第22話 それでもやっぱり……

 聖グレイシア大聖堂へやってきてからの数日間、私はともかくとしてプラムとローズマリーは忙しそうに日々を過ごしていた。

 二人とも新しい旅に出る準備をしなくちゃいけなかったし、リーフさまから頼まれて今回の道中について報告書をまとめていた。犬姫さまの本気モード、狼神さまとの出会い、猫姫さまとにゃんにゃんアサシン教団……伝えなければいけないことはたくさんある。


 私の方も単に暇していたわけではなく、100年前の犬姫さまであるフジノさまに関する文献を調べていた。全ては読み切れなかったものの、フジノさまが人間の体に戻ってから書いた日記もあった。そういった文献を読み進めた結果、ある新事実が判明した。なんと、犬姫さまは人間と同じ食事をしても大丈夫なのである!

 霊薬(エリクサー)の完成を待つ間、フジノさまは人間と同じものを食べて生活していたらしい。それで体調も悪くなったことがなく、詳しく調査してみたところ、食べ物を消化しているときにフジノさまの体内ではエーテルが発生していたことが判明した。どうやら本気モードに変身する前から、私やフジノさまはエーテルの恩恵を知らず知らずのうちに受けていたようである。

 遠い異国で旅するときに一番注意するのは飲み水らしい。日本の綺麗な軟水に慣れている日本人は、海外の硬水やちょっと質の悪い水を飲んだだけで、すぐお腹を壊してしまうとか。でも、私は川の水をごくごく飲んでも全然平気だったので、もしかしたらそういう部分でもエーテルに助けられていたのかもしれない。これもこれで十分にチート能力だ。


 そういったわけで大聖堂へやってきた翌日から、私の食事は少しずつ人間用のものへシフトしていった。プラムとローズマリーにとっては味気ない精進料理も、基本的に味付けなしだった私にとっては味覚の宝庫だ。断食の修行を終えたばかりの如く、私は野菜中心のヘルシーな食事を堪能した。

 人間用の食べ物を食しても問題ないという事実、ヒナギクにも教えてあげたいけど彼女は今どこにいるのだろう? ローズマリーの助言に従って、ここへ向かっていてくれたらいいのだけど、疑り深い彼女のことだから素直に従うとは思えない。でも、意外とサフランが上手いことリードして連れてきてくれたりとか? そんなことを考えていたら、あの二人ともまた会いたくなってきた。


 さて、大聖堂での生活は順調な滑り出しだった。

 大聖堂で働いている人たちは本当に私の正体を知らないようで、リーフさまがいきなり犬を飼い始めたことや、それも自分の秘書に世話させていることに対して色々なリアクションをしていた。犬を飼うことに賛成する人もいれば、苦言を呈する人もいたりして……まあ、基本的には快く受け入れられているようだ。

 それから、お世話をしてくれるリーフさんの秘書さんもいい人だった。


「いやぁ、もうね! 犬姫さまのお世話をするのが小さい頃からの夢だったんですよ!」


 秘書さんというからスーツのOLさんを想像していたけど、実際に会ってみたらパン屋さんかお花屋さんで働いていそうな雰囲気のお姉さんで、底抜けに明るい笑顔からは彼女の人柄の良さがダイレクトに伝わってきた。無論、法衣とタイツは標準装備だ。


 私は秘書さんに連れられて、これから暮らすことになる部屋も見に行った。

 10メートル四方はある広々とした部屋だった。大きな窓からは外光が差し込み、私の手でもカーテンを開け閉めできるように長い紐が垂らされている。部屋の隅に置かれている水瓶はレバーを押すと水が流れてくる給水器になっていた。部屋からはすぐ庭へ出られるようになっていて、周囲には高い柵がちゃんと張り巡らされており、テニスコートくらいある空間を私が独り占めできた。寝床は大きなバスケットに柔らかい布が敷き詰められたもので、試しに寝そべってみると非常に居心地が良い。ドアは人間用のドアにペット用の出入り口がついているもので、現代日本のペット向け物件と遜色のない設備になっていた。


「ドアのところにベルがあるので、それを鳴らしてくれたらいつでも飛んでいきますよ。それに部屋は防音がしっかりしていて、周りの区画は特別な許可がない限り立ち入れない倉庫ばっかりなので、大声で話していても全然大丈夫です!」

「ははぁ……至れり尽くせりですね」


 この世界の文化レベルに似合わぬペットに優しい設備っぷりには、歴代の犬姫さまに関わってきた人たちの努力と気遣いを感じずにはいられない。なんだか生類憐れみの令で人間よりもいい暮らしをするようになったお犬さまのようだ。


