジカ・レトリックの守、中篇のサブタイトルがこれにあたります。悠と和奏のその後の話です』

 藤澤さんは淡々と告げた。そうか、それは楽しみだ……、という気持が30%くらい湧き上がる。あの完全無欠唯一無二の最終巻のあと、どれだけファンが、どれだけわたしが夢想しただろうか、書かれないからこそ完璧だったものを書くだなんて、読みたい! でも、読みたくない、というか最大公約数的なところまでわたしもムジカレを大切に思っていたのだ。

「それを、わたしたちに教えてもらってもよかったんですか?」

『まあ、生放送で公表する予定でしたし、みなさんはもう関係者の側ですよ』


 このウェブ会議は、わたし以外のレビューメンバーが、早速ムジカレを読んで取り戻すということで、一時間ちょうどでお開きになった。

「終わった?」

 Nintendo Switchを持って、リビングにヤナが戻ってくる。長いポニテが凛々しいが、そいつがぷらぷらしているもんだから気になって仕方がない。

「うん。みんなムジカレ読むからって」

「ん? ……そうそう、ムジカレムジカレ言うからさ、これ見ようよ」

 ヤナが手にしていたのは、ブルーレイディスクのパッケージだった。「ムジカ・レトリック-睡蓮の夜想曲-」。2014年に公開された劇場版で、原作の夜と睡をアニメ化したものになる。3クールにわたるアニメ「ムジカ・レトリックの園」最終話、「紫雲のみ旗」のCパート直後に流れた劇場版予告は、アクションたっぷり、PG12指定のどシリアスな夜、睡の映像だった。唯一の上下巻となる2冊は、映画にすればちょうどよい長さになるかもな、と思っていたわたしたちムジカレファンはまだ甘かった。この映画、3時間40分もある。途中休憩、無し。ブルーレイ初回限定盤は14800円もする。回転率が悪いために興行収入は8.1億円と振るわなかったが、まあ円盤が売れること売れること。わたしは映画館で7回見たが、うち4回は4DXだ。ガルパンと同じくらい4DX向け映画なので、映画館での売れ行きは長く細く続いたのである。

「いいね。つっても長いよ?」

「途中で寝てもいいからさ」

「寝れるもんなら寝てみろって」

 60インチのBRAVIAに、縦型のスピーカー。5.1chサラウンドではないが、非常に音響に優れた環境だ。テレビが4K対応だというのに、再生機器がPS3なのは少し残念だけれども、わたしは何度見てもこの瞬間がわくわくする。惑星の極地、長い夜が続く場所。ここに眠る太古のレトリックが、海流に乗って動き出す。園で園長が言った、ムジカ・レトリックは大きな因果として帰ってくるということばをはじめて実感させられるのが夜の冒頭だ。

 聖者の行進の果にたどり着いた、純旋律の国。和奏はお祭りには馴染めず、一人星空の下に打ち捨てられたピアノで夜想曲を奏でるところからものがたりははじまる。TVシリーズよりも更に気合の入った作画。一気に引き込まれていく。

「ここで、くれないはねっ、て寝てる!?」

 開始二時間弱。隣でがばがばと日本酒を飲み続けていたヤナがついに寝息をたてて俯いた。ムジカレを見ながら寝るやつがあるか! と怒鳴りつけたかったが、わたしの視線はテレビから離すことができない。太古のレトリックが包含された、アイシクル・メテオ。目覚めゆく、遠い旋律。ここで原作の夜は終わり、睡まで4ヶ月待たされる歯がゆさを覚えるのだった。なぜか、悠が氷雨を研いでいるシーン(睡の冒頭)に差し掛かったとたん、目頭が熱くなる。いままでの2時間、すべてのシーンを覚えているから。この一週間かけてムジカレを読み返した時の記憶ではない。もっと以前の、わたしの生き方を徹底的に変えてしまった小説「ムジカ・レトリック」シリーズとともに生きたこの10年間のさまざまな景色が映像と同時にじわじわと漏れ出してきて、我慢できなかったのだろう。ぬぐってもぬぐっても、10分以上涙が止まらない。どうして、どうして。わたしは、こんななんてことのない日常パートで……。

「そう……だね。……嬉しいんだよ。……やっと読めた、観れた」

 睡の一冊あたりに登場するレトリックは5000文字以上。これは、辺見ユウと有無が共同で考えたシリーズ屈指の力作だ。というか、ボキャブラリーがありすぎる。適当に辞書を引いて並べた言葉すべてが魔法に関する言葉だった、というくらいのボリュームで、ほかのムジカはたいてい読み上げられるが、ここの最長のムジカは覚えられなかった。これを、和奏はブレス無しで読み上げる。三分以上、細長い息を出し続けなければならないシーンは、とてもアフレコが大変だったそうだ。絶対に音声編集は許さないプロたちによる、命を削った録音だという。できない、と嫌がる三笠晴子に対し、当時の担当編集だった上波アゲハがやってみせて酸欠でぶっ倒れた秘話さえある。

