第8話 犬姫さまの本気モード

 体長4メートルに達する巨大オークに石斧で殴られたのに全然痛くない。

 親戚のちびっ子に丸めたポスターに叩かれたくらいの衝撃しかなかった。

 凶暴化して理性を失ったオークも予想外だったのか、刃の砕けた石斧の持ち手をまじまじと見つめている。


「コムギ……コムギなのか……」


 木の幹にもたれかかって、気を失っていたプラムが目を覚ます。

 彼女は立ち上がれこそできないものの、しっかりと私に目を向けていた。


「い、犬姫さま……その、姿は……」


 ローズマリーも一緒に目を覚ましてくれる。

 二人の安否が確認できて、私は嬉しくて思わず笑顔になった。


「よかった! 二人とも無事だったんだね!」

「体は……動かねーけどな……」


 プラムが強がるようにニヤリとする。

 こんなときでも強気な姿勢を崩さない彼女が心強い。

 そんなプラムの姿を目の当たりにしてローズマリーも元気が湧いてきたのか、地面に倒れたままぷっと吹き出した。


「どうやら……私たちにも、運が向いてきた……みてーですね……」

「プラムもローズマリーもあと少し待ってて! 私がなんとかするから!」


 私の両手には肉食の獣を思わせる鋭い爪が生えている。

 犬の耳と尻尾が生え、素肌に毛皮をまとったこの体は、この世界における私の人間の体なのだろうか? 体の奥底から力があふれてきて仕方がないけど、暴力的な衝動はなく気持ちがとても落ち着いている。

 これなら戦える!

 私は大きく爪を振りかぶり、隙を見せているオークに飛びかかった。

 力一杯に振り下ろした一撃が、とっさに防御したオークの左腕を切断する。

 固く引き締まった筋肉と弾力のある脂肪で守られた太い腕なのに、まるでパンをちぎるように切断することができた。


「やった! やっぱり強い!」


 自分の強さを確信して思わずガッツポーズ。

 左肩の切断面からは黒い煙が勢いよく吹き出している。

 ようやく危険性を認識したのか、オークが雄叫びを上げながら襲いかかってきた。

 壊れた石斧の持ち手を握りつぶしながら、私に向かって右腕を振り下ろしてくる。

 私はその右腕めがけて本能のままに蹴りを放った。


「てやぁっ!!」


 格闘技を学んだわけでもなければ、体育の成績だっていつも中の下だというのに、私の蹴りはカミソリのように鋭い軌跡を描いた。

 オークの右腕が切り飛ばされ、その巨体が大きく後ろに揺らいだ。

 私は鋭く伸びた爪と爪を合わせるようにして、オークの胸に向かって右腕を突き上げる。

 本気の一撃が衝撃波を発生させて、周辺の木々の葉が弾け飛んだ。

 大砲に撃ち抜かれたかの如く、オークの胸に大きな風穴が空く。

 オークは苦しげな咆吼を上げながら仰向けに倒れ、その体は黒い煙となって崩れ始めた。


「た、倒した……よね?」


 右手の爪と拳はパンチの衝撃でヒリヒリしている。

 オークの崩れた体の中から大量のホロストーンがこぼれ落ちていた。

 個体によって大きさのばらつきはあるものの、モンスターを倒して手に入るホロストーンは基本的に1つだ。しかし、このオークからはバケツ何杯分もあるホロストーンが出てきた。それだけ濃厚な瘴気(ミアズマ)を吸収したということだろう。

 そんな凶悪なモンスターを素手で倒してしまった自分の強さに改めてびっくりする。

 もしかして、これって人間の体に戻れちゃった?

 ケモミミ娘かぁ……ファンタジー世界らしくて、ちょっといいかもしれない。


「すごいじゃねーか、コムギ!」

「最高ですよ、犬姫さまぁ!」


 プラムとローズマリーが立ち上がり、よろめきながらもこちらに駆け寄ってくる。

 ちゃんと自分の足で歩ける二人の姿を目の当たりにして、居ても立ってもいられなくて私も二人の方へ駆け寄った。

 倒れ込む二人を受け止めるようにして、私はプラムとローズマリーを抱きしめる。

 私が一番背は低かったものの、今の体のおかげでしっかり受け止めることができた。


「二人とも……本当に無事でよかったぁ!」


 嬉しさが胸の奥からあふれ出してきて止まらない。

 私は思わずプラムとローズマリーの顔を舐め回した。

 舐め回した。


「……はっ!」


 や、やってしまった!

 プラムのご機嫌取りをしまくっていたときの癖がこんなところで……。

 いきなり顔を舐めてきた私を見て、プラムとローズマリーがそっと一歩退いた。


「あ、いや……これは……犬のときの癖で……」


 事情を説明しようとしたときだった。

 体の奥からあふれてきた光がそっと収まり、どろんと白い煙が吹き出したかと思うと、私の体は元の柴犬に戻ってしまう。

 せっかくオークを退治した感動的な場面のはずなのに、その場は言いようのない微妙な空気になってしまった。


 ×


 あれから少しして、ステラさんが私たちを迎えに来てくれた。

 彼曰く、追ってきた狼たちには『穏便に』引き取ってもらったらしい。

 ステラさんに導かれて山を下っていると、松明を掲げて山を登ってくる村の若者たちと合流した。軽傷のものたちがプラムとローズマリーを探しに来てくれたようで、二人は若者たちがその場で作った簡易担架に乗って山を下りることができた。