「でも、こんなベルで呼びつけちゃったりしていいんですか?」

「いいんです、いいんです。私の住んでる部屋、、元からここですからね。廊下の突き当たりのドアから出ると、すぐリーフさまの仕事部屋に行けるから便利なんです。なんなら、寂しい夜は私のベッドに入ってもいいんですよ?」

「あ、あはは……考えておきます……」


 プラムとローズマリーならともかく、会って数日の人のベッドに潜り込む勇気はない。

 秘書さんと十分に仲良くなってから、どうしても寂しさに耐えられなくなったらお願いすることにしよう。


「それから、出歩くときはやっぱり私かリーフさまが同伴することになります。大聖堂の外へ出るときは聖堂騎士にも護衛してもらいます。コムギさまの身に何か起こったら大変なので、ここはお姫様にでもなった気分で受け入れてください」

「そうなりますよね……」


 気軽に出歩けなくなっても背に腹は換えられない。

 霊薬(エリクサー)を飲むその日まで、絶対に死んだりするわけにはいかないのだ。

 部屋を見終えて私専用区画から出ると、ちょうどリーフさまが仕事部屋から出てきた。


「あら、コムギさま。部屋は気に入っていただけましたか?」

「わんっ!」


 私は犬の声で返事しつつ右前足を上げる。

 YESなら右前足、NOなら左前足で意思疎通する。

 これも大聖堂で暮らすための取り決めの一つだ。

 リーフさまに「少し話しましょうか」と言われて、私たちは彼女の仕事部屋に入った。

 この部屋も防音はしっかりしているので気兼ねなく話すことができる。

 私たちは応接用の長椅子に向かい合って座った。


「どうでしょう……ここでの生活に馴染めそうですか?」

「それはもう! すごく優しくしていただけて!」


 リーフさまに聞かれて、私は即答した。


「でも、こんなに手厚くしてもらえることに戸惑ってしまって……私、反射的に子犬を助けようとしただけで、それだって勇気を振り絞ってしたことじゃないし……リーフさまにもローズマリーにも聖女だなんて言われちゃって……」

「ふふっ、そんな大げさに考えなくてもいいのですよ?」


 リーフさまがお上品にクスッと笑った。


「子犬の体で生まれ変わったことで、コムギさまは苦労されてきたでしょう? その苦労の甲斐があったな、こんなラッキーなこともあるんだな、くらいにかるーく捉えてもらえたらいいのです。それに私たちも『犬姫さまをおもてなしする』というシチュエーションを楽しんでいるのですからね」

「そうなんですか?」

「私なんか大司教という立場上、必要に迫られてそれらしい人間を演じてばかりですから。たまには私の好きなように誰かへサービスしてみたいのです。こう見えて、見習い時代はメイドさんのアルバイトをしていたのですよ?」


 お茶目にウィンクをしてみせるリーフさま。

 秘書さんはうんうんとうなずいていた。

 リーフさまの気持ちも分からなくはない。私も文化祭で素敵な先輩(女子バレー部のエースだったらしい)と組んで仕事をしていたときは、嬉々としてタオルを手渡したり、自販機でジュースを買ってきたりしていた。気に入った人のお世話をしてあげるのは確かに楽しい。それに高校生になったらカフェでウェイトレスのバイトとかしてみたい。自分のサービスで誰かを満足させられたら、それはきっと達成感があることだろう。


「そういうわけですから、自分の家だと思って自由にくつろいでくださいね」

「あっ、それなら……コムギさまって呼び方は変えてほしいなって……」


 そこだけはやっぱりムズムズして仕方ない。

 ここを家だと思うなら……二人を家族と思うなら、やっぱりそこは譲れなかった。

 リーフさまは一瞬きょとんとしたあと、いつものようにニッコリと微笑んだ。


「改めてよろしくですわ、コムギさん」

「それじゃあ、私はコムギちゃんって呼ばせてもらいますね」


 秘書さんが嬉しくてたまらなさそうに私を抱きすくめる。

 この世界に来てからというものの、私は人の善意に助けられっぱなしだ。

 これからは人とのコミュニケーションにも衣食住にも困らない毎日が待っている。

 でも、どうしてなのだろう。

 私は胸の奥が切なくて仕方なかった。


 ×


 いよいよプラムとローズマリーの旅立つ日がやってきた。

 朝食を取ったあと、私はこれから暮らすことになる部屋に二人を案内した。部屋にはちゃんと人間が座るためのクッションも用意されている。私たちはクッションに腰を下ろして、秘書さんが持ってきてくれた食後の紅茶を飲むことにした。