「上波さん……、っッ、有無さんッ!」

 辺見ユウも、ぽつねんも、創作者の2人はわたしと面識がある。しかし、上波アゲハと有無は無い。だが、誰が欠けたところでムジカレのチームは瓦解する。そのうち半分が、殺されてもうこの世にはいない。上波アゲハと有無が互いに最高のシーンだと挙げたシーンが、今目の前で流されていた。

「ああっ!! あああああああっっ!!」

 レトリックが重ねられている。その厚みを持たない言葉の奔流にわたしの感情はかき乱されていく。ムジカ・レトリック-睡蓮の夜想曲-、ムジカ・レトリックの守、聖者の行進、ミスリル経典テロ事件、ムジカレ第2シリーズ、2020年12月発売。掘り起こされた記憶は、ちょっと突けばもっと過去にまで容易に遡る。ムジカレというものがたりが隠した物語の記憶を取り戻したわたしは、2016年のある日、辺見ユウと二人きりでドライブに行った日のことをまるまる思い出してしまったのだ。


 国道7号線は、新潟市の笹口から新発田に至るまでバイパス道路であり、速度制限が時速70キロという高規格。でも新潟市内にはそれを上回る制限速度80キロという対面通行の高速道路より高速な道路があって、これをバイパスの標準と思っていたわたしは数年後唖然とすることになった。それはいいとして。

 真っ赤なツードアのミニ・クーパーが時速100kmで雪の新新バイパスを掛けていく。わたしははじめてのったクーパーの助手席できゃあきゃあ言っていた。いや、興奮じゃない。恐怖だ。

「有紀子さん!」

「はいよー。どうしたの? トイレ?」

「スピード! スピード!!」

 ああ、と言って辺見ユウは95kmにスピードを下げた。その気はないんだな、とわたしはあきらめることにする。

「でもさあ驚いたよ」

「驚いた、ですか?」

「そうそう。ちぃちゃんがコミケに参加するなんて」

「合同誌に寄稿しただけですけどね」

「それでも! 数年前は、二次創作なんて、って言っていなかった?」

「気が変わったんです」

 小説はオリジナルがかけてナンボ。二次創作の人は二次創作しかできず、それではプロの小説家にはなれないだろう! というクソみたいなプライドがあったのか、わたしは3年ほど小説の執筆とは無縁の生活をしていた。オリジナルを書かない理由とは結びつかないが、オリジナルだろうと二次だろうと、書かない言い訳をしていたのだ。しかし、倉敷パイク氏に誘われ、野﨑まど合同誌に寄稿したら、それはもう楽しくて仕方がなかった。わたしの継続的な執筆活動のきっかけは、この冬の出来事である。

「どう? 楽しいでしょう?」

 ふふん、と辺見ユウは笑ってみせた。いや、前見ろ前見ろってプリウスがぐんぐん近づいている! きゅっ、とスキール音が鳴るよ、すべるように、というか氷で4つあるタイヤの3つがスリップして隣の車線に移動し危なげもなく追い越したのだが、漏らすかと思った。

「はい、とっても。また書きたいって思いました」

「それはよかった」

「二次創作をやってみたら、オリジナルも書くぞ! って」

「そういう気になるよね。でも、春からちぃちゃん社会人でしょ?」

「そうなんです。無事に卒業できれば、ですが」

 修論も追い込みの時期。それから逃避するためといっても過言ではないが、冬コミの原稿はその後書き上げた修論よりも丁寧に面白おかしくかけた気がするのだ。社会人になると暇でなくなるからいやだけど、今の研究室を早く抜け出したい気持ちのほうが勝るので、へんにはにかんだ答えになってしまう。

「社会人になったら、小説を書かなくなるのかな?」

「時間が減るのはそうだろうけど、でも気力があれば書けるよ。ファイト」

「気力、ですか」

「そそ。それに、商業誌デビューできれば、ムジカレ二次創作の権利が与えられるんだからがんばって」

 時速50kmくらいでふらふら走る車の間をその倍のスピードで縫っていく。わたしたちが今やっているのは絶叫マシーンかなんかだっけ?

「違うでしょ! アンコウの買付にいくんだから」

 早霧谷家の暮、これはもうわたしの年中行事といってもいい。岩船の鮮魚センターで美味しい魚を買って、早霧谷家に泊めてもらい、贅の限りを尽くした宴を催してもらう。この2016年が初めてでアンコウ。翌2017年は塩引き鮭(新巻鮭のようなもの。塩水で洗った鮭を新潟の冬の寒風に晒した保存食)。2018年はマグロの頭解体ショーで、2019年はクエ鍋だ。2020年は満を持して越前蟹が登場するという話だったが、相場を聞いて今から気が重い。でも、早霧谷の家に行くのは本当に楽しみなので、無理をしてでもカニをかついでいきたいのである。という目的自体はどうでもいい。辺見ユウと二人きりのドライブ。ラノベ読み、しかもムジカレのファンが聞いたらそれはご褒美だと言われる奴だ。だいたい辺見ユウと会う時はヒビナも必ず一緒にいることがほとんどだったので、わたしの記憶の限りでは、高校生以来初めて二人で出かけるのではないだろうか。ヒビナ自身は、今日の夕方に新潟に到着すると言っている。