 村に戻ったあと、プラムとローズマリーは傷を癒やすのに専念した。

 瘴気術(ミアズマクラフト)で他者の怪我を治せるといっても、それは一時的に無理ができるようになるだけで、あとでちゃんと体を休めないといけないらしい。そのため、瘴気術の治療を受けていたプラムも数日はベッドで寝ていた。


 村人たちは二人を熱心に看病してくれた。

 畑で採れた新鮮な野菜や果物、狩った獣の肉を調理して、美味しい手作り料理を振る舞ってくれた。私もステラと一緒に二人を見つけた大手柄だったので、獣肉をお腹いっぱいに食べさせてもらえた。


 それから、報酬は予定していたよりもかなり弾んでもらえた。

 村人たちは凶暴化したオークのホロストーンを回収して換金し、革袋にぎっしりと銀貨を詰めてくれたのである。

 ステラさんが教えてくれたことによると、銅貨100枚で銀貨1枚、銀貨100枚で金貨1枚になるらしい。

 宿に泊まるのに銀貨1枚でおつりが来ると考えると、銅貨1枚で1万円くらいの価値があるだろうか。もしかしたら金貨を初めて拝めるかもと思っていたけど、江戸時代の小判みたいな価値があるなら滅多にお目にかかれないのも仕方ないだろう。

 さて、この革袋いっぱいの銀貨が何日でなくなることやら……。

 プラムとローズマリーは禁酒状態だったので、その反動でワインをがばがば飲んでしまうのは間違いない。


 そうこうしているうちに1週間が過ぎて、私たちは村を発つことになった。

 出立の朝は村人たちが総出で見送ってくれて、私の元にはステラさんが来てくれた。


『貴様と今日でお別れかと思うと残念だ』

『私もです! ステラさんには色んなことを教わりましたし……』


 プラムとローズマリーの旅の仲間以外にも、そして人間以外にも通じ合える相手がいると分かったのも大きな希望になった。

 もしかしたら、これからも話の通じる犬と出会えるかもしれない。

 ちょっと驚いたのはいつもクールな彼がとても寂しそうにしていることだ。

 私が不思議に思っていると、ステラさんが何気なく呟いた。


『この村に残ってくれたなら、ぜひとも俺の子を産んでもらいたかったのだが……』

『ええっ!!』


 びっくりするあまり、私は思わず一歩退いてしまった。


『こ、子を産むって……ステラさん、私をそんな目で見てたんですか!?』

『人間もオスとメスで子供を作るだろう? 貴様もあと数年で子供を産めるようになるだろうしな。もしかしたら、お前が犬の生き方を選ぶかもしれないとも思ったが、やはり心が人間ではそうはいかないか……』

『申し訳ないですけど……はい……』


 ステラさんにとって私は子供を産んでほしいほど魅力的に見えていた……と前向きに捉えることにしよう。


「コムギ、お別れは済んだか?」


 プラムが駆け寄ってきて私の体を抱き上げる。


「お前、犬と話せるんだよな。別れるのが寂しくて泣いてたりしないか?」

「わ、わん……」

 寂しいのは寂しいけど、ちょっぴり複雑な気分です。

「あっ! また勝手にだっこしてるっ!」

 村人たちと話していたローズマリーが飛んできて私を奪い取った。

「休んでる間にだっこは順番っこでするって決めたじゃねーですか!」

「うるせーなー! こいつは私のゆたんぽ係なんだよ!」

「三人並んで寝ててクソ暑苦しかったのにゆたんぽとかいらねーですよ!」


 プラムとローズマリーが私を取り合って揉み合いになる。

 二人の他愛なさ過ぎる喧嘩っぷりを見て、別れを惜しんで暗くなっていた村人たちが一瞬で笑顔になった。

 明るい雰囲気になったところで、私たちはついに村を出発する。

 山道を下っている間、プラムが思い出したように突然吹き出した。


「あのときは本当にびっくりしたな。いきなりコムギが顔を舐めてきてさぁ!」

「わふっ!?」


 自分の晒した痴態を思い出して顔が熱くなってくる。

 私はわんわんと吠えて「あれは不可抗力!」とアピールした。


「犬の姿の犬姫さまならともかく、人間の姿のときに舐められるなんて……」


 ローズマリーまで思い出し笑いしている。

 まあ、気まずくならないで笑い話で済まされるならいいか……。

 身も心も犬になってしまう前にさっさと人の体へ戻りたいものである。


「それにしても、あの犬姫さまの特別な姿……犬姫さま伝説には歴史書にも記されていない秘密がありそうな予感がするです。ちなみにあの姿って自由に変身したりは……まあ、無理ですよね。できるなら、あの体を維持してるでしょうし……」


 実際、その通りである。

 凶暴化したオークと戦って以来、私はあの姿……本気モード(仮)に変身できていない。変身するのにパワーをためるのが必要なのか、余程のピンチにならないと変身できないのか、実は人生で1回しか変身できなかったりするのか……。


「それはいいけどさ、次はどこに行くんだ?」


 先頭を歩いていたプラムが振り返る。

 分かってないのに一番前にいたの?

 ローズマリーが呆れた様子で肩を落とした。


「ここから北へ3つ山を越えた先にあるグレイウルフの森に向かうです。狼神さまに会うことができたら、犬姫さまが人間の言葉でしゃべれるようになるらしいですからね」

「それって、あの犬っころが言ってた話なんだろ? 信じられるのか?」


 あれこれ話しながら、私たちは山道を下り続ける。

 さあ、旅の再開だ!

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