第20話 蜂蜜たっぷりのスコーン
目的地が近づいてきたことに気づいたのは、ローズマリーが急に櫛で水色の髪を梳かし始めたからだった。
私たちはいつものように押しかけ用心棒をしたあと、助けたキャラバン隊の馬車に乗せてもらっていた。エディンポートまで平坦な道が続いているため、この辺りはいっそ歩いた方が早いというわけではないらしい。
かなり標高が高くなってきたからか、ゆるやかにうねりながら伸びている街道の脇には、暗い葉の色をした針葉樹の森が広がっている。20メートルを超える樹高の木々が、この先にあるはずのエディンポートの街を分厚いカーテンのように隠していた。
「なんだよ、いきなり髪なんて梳かしたりして……」
「エディンポートは大司教さまのお膝元! みっともない格好、してらんないですよ!」
「いつも砂まみれ汗まみれの旅をしてるのに髪だけ気を遣ってもなー」
プラムが呆れた顔をして肩をすくめる。
二人は幌馬車の荷台で荷物の間に挟まっていた。
ちなみに私は積み上げられた麻袋の上にのっかっている。
こういう小さなスペースにいられるのは子犬ボディの特権だ。
「無精なこと言ってないでプラムも髪くらい整えるです!」
「はいはい……」
プラムもローズマリーに押し切られて、二つ結びにしているワインレッドの髪を解き、渋々と櫛で髪の毛を梳かし始める。
二人の少女が黙々と髪を梳かしている光景はさながら女子校の教室だ。
私も体を舐めて毛繕いくらいはしておこう。
大司教さまとやらにノミでも移してしまったら大変だ。
「そういえば大司教さまってどれくらい偉いの?」
御者に聞こえないように私は小声で質問する。
ローズマリーは聞かれた瞬間、よくぞ聞いてくれたとばかりに目を輝かせた。
「大司教さまはフォースランド聖父母教会のトップです!」
「そんなに偉いの!?」
「正確に言うとトップの中の一人です。聖グレイシア大聖堂を含む四大大聖堂にはそれぞれ大司教さまが一人ずついらっしゃって、その方々が聖父母教会のトップなわけです。大司教さまクラスになると国王陛下ともマブダチの関係です」
私は歴史の教科書を思い返す。
古今東西、歴史の権力者たちはいつも宗教を味方に付けてきたとか。これといって信仰心が厚いわけでもないプラムですら、こっそり十字架のネックレスを身につけているあたり、フォースランド王国における聖父母教会の影響力は絶大なのだろう。
ローズマリーの力説を聞いて、プラムがフッと鼻で笑った。
「で、そんなお偉いさんがお前みたいな下っ端と会ってくれるのか?」
「そこは抜かりねーです。あらかじめ伝書鳩を飛ばして報告しておきましたからね。そもそも今の大司教さまは1年前まで神学校で教鞭を振るわれていて、私は学年主席としてよくお目にかかっていた間柄なんです」
「お前が学年主席とか嘘だろっ!?」
「ふっ……分からねーですか、インテリ特有のオーラってやつが……」
ローズマリーがしたり顔で胸を張る。
プラムは釈然としなさそうに疑いの目を向けていた。
正直な話、ローズマリーからインテリのオーラは見えないけど、そもそも中世・近世のヨーロッパを基準にしたら、学校でしっかり勉強している時点で十分にインテリな気がする。農民なんかは読み書きできないのもざらだったとか。
私にこの世界の文字や言葉を理解できる能力があるなら、翻訳や通訳をしてみるのも面白いかもしれない。本気モードに変身する力よりは地味だけど、これだけでも十分にチート的に便利な能力だ。
そうこうしているうち、幌馬車が町の入口の検問で停車した。
私たちも荷台から降りて検問を通る。
白く塗られた鋼鉄製の門をくぐり抜けると、正面遠くにそびえ立つ聖グレイシア大聖堂の姿が目に飛び込んできた。
大きさを比較する対象として、東京観光へ行ったときに目の当たりにした高層ビルを思い出した。正面入口にそびえ立っている尖塔は高さ100メートルは超えている。大きく開かれた身廊の天井も50メートル近くあり、今まで訪れてきた街の文化レベルからは想像もできないスケール感だ。
外壁は真っ白な大理石で造られており、石柱の一本一本から、無数にある窓の一つ一つまで細かな意匠が施されている。身廊の天井から突き出している尖塔群は屋根が鮮やかなエメラルドグリーンで、高潔な雰囲気の中にどこか親しみやすさを添えていた。正面入口の真上には聖人たちの石像が並んでおり、大聖堂を訪れる信徒たちを優しく見守っている。