「ちぃちゃん、地味にレトリックを網羅して理解しているじゃない。だから」

「まだロシア語がぜんぜんですよ」

「いいの。上波さんの出した条件が厳しすぎて、私自分の作品の同人誌をいまだに一冊も読んだことないんだからっ!」

 赤いクーパーは辺見ユウのテンションに連動して加速かフル加速をする。基本的にブレーキをかけることをこの人は知らないのである。ムジカレの二次創作のハードルは非常に高く、これを目指そうとするアマチュア二次創作家がたくさんいた。しかし、ただの同人ゴロがクリアできるわけもなく、音楽理論と、有無の組み上げたレトリックの大系を理解した挙げ句、商業誌デビューという二次創作よりも先に一次創作が必要なんて2016年12月時点で、誰一人クリアできていない。

 わたしは恥ずかしながら、その資格を得ようとガイドラインが制定された2011年からあれこれまとめ上げていた。ムジカレシリーズにおける「ムジカ」の部分は、一般的な音大生にとってはさほど難しい内容ではない。音大受験生にはかなり高度な内容かもしれないが、和声をしっかりと勉強し、音楽理論を10年くらい学んでいればたとえ絶対音感を持たないような遅咲きの人間でもクリアできる。

 まあ、高度な音楽教育を収めた人間なら、だけど。わたしは4歳から25年にわたり主にピアノを習っているが、音楽の専門教育を受けたことは無い。高校は理数科、大学は建築課。ずっと練習はやっているからベートーヴェンやショパンの有名な曲を弾くことはできるが、それだけだ。理論についてはコード進行さえあやしい偏り方なのである。しかし、ムジカレの「ムジカ」部分を理解するにはそれではいけない、と先生に頼んで音大受験用楽典を23歳から勉強し始めたのだ。研究室の研究などほっぽらかして教育学部のピアノ練習室に籠もり、バッハの平均律という「基礎旋律」と、カノンコードというムジカレの中でもばっちり出てくる内容を学んだ。大学四年生から就職活動の直前までかかってその大半を理解できるようになったのである。

 そして「レトリック」だ。わたしは辺見ユウの紡ぐレトリックの瀟洒感にあこがれていた。別に二次創作をしたいと本気で思っていたわけではない。漠然と作家になりたいという気持ちがあっただけである。でも、「ムジカ」と「レトリック」を知ることがムジカレへの理解を深めるのに最も大切なことだとノートを作っていたわたしはレトリックを理解しようと本気で取り組んでいたのは間違いない。

 今までしっかりとレトリックについて説明していなかったが、要するに言葉の連結による呪文のようなものである。レトリックとしか呼ばれないからレトリックなのだけれど、きっと辺見ユウと有無、上波アゲハしか理解していない厄介な難物だ。様々な言語に対して帰国子女程度には精通していなければ到底韻律を自分から作り上げることはできないだろう。20ヶ国語くらい公用語を知らなければいけない他、難物なのがルーンや古代ギリシヤといった非公用語である。わかるか! と日本中のムジカレファンが投げ出したのだが、どうしても知りたかったわたしは数年をかけて、その大系の中心にあるのは結局日本語だというところまではわかるようになった。それだけで、なんとなくレトリックの繋がりがわかる気がしてくる。気がするだけで、本当に理解しているかはわからないが。

「あまり期待しないでください」

「商業誌デビューについて?」 

「いや、ムジカとレトリックの理解についてですよ」

「えー、でも私自分の作品の同人誌読んでみたいんだよね。ファンがいれば、誰かが書いてくれる、と思っていたんだけど」

 雪道を恐れずにかっとばす有紀子さん。ヒビナから聞いていたが、有紀子さんは他の作家がコミケに出かけて、名乗らないまま自分の書いた作品の同人誌を手にした感動について聞いて羨ましく思っているらしい。それをわたしが書くとでも。

 ムジカレを出している芙育出版社は、どうしても教育書を出している関係から、同人誌に対して強く出る必要があったのである。それが、原作者である辺見ユウに苦い想いをさせているのはいかがなものかとは思うけれど。