 プラムが紅茶をすすりながら部屋を見回した。


「まさに犬用のホテルって感じだな。聖父母教会と大司教さまは、いつ来るかも分からない犬姫さまを本気で待ってたわけか……ある意味、コムギはその人たちの夢を叶えてあげたってことになるんだな」

「夢を叶えたなんて……」


 そんなことを言われたら照れずにはいられない。

 いつも茶化してばかりのプラムから言われたらなおさらだ。

 ローズマリーが私の頭を優しく撫でた。


「いえいえ、コムギちゃんの存在自体が私たちの希望なんです。私たちが信じていた伝説が実在していた。まるで妖精にでも出会ったような気持ちですよ。それでも申し訳ないと思ってしまうなら、別世界の知識をリーフさまに教えてあげてほしいです。リーフさまはきっと世界をよくするために役立ててくれるはずです」

「……うん、約束する」


 リーフさまにはきっと伝えよう。

 卵黄とビネガーと食用油から美味しいマヨネーズを作れること、食物繊維を取るとお腹の調子が良くなること、青カビから抗生物質を作れば病気や怪我を治療するのに役立つこと、いつでも水で流せる綺麗なトイレが必要であること、他にもたくさん……。


「そんなしんみりするなって!」


 プラムが私のお尻を軽くぺしぺしと叩いた。


「私なんか、お前を護衛した報酬でうはうはなんだからな!」


 彼女は床に置いてある荷物から、銀貨と銅貨の詰まった革袋を引っ張り出す。

 革袋は底が抜けそうなくらいに伸びきっていた。


「これでしばらくは酒も飲み放題だな」

「お酒の飲み過ぎはよくないよ、プラム? せっかく美肌の湯にも入ったんだから」

「ぐっ……べ、別に肌とか気にしてないし……」


 露骨に目を逸らそうとするプラム。

 こういう美容に興味がないわけじゃないところ、やっぱり彼女って女の子らしい。


「懐に余裕があってうらやましい限りですよ」


 ローズマリーがため息をつき、しょんぼりと肩を落とした。


「リーフさまからお小遣いはもらいましたけど、お酒で乾杯するような余裕はとてもとても……赴任先の修道院ではもちろん、お酒なんて飲めねーですし困ったもんです。これを機に禁酒でもするしかねーですかねぇ……」

「そうした方がいいよ、ローズマリー。お酒はほどほどに!」


 なんだかお母さんのような説教をしてしまう私がいる。

 これからしばしの別れなのに最後の会話がこんな感じでいいのかな?

 なんか、もっと大切なことを言うべきのような……。


「ハッハッハ! そんなローズマリーには私が金を貸してやろうか?」

「こういうときくらい奢ってくれですよ!」

「まあ、一杯くらいならやぶさかじゃないが……まさか、この街で飲むのか?」

「飲むわけねーじゃねーですか! 次の街くらい黙ってついてくるです!」

「お前、どっちの方角に行くんだよ」

「北西です」

「ここから北西じゃあ、これからの季節は寒くなりっぱなしじゃねーか! それより東に出て海岸沿いを南下しないか? 海沿いなら魚も美味いし、海の向こうの食材も入ってくるし、南に行けば雪も大げさには降らないし……」

「あんた、私が修道院に赴任すること忘れてねーですか?」


 プラムとローズマリーの掛け合いに私は聞き入ってしまう。

 今からちゃんとお別れを言わないといけないのに、言おうとすると胸が苦しくなって言葉が出てこない。

 別に一生の別れではない。プラムは会いに来ると約束してくれたり、ローズマリーは赴任先の修道院にいることは分かっている。それに人間に戻るまで我慢しなくちゃいけないのは長くても6年だ。これからの長い人生を考えたら、そんなのはほんの短期間のはずだ。

 それなのにどうしてだろう。

 この身を引き裂かれるような思いは……。


 そのとき、大聖堂の始業を知らせる鐘の音が聞こえてきた。この鐘が鳴らされると同時に大聖堂の正面入口が開かれて、朝の礼拝をするために街の人々がやってくる。プラムとローズマリーはこの鐘の音を区切りにここを出立する予定だった。


「さてと……あまり長居しても仕方ないから行くかな」

「で、お酒は奢ってくれるんですよね?」

「分かった分かった。次の街で奢ってやる。そこから先は知らん」

「よしよし、ごねてみるもんです!」


 プラムとローズマリーが荷物を背負って立ち上がる。

 別れの言葉を求めるように二人は私を真っ直ぐに見つめた。

 胸が苦しくて息が詰まる。

 目の奥が熱くなってきて、それに耐えられなくて……。

 私は気づくとプラムとローズマリーに向かって口走っていた。


「……私、やっぱり二人と一緒にいたい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る