正面に高くそびえる尖塔の中には、大人でもすっぽり入れそうな洋鐘がいくつも並んで吊られていた。私たちが馬車から降りたとき、その並んだ洋鐘が一斉に鳴らされ始めて、街中に荘厳な鐘の音が幾重にも響き渡っていた。
幻想的な風景にため息がこぼれる。
道中は興味なさそうにしていたプラムも「こりゃすごいな……」と素直に賞賛の言葉を漏らしていた。
「さあ、行くですよ! あと少しです!」
うっきうきになっているローズマリーを先頭にして、私たちはエディンポートの街のメインストリートを進む。
大聖堂の圧倒的なスケールに気を取られて気づかなかったものの、エディンポートの町並み自体も素晴らしい景観だ。建物の屋根は大聖堂と同じエメラルドグリーンに塗られており、外壁も大聖堂に似せて白塗りに統一されている。窓辺には何かしらの草花が飾られており、街中が景観を美しくするために協力していることが分かった。
メインストリートには細かな目の石畳が敷き詰められている。馬車が行き交っているにもかかわらず、宿場街で見かけたような石畳が剥がれている部分やへこんでいる部分は見当たらなかった。ホロストーンを利用した街灯は数メートルおきにいくつも建てられており、夜になったらイルミネーションのようにきらびやかになるだろうと想像できる。
そんな町並みを眺めながら歩いているときだった。
「なあ、ちょっと小腹が空かないか?」
プラムが足を止めて問いかける。
ローズマリーは怪訝な顔をして振り返った。
「はあ? いきなりなんです?」
「ここまで来たら焦ることもないんだから、ちょっとくらいお茶していかないか?」
「……まあ、大聖堂の閉館までは時間があるから平気ですかね」
私たちはそれから、紅茶を出してくれる店に立ち寄った。テラス席のテーブルで待っていると、店員さんがたっぷりの紅茶と皿に盛られたスコーンの山、それから蜂蜜で満たされたガラスの小瓶を持ってきた。
スコーンは焼きたてで湯気を立ち上らせており、優しくて香ばしい生地のにおいが漂っている。プラムとローズマリーがガラスの小瓶から蜂蜜を垂らし、焼きたてのスコーンを一口ほおばると、幾重にも重なったパイ生地がサクサクっと小気味良い音を立てた。
「うまっ!」
あまりのおいしさにびっくりしてか、プラムが口を手で覆った。
「口当たりと食感は軽いんだけど、生地に練り込んだバターの風味がしっかりしてるな。しかも、バターのほんのりとした塩気がたっぷりかけた蜂蜜の甘さを存分に引き立てている。かといって、決してしつこい感じはしない」
「この紅茶はスッキリとした味わいですねー。乾燥した柑橘類の皮が茶葉に混ぜてあるみたいです。紅茶自体に砂糖は入れてないですが、蜂蜜たっぷりのスコーンと一緒に飲むにはちょうどいいです。まったりとした口の中を柑橘系の香りがさっぱりさせてくれます」
最初は気乗りしていなかったローズマリーもこれには大満足。
私も蜂蜜はかけないでスコーンを1つ頂いた。
もしかして、これが犬の姿で食べる最後の食事になったりするのかな?
スコーンの山が半分に減った頃、店員さんが紅茶のおかわりをティーポットで持ってきてくれた。小腹が空いていたらしいプラムも流石に空腹が満たされたのか、あからさまにスコーンを食べる速度が落ちていた。
「これで私たちの旅もおしまいかー」
プラムが不意に呟いた。
私とローズマリーがビクッとして同時に顔を上げる。
私たちの反応が予想外だったのか、プラムはばつが悪そうに視線を逸らした。
「そんな驚かなくてよくないか?」
「いや、まあ……確かにそうですね……」
口ではそう言いつつもローズマリーは明らかに動揺していた。
それは私も同じだった。
二人と旅を始めてからおよそ1ヶ月……旅をしている最中は、この楽しい旅が永遠に続くかのように思えていた。山道を歩いているときは確かに長く感じたし、楽しいこともあれば危険なこともたくさんあって、とても濃密な時間を過ごしたけれど、今になって思うとそれは本当に一瞬の出来事のようだった。
「コムギが無事に人間へ戻れたとして、私たちはどうなるんだ?」
「まあ、犬姫さまであるコムギちゃんは聖父母教会おいては聖女さま同然ですから、生活が保障されることは間違いないですね。いきなり世間に存在を公表すると大騒ぎになること間違いないですし、この世界に関する知識とかも改めて勉強とかも必要なはずですし、ここの大聖堂でしばらく暮らすことになるかと……」