「同人誌なんてなくても、ムジカレは愛されているでしょ」

「……そうかな。ちぃちゃんが言っても説得力ないよ」

「ど、どうしてですか!」

「いや、あなたは関係者みたいなものだから、私を身内贔屓している可能性あるじゃない。ちぃちゃんはそういう子じゃないとはわかっているけど」

 よく人を見ているものだ。辺見ユウが有紀子さんだとわかったのは、旗が発売された頃。わたしは身内贔屓読むまいと意識して、普段1時間で読める3時間以上かけて読んだ。自分は鳴かず飛ばず(というより、自分ではまるで書いていない時期だった)だったから、高学歴で飄々としている早霧谷有紀子、いや、辺見ユウが自分より優れていることを認めたくなかったということもあったのだろう。しかし、認めざるを得なかったのだ。なにせ、わたしのために書かれたとさえ思った作品なのである。面白いに決まっていた。そしてそれはあながち間違いではなく、辺見ユウがわたしという人間をモデルにしてムジカレのくれないをデザインしたのだから親近感を覚えるのも当然だ。

「もう最終巻が出てから2年。ムジカレは忘れていくんだよ」

 前を走るセレナが法定速度を守っているので、しばしアクセルを緩める有紀子さんは、独り言のようなことをつぶやく。

「続きは書かないんですか。あるいは新シリーズとか」

「続き、ちぃちゃんは読みたい? それに、新シリーズだったら何度も書こうとしたけど、2年くらいじゃ全然思い浮かばないんだ。自分の人生におけるすべてをムジカレにつぎ込んだ。一応、贅沢をしなければ二度と執筆をしなくとも生きていけるだけの貯金もあるし」

 完全無欠の最終巻。ムジカレによって拓かれた大きな大きな宇宙はもう閉じられていて、なにか続きを入れるのは余計な色を加えるということ。そもそも16冊の物語として構想されていたのだから、これ以上何もやることはない。新シリーズは読んでみたいけれど、どうしてもムジカレと比べてしまうし、ムジカレ以上のものが出てくるとは思わなかった。マグダラで眠れやWOLRD END ECHONOMICAを出しても結局狼と香辛料の続きを出すようになった支倉凍砂のように、この人はムジカレに縛り付けられているような気もする。もっと、読者たちはムジカレに縛り付けられているだろうけれど。辺見ユウの新作ともなれば、ムジカレ以上の読書体験が待っていると期待を膨らますのだから。

「何年かして、ムジカレの新刊が出ることになったら、それは私が枯れた時なんだと思う。妥協の産物だね」

「そういうものなんですか?」

「うん。まあね、本当に面白いって思えるものが思いついたら書くかもしれないけど、ね。最悪なのが、誰か別の人が書き継ぐことだけど、そうなったらちぃちゃん私を叱ってね」

「わかりました」

この時、有紀子さんは何を言いたかったのか。未だにわからない。


 チャプター選択メニューのBGMが延々と鳴り続ける。4年前の出来事を思い返しているうちにわたしも眠ってしまったのだろう。映画の再生は終わり、スマホを見ると3時半だった。いつの間にかヤナは自室に戻ったのか、体育座りでうずくまるわたしの肩には脱いでいたカーディガンがかけられている。

「……断筆宣言、何があったの」

 コップに水を注いて、二杯一気に飲みほした。そして、真夜中真っ盛りなことを想いながらも、わたしはそのまま就寝につくことなく、藤澤さんに電話をする。

『はい……、井守さん今何時だと思っているんですか』

「どうして辺見ユウが断筆宣言したか、本当に知らないのですか!」

『だから知らないって』

「ムジカ・レトリックの守の原稿は、できているんですよね。読ませてください」

『はぁ? それはダメ。出すかどうかもわからない作品の原稿を』

「出すんだろ! 出版社!」

『……あのねぇ。いいですか? 僕たち出版社は出したくても、辺見先生が出したくない、といったら勝手には出せないんですよ。違約金が発生するかもしれないけれど、それを請求はできない。僕たちの飯の種でもあるんですから』

「思い出したんですよ。辺見ユウは、続編に対して並々ならぬ恐れを抱いている。だのに、ただの短編集でお茶を濁したっておかしいとは想いませんか?」

 わたしに叱ってくれ、と2016年の辺見ユウは言ったのだ。そうそう簡単に心変わりをしたとも思えない。だいたい、どうして今のタイミングに短編集なんて出すのだ。16冊、というきれいな数字に1冊をくわえた17冊はなにかにちなんだ数字というわけでもない。織発売時に有償特典としてついてきた収納ボックスケースだってあるし、どう考えても17巻は違和感のある存在なのだ。

「もしかして、藤澤さん。書かせたんですか?」

『……書かせただなんてひどい言い方じゃないか。僕が電撃から移籍した時、上波さんに言われたんですよ。ムジカレがあってもFE文庫はもう死に体。KADOKAWAに移籍するにあたって、話題が必要だと。だから、未収録短編を集めた作品を出しましょう。悪いけど、藤澤やれ、って』

「それで、書かせたんですか?」

『そうです。先生は一ヶ月くらい渋ったけれどOKしましたよ。FE文庫には世話になったから、って。……悲しそうな声で』

 間違いない。辺見ユウはひどく悲しみの中にあるのだ。4年前、いやムジカレのアニメ完結の5年前からか。新作は出ない、インタビューやレビューも無い。完全に過去の人になった辺見ユウは、もうムジカレに縛られてしまって動けなかったのだ。

「もう、出版社の人は! ……わかりました、夜中にありがとうございました!」


 時計は4時を指していた。しかしやっぱり時間など気にせずわたしはもう一回電話をする。

『はい、雁ヶ音です。あら、井守さん』

「夜分に失礼します。レビューについてですが」

『以前連絡したとおり。今回のそのラノは、12月25日に出版日を動かしました。なので、11月5日までにレビューをお願いします。でも、ムジカレは……、書けなさそうだったら、それはそれで構いません。業界的にムジカレに言及するのはとても危険という考えもあります』

「いえ、書かせていただきます。聖者の行進についても、書いていいですか? なんなら写真を使ってもらってもいいです。それで、そのラノの権威が地に堕ちるかもしれませんが」

『そのラノに権威もなにもないですよ。聖者の行進については、社会に与えた影響がまだまだわからないので、保留ですが、井守さんのグラビアとかでも』

「それはお断りします」

『水着じゃないですよグラビアというのは』

 そんなこと知っている。印刷の方式の名前だ。ガリ版とか青焼きとかと何ら意味は変わらないが写真を印刷するのに優れた方式だから、女優やアイドルの水着写真に多様される言葉となっている。単純に巻頭写真カラーなだけで、聖者の行進時と同じ姿をしたわたしの写真を載せようという魂胆だろうが、ダメ。辺見ユウとの対談とかでない限りダメ。ああ、ぽつねん先生のやまぶきも追加でいこう。でも、やっぱりダメ。作家じゃないんだから。

「今週中には提出できると想います。もう半分くらいできていますから」

『よかったです……、って、半分ですか!? 本来の締め切りは10月5日だったじゃないですか!』

 知ったことか。9月のあいだ、わたしはムジカレの記憶を失っていたのだから。聖者の行進や、その準備で全然会社の仕事をはじめ読書も原稿もできていない。その間にそれでも再読をして締め切りを守ったパイクさんたちは立派だな、と思った。誰か別のムジカレファンによって書かれたものを引用したい気分だが、そうもいかない。わたしは、くれないのモデルとしてムジカレに書かれたというただそれだけの理由でレビュアーとして選ばれた。この任は他の人にはさせたくないな、と思いながら、わたしは眠りに落ちていった。


 翌日曜日、10月11日。5時間ほど眠ったわたしはヤナにお礼を言うと、大急ぎで福井の自宅に向ったのだった。いつの間に雨が降ったのか、アスファルトが濡れている。が、クーパーの駐車スペースは濡れていなかった。わたしが出かける前に降った? 誰かが一時的に車を置いている間に降った? それよりも。

「……小包?」

 ドアの前には、大きなダンボールが置かれていた。宅急便とも違い伝票の類は無し。いつの間に置かれたのだろう。ガムテープで密閉されており、雨に中身が濡れている感じはしなかった。

「もしかして」

 持ち上げようとすると、やたらに重たい。間違いない。中身は書籍。そしてこの箱は差出人不明のムジカレ本編とおなじ質感だ。差出人は無い。どうにかリビングにひっぱりあげると、ガムテープを慌てて剥ぐ。緩衝材が中に山のように入っていて、その奥にはきれいに並べられた書籍が見える。

「ムジカレだ……、コミック版、画集に……、公式本? あとは円盤。サントラに、イベントDVD? CD全集もあるな」

 謎の贈り物第二弾、というところだろうか。「鍵」を除いてコミカライズされた15冊の作品群。こちらも小説版と同じくすべて最後まで出る前提で作られたため、背表紙が並ぶと美しいグラデーションを見ることができる。すべて上下巻で構成されているから、30冊とかなりの量になるが、これをまとめて持っている喜びはオタクの誰もがわかってくれるだろう。

 そしてブルーレイボックスだ。去年、ムジカレ10周年に出た完全版ボックス。16枚組の4K対応、ライブイベントである「ムジカ・レトリックの祥」、管弦楽コンサートである「ムジカ・レトリックの調」に劇場版「ムジカ・レトリック-睡蓮の夜想曲-」舞台挨拶からスポットCMにいたるまで、そりゃもうこれひとつでムジカレのアニメを網羅できる。定価がなんと59800円という破格であり、しかもこれ、早霧谷からの誕生日プレゼントにもらったのである。というのを夏に早霧谷に貸してわたしがあの暴漢に投げつけて失ってしまったのだけれど、もとは有紀子さんがわたしの贈ってくれたものだ。アニメ1期はそれだけでブルーレイボックスに46800円(ボックス1、2、3それぞれ15600円)するし、前述のとおり睡蓮の夜想曲は14800円もする。そしてアニメ2期はボックス1、2それぞれ18800円で計37600円。本編のアニメ網羅だけで定価だと99200円もする。祥と調は、それぞれブルーレイが6000円くらいだから10万円以上の映像作品がたったの6万円で、デジパック仕様中の箱は全部ぽつねん先生の描き下ろしイラストブックレットは豪華200ページ超とファンはどうやっても買わないわけにいかないものだ。事実、二次生産がかかったということも会った上、それも売り切れでアマゾンでは10万円のプレミアがついている。それでは別々のバラ売りを買えばいいともいうだろうが、その別々のバラ売りを全部そろえると今は20万円くらいはするだろう。アニメ版のムジカレはとても人気なのだ。まあ今は、PrimevideoやNetflixで無料配信されているので、誰でも見ることができるのだけど……。