「そりゃあ、そうだろうな……じゃあ、お前は?」
「私ですか?」
ローズマリーが空を仰いで少し考えた。
「私は女子修道院へ派遣される途中でしたから、改めてそちらへ向かうことになるかと……」
「そういや、そうだったな」
「プラムはどうするつもりなんですか?」
「私ぃ?」
プラムが腕組みをして「うーん……」と唸った。
「私は元々、このゆたんぽ係が本当に人間なのか確かめたかっただけで……まあ、またあてのない旅に戻るんじゃないか?」
「あてのないって、プラムはそもそもなんで旅をしてるんです?」
「はぁ? な、なんとなくだよ、なんとなく!」
「そう言うなら、まあ、深くは詮索しねーですけど……」
「おいおい、なんでしんみりしてるんだよ! 食うものも食ったし、そろそろコムギを人間に戻してやろう」
目的地に辿り着いたら、この二人と別れることになる。
これまでずっと一緒にいたからか、そうなる未来を全く想像できない。
想像できないが故、今の私は割と落ち着いた気持ちでいられた。
小学1年生の時点で卒業式のことを上手く想像できないのと同じだ。
山盛りのスコーンを食べ終えて、私たちは店をあとにした。
一杯になったお腹をいたわりつつ、大聖堂へ向かう道をゆっくりと進む。
ゆっくり歩いているつもりが、ほんの数分で大聖堂の前に到着してしまった。
見上げるほど大きな門は完全に解放されていて、多くの人々が自由に出入りしている。巡礼目的の聖職者や、日課のように祈りを捧げる町民たち、それから大聖堂の観光が目的の旅人たち……そんな人々を門の前に立っている全身甲冑の聖堂騎士たちが見張っていた。
私たちを目にして、聖堂騎士の内の一人が声をかけてきた。
「失礼。あなたが伝書鳩を送った……」
「ですです」
「お待ちしておりました! さあ、こちらに!」
鉄仮面の奥に覗いている聖堂騎士の顔がにっこりと笑顔になる。
聖堂騎士に案内されて、私たちは大聖堂に足を踏み入れた。
正面入口の先には石柱に挟まれた身廊が広がっている。身廊の奥は礼拝所になっており、祭壇には聖父母の石像が奉られていた。祭壇の脇ではシスターがパイプオルガンを弾いている真っ最中で、礼拝に集まった人たちと厳かな賛美歌を合唱している。そして、礼拝所に集まった人々に頭上のステンドグラスから鮮やかな光が降り注いでいた。
聖堂騎士は礼拝所には向かわないで、入口近くから左手に伸びている翼廊から『関係者以外立ち入り禁止』という看板が掲げてあるドアを通り、聖職者たちの仕事場や生活スペースらしい場所に入った。
四大大聖堂の一つというだけあって、一般客の目につかない裏側も豪華に飾られている。足下の絨毯はふかふか、燭台は金メッキがされてキラキラしているし、そこかしこに宗教画や聖人の像が置かれていた。絢爛豪華さはホテル・エメラルダスを遥かに凌ぎ、美術館を歩いているような気分である。こんな光景を目の当たりにしたら、宗教にピンと来ない人にも聖父母教会の力がハッキリと伝わるだろう。
聖堂騎士はとある一室の前で立ち止まり、分厚そうな木製のドアを数度ノックした。
「大司教さま、お連れしました!」
「……お入りなさい」
ドアの向こうから聞き心地のよい女性の声が聞こえてくる。
聖堂騎士がドアを押し開けて、私たちを部屋の中へ誘った。
部屋は両脇には本棚がずらりと並んでおり、ドアのすぐ目の前には応接用のローテーブルと長椅子が置かれている。ちょうど小学生のときに一度だけ入ったことがある校長室にそっくりな雰囲気だ。といっても、本棚に収められているのはファイルではなく革張りの書物だし、棚には十字架や聖父母の宗教画が飾られているから、ここが宗教に携わる人間の仕事部屋であることは一目で分かる。
戸棚に一つ、気になるものがあった。宗教画とは趣の異なる絵で、数人の聖職者たちと一緒に黒髪の女性が描かれている。聖職者たちは豪華な法衣を身につけている一方、黒髪の女性は庶民的なワンピースを着て静かに微笑んでいた。
そして、応接用のローテーブルの向こうには年季の入った書斎机が置かれており、そこでは法衣を身につけた女性が書き物の仕事をしていた。彼女は手に持っていた羽根ペンをインク瓶に戻して、ほっそりとした目でニコリと微笑んだ。
「ようこそ、聖グレイシア大聖堂へ」
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