 ただし、ミスリル経典テロ事件以降は配信が停止されているため、なかなか見るのも大変だ。

 音楽CD全集はこれも20枚組、うち5枚はクラシック楽曲だが、アニメのために新規に作曲された楽曲が15枚にも及んだのである。アニメ放映時のサントラは、野々村あかりのシングル「ヒミツ☆ハナゾノ」よりも売れたという深夜アニメのサントラで歴代一位の売上を誇っているのだ。劇場版はミュージカル女優の岩本ユナが「眠りのセレナーデ」というイメージ・アルバムを出し、これがムジカレサントレよりも売れたのだけれど、音楽CD全集「ムジカ・レトリックの譜」がそれを上回ったのだった。初回限定版ブックレットは二冊組で、すべてのCDにぽつねん先生が描いたジャケットのミニ画集となっている。ストリーミング配信もされているのだが、このミニ画集がほしい人があまりに多いので、2018年に再販されたのは記憶に新しいところだ。18000円という原作を高校生の頃に読んでいた社会人の財布にはまだ手に届く価格であることと、発売になったのが12月初頭だったこともありオタクのクリスマスプレゼントで売れに売れたのだという。わたしのiPhoneには当然このアルバムが入っていた。そのCDも、早霧谷に貸していたらしい。

 そしてぽつねん先生画集「ムジカ・レトリックの描」。言わずもがなである。「織」発売と同時に発行され、ムジカレの書き下ろし短編、アニメスタッフによる集合イラストも掲載された、ファン必携の画集。多くのファンに持っていてほしいという願いなのか、A4変形版、400ページ近い厚みを持つのに価格が4180円に押さえられたのである。といっても、ここに掲載漏れをしたイラストがコミケのぽつねん先生のサークル「Ka-Ja-la」で出されている同人誌「ムジカ・レトリックの漏(2000円)」がプレミアで10倍以上の値段がついている。まあわたしは全部持っているんだけどね。弊サークルがコミケに出る度にサークル参加の特権を活かして毎回並んだだけあったぜ。「漏」は6まで出たんだけれど、早霧谷が1から3はわたしに分けてくれたので、これは同人誌を入れている箱に残っていたのだが。

 ということで、ムジカレに関する書籍の抜けがこれで埋められた。

「願ったりかなったりよ」

 まずはシャワーを浴びる。念入りに汚れを落として、スキンケアをやると、執筆スタイルに着替えた。久しぶりだ。最近は全然書けていなかったこともあるし、なんか着たものといえばJK制服ばっかりだった。わたしは結局くれないではない。テーブルの上に置かれた30冊ほどのラノベを全部本棚に追いやると、30冊のムジカレのコミックス、原作本をそこに積んで2つの塔が出来上がる。アンプの電源をオンにして、iPhoneからは無線アンプにムジカレのサントラを飛ばし、フルレンジスピーカーからはサックスの音がやかましいアニメ版ムジカレサントラ一曲め「MUSICA Polonaise」が鳴り始めた。パソコンに、文章を書く時に使うキーボードを接続し、ワードの文章を全画面表示。より文章を書き込むスピードが上がる縦書き表示とした。準備は完璧だ。レースのクルーソックスをわざわざはいて、ポニテ×丸メガネ×1分袖のオレンジのワンピースというスタイルが出来上がる。コミケでわたしのサークル「サルクス・プロドロモス」に来ていただいたことのある人は、この姿でパイプ椅子に座るわたしの姿を見ることもあるだろう。隣には元気いっぱいで青ブタの麻衣さんコスのφが座っていることがほとんどであり目立つこともないが、これがわたしの一張羅だ。このワンピースは、「青春小説コンテスト」の鴨志田一賞をもらった記念で買ったものであり、作家としてしか着ないと自戒をこめたこもである。福井に来て初めて、つまり2020年度になってからはじめて袖を通した。袖が短いと腕が自由に使えるので、キーボードをガタガタやるには最適である。

「上限は20000文字、いこう」

 小説じゃない、レビューだ。

 聖者の行進をきっかけにムジカレを知った人たちへ。

 アニメ版ムジカレを見ていたファンの人たちへ。

 原作版ムジカレを途中まで読んでいて、離れていた人たちへ。

 どこかのタイミングでムジカレを読むことにした人たちへ。

 ラノベが大好きで、ムジカレも当然読んでいる人たちへ。

 そして、ムジカレに取り憑かれ、未だにそのレトリックを並べ続ける人たちへ。

 悲しい事件があった。多くの人が紫雲の旗に集った事件があった。神と同位存在である辺見ユウが断筆宣言さえした。アニメになった。映画になった。映像化不可能コミックス化不可能という巻があった。オリジナル作品をヒットさせた15人の漫画家によるコミカライズがあった。新人デビューながら、他の作家の新作を全部喰ってしまうほど迫力と魅力のある原作本があった。

 涼宮ハルヒの憂鬱と出逢い、ラノベと出逢い、それが好きな人たちと出逢い、全力で青春を駆け抜けた一人の少女をモデルに、悩み惑い悲しみ焦り怒り憎み嫉み泣き哭び、ひとかけらの勇気を持って世界と闘った少女がいた。

 自分の方向性がわからず、ただイラストを描き続け、一人の新入生と出逢い、遅咲きの青春を送り、二人でコミケに出て創作論をぶつけ合い、いつか世界中に見つけてほしいという思いを語った作家に絆されて、彼女をひたすら理解しようとしたイラストレーターをモデルに、ただ一途に大切な人たちを守ろうと諸刃の力を手に世界となった少年がいた。

 ゼロ年代というライトノベルの転換期、最盛期。十年代に爆発する前夜、ギリギリまで膨張してさまざまなコンテンツを飲み込みつつ成長したあの頃。イリヤの夏、UFOの空、CENTRAL-アブソリュート・ゼロ-、終わりのクロニクル、キーリ、涼宮ハルヒの憂鬱、人類は衰退しました、文学少女シリーズ、生徒会の一存、アクセルワールド。それぞれ一時代を築き上げた作品に負けず劣らず記録と記憶と幸せと散財と話題を提供してくれた作品。ムジカ・レトリックの園。一巻からは11年半が経った。最終巻からでも6年半が過ぎた。アニメが終わって5年、年間2000冊とも言われる日本のライトノベル新刊発行数に埋もれることなく、純金のように失われない金剛石の輝き、それがゼロ年代の、伝説的なライトノベル。普遍的な永遠のものがたり。10年代は当然、20年代では教科書に乗ったっていい。なんの教科書かは知らない。国語? 日本史? 音楽? 外国語? それとも道徳? 30年代、40年代はもうベストセラーを越えて古典のような扱いを受けるかもしれない。それでいい。ムジカレは、古くならないものがたりだ。1986年生まれの辺見ユウが、書き続けることができるなら、その意志と情熱がまだあるのであれば、わたしは40代になっても、50代になっても、80でも100でも、一行文字を理解するごとに高校生に大学生に、青春に戻れる素敵なものがたり。それがムジカレなのだ。わたしだけじゃない。わたしと一緒に青春を送った人たちも含めてまとめて、ゼロ年代に戻ることができる紙とインクでできたタイムマシン。500万人の聖者とともに歩んだことから、おそらく世界で一番知名度のあるライトノベル。

 それが、ムジカレ。わたしにレビューを書いて、と言われた、非実在だなんて勘違いをした、一番たいせつな物語だ。


 という情熱的な言葉はレビューには必要ない。3000文字くらい一気に思ったことをしたためたが、こんなエモさはレビューにいらない。1時間ばかしぶっ通しで書いたのち、冷めたコーヒーを口にしながら読み返すとそのエモさで内蔵が沸騰しそうになったので、全部消して、執筆速度にデバフをかけるためにも縦書きを横書きに変え、再度ゼロから、「そのライトノベルがすげぇ2021」にいかにものりそうな、コミケで買って半分くらい読んで放置しているラノベおすすめレビュー本を参考に、書き始めたのだった。





 オーバー20000文字。

 日曜日の23時過ぎ。わたしはひたすら机に向かい書き続けたレビューを脱稿した。レビュー兼エッセイという出来だが、まあこれは第一項だし、もしかしたら井守千尋という名前だけで読む奴がいるかもしれない。とアマチュア作家ならではの思い込みで今までには書いたことのない視点で書き上げた。勉強にもなったし、別のところから適当なレビューを受けてもこんな感じであらゆるラノベに応用できそうだ。

 だけど。

「なんだか、つまらないわ」

 小説に込めれば、結構いい感じの(一次審査は突破できそうな)情熱を持っていたのに、それはまるまる紐で縛ってゴミ箱に捨ててこそクールなレビューとなる。なんだか短編一つ分くらいのエネルギーを損した気分で、Wordファイルを雁ヶ音いろはに送信した。日曜日だから別に返事が来なくていい。たいした達成感はない。レビューだからな。ビールを開けようという気分にさえならなかった。

 これで、わたしに課されていた問題は一つ解決した。もしかしたら、最大の問題だったのかもしれない。聖者の行進さえ、これを書くために必要なイベントだったなんて思えてきた。いや、そんなこともなく、表現の自由に対しての行進ではあるのだけれど、大いなる糧になったのは間違いない。ワンピースを脱いで、水色の部屋着に着替えた。これは動きやすいのでこっちで書いたほうが楽だったかな、なんて思うが、執筆スタイルは大切。暇なときはPCでウィキペディアを延々と読んでいる仕事はそこそこぐだぐだ大好き残業をわざとやってそのお金で車の借金を返したい姿勢な会社員の井守千尋と、命を削って小説を書けアマチュアはまず物量だ、うだうだ言わずにまずはペンを取れ恥ずかしいものを書くよりも恥ずかしがって書かないほうが恥だとまで言い放っている脳筋物書きの井守千尋はまったくの別人。その切替スイッチは着替えることによって入り切りとなる。

 だから書き上げた今は、日曜日の夜に翌日から会社に行きたくなくて行きたくなくて行きたくなくて会社爆発しないかなということを幽かに願う組合アンケートには理不尽なほど賃上げをしてほしい、としか書かない俗物会社員の井守千尋である。休みを増やして給料を上げて「いい会社」になって有能な人材をたくさん確保してわたしの仕事がもっと楽になればいいのにな、という筋の通った理屈だ。責任が減って給与が上がればベストですね。まあ、あと一週間自宅謹慎だけど。

 布団の中で、iPadを片手に、今書き上げたレビュー原稿をもう一度読み返した。

「どこに行ったんだろう、辺見ユウ」

 断筆宣言のこともある。死んでいないか心配だったし、雪鷺アカウントについてものすごく文句を言いたくもある。一杯2万円以上する越前蟹のフルコースを非実在ライトノベルをレビューする会の全員にごちそうしてほしいものだ。それだけやっても全然痛くも痒くもないだけの貯蓄もあるだろう。マセラティのクアトロポルテだ。2000万円以上するスポーティクーペに乗っているのだから。車……、あ。

「もしかして、辺見ユウここに来た?」

 クーパーの駐車場が不自然に乾いていた。そしてその間に置かれたムジカレのマンガ本とブルーレイボックス。そもそも雪鷺は最寄りのファミマに来ていた。ということは、わたしの住んでいる場所だってきっと知っている。

「でも、どうして」

 それを知りたい。スマホを取った。もう、躊躇の必要はない。まず、無線給電のスマホスタンドにiPhoneを乗っけて、辺見ユウにライン通話をつなげる。コールは……、5回、10回……、駄目か。15回……20回……。お願い……。


『はい、有紀子です。久しぶり、ちぃちゃん』


心臓が、どくん、と音をたてたのがわかる。優しいアルト、凪の海のように落ち着いた、辺見ユウの声が。

「こんばんは、千尋です。辺見ユウ先生ですね」

『そうだよ。やっと、電話してくれたね』

 いったいあなたはどこにいるのですか、ということを聞きたくて仕方がなかったが、それよりもまず辺見ユウが生きていて安堵したのが真実だ。

「わたし……、truth社のそのライトノベルがすげぇ2021の一般協力者として、ムジカレのレビューを書いたんです」

『選ばれたことはヒビナから聞いているよ。今更ムジカレについて書いてくれるなんてありがとうね』

「わたしにしか書けない、わたしだから書けるということで選ばれたんです」

『ふうん……。で?』

「今から、その全文を読みます。少し長いですが、聞いてくれますか?」

『その意図を先に教えてくれたら聞いたげる』

 意図、と来た。そんなもの、一言では言えないけれど。

「わたしは、紅和奏として聖者の行進に参加しました」

『だねえ』

「とっても恥ずかしかった」

『とっても可愛かったよ。ふふふふ』

 自分も参加していたことを隠す気は無いらしい。野郎。ただ、鬱々としているわけではなさそうでほっとした。

「ぽつねん先生も恥ずかしかったと思います」

『そうだろうね。周はもう36だというのに……、あっ、あいつ今年年男か……』

「だから、辺見ユウ先生にも、恥ずかしい思いをしてもらいたい」

『恥ずかしい想い? なに、裸の写真でも撮られるの?』

 今目の前にあなたがいたらそれを強要するかもしれないけれど!

「わたしの想いを込めました。ムジカレへの感謝を。それを聞けばきっとあなたは恥ずかしいと感じるでしょう」

『でも、ファンレターと考えれば嬉しいよ』

「そうでしょうか。ただのファンじゃない。わたしからのレビューです」

 しばらく辺見ユウは黙り込んだ。そして。

『聞かせてもらおうじゃない。とりあえず、レビューが書けてよかった。甲斐があったよ』

 やっぱり、辺見ユウはここに来たのだ。レビューのためではなく、失われた書籍とソフトをわたしにプレゼントしてくれるために、だろうけど。

「では、読み上げさせていただきます」

 推敲時にプリントアウトした原稿を手に、わたしは深呼吸する。

「一心同体の青春、ムジカ・レトリックシリーズ。文責・井守千尋…………」

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