第3話 手のひら

 今日は何時にも増して、西風の強い日だった。そのせいか、朝にはわずかに残っていた街路樹の木の葉も、夕方の今となってはすっかり落ちて、散り散りになってしまっていた。それでなくても、今日という日は散々だったのに。

 しくしくと痛む胸の奥で、重い足がのんびりと動き出す。夕日が沈みかけ、足元からお腹のほうへと冷たさが迫ってくる。カサカサと足元が鳴る。動物も植物ももうじきその活動を終えて、暖かな春を待とうとする。僕には到底できない話だ。必ずやってくる春を信じて、なんてこと。そうやって、自分もそうできたらどれほどマシだっただろうか。

 ふらふらと、誘惑の橋を越えて、踏切の前に立つ。ここを過ぎれば、最寄り駅はもうすぐだ。首元に残ったわずかな熱も、黄昏時の冷えかけた風が全部かすめ取って、頭がへなへなと靡いていく。短めのくせっ毛が首元で揺れて、かゆい。

 …もうすぐだ。この時間帯だと帰宅の路につく人も多くて、駅近く、商店街のあたりがにぎやかになる。こんな僕は、誰の目にも留まらない、ちっぽけな存在なんだろうなあ。どうあっても。無意識に重くなる足を引きずっていく。

 ケンケンケンケン・・・

この踏切は音が鳴り始めてから、踏み切り棒が下りてくるまでに他のものよりも少し長めの時間がある。ごくたまにだけれど、急いでいる人なんかがこの合間を縫って走り去っていくのを目にする。いつも電車が来る前のスレスレを通るから、危ないんだよな、本当に。


そんなことを考えながら、ゆっくりと周りの景色が動き出す。ぼうっとしてなにも考えられなくなって、


もう、いいかな。


ケンケンケンケンケンケン・・・

踏切の甲高い鳴き声は、しばらくして迫る重厚な音にかき消された。









「誰もがみんな、望んでくる場所じゃないんだけどなあ。」





 気が付くと、駅のホームにいた。

あぁ、また考え事をしながら歩いていたから。意識がまだどこかぼんやりとしている。ぶーんという音が耳鳴りのように聞こえる。今日はずいぶんとまた、静かなんだなあ。

そんなことを思っていると、反対側のホームにあるベンチの上に、ばっと振り上げられる小さな拳が見えた。


「もうやだ!疲れた!!

何でいっつも僕ばっかりが!」

静寂に突如乱入してきたその声に、ビクッと肩が震えた。

 その場所は、辺りのぼんやりとした雰囲気とは違って、どこか明瞭な存在感を放っていた。少し遠目で見えにくいが、どうやら子供のようだ。

・・・妙にへんちくりんな格好をした。例えるなら、着物のそでの部分を思いっきり引き延ばして、けれどもひざ上の丈はかなり短くあつらえられている。模様のほうも随分と個性的だ。黒い植物のつたが、肩の所から腕に巻き付いているような、っているような。とにかく、見れば見るほど、どこか現実離れした、まるでどこかの漫画から飛び出してきたかのような格好だ。

少年はどうやらこちらには気づいていないらしい。向こうの線路をじとっとした目で睨みつけながら、口の先をとがらせてぶつぶつと喋り続けている。

「大体さ、可笑おかしいんだよ?決まっているものを急に変えて調整しろ、なんてさ。それに加えて突拍子のない話までともなれば、そりゃもう、やってらんないよね!!」

そのあまりの気迫からか、上方でとまっていたと思われる烏がバサバサと羽の音をたててどこかへと飛んで行った。

一方少年の方はというと、いまだ憤慨極まりないのか、ベンチに座って足をばたつかせながら、どうにかその怒りをなくそうと必死なようだった。

けれど、その足元もまた何とも珍妙で、不気味だった。

それは、少年が履いていた異様に歯の長い下駄のせい、ではなく。少年の座っているベンチの周り一面に、無数の切符が散らばっていたからだ。それも、十枚や二十枚なんてものじゃない。


「…なんだ、あれ。」

何とも近寄りがたい。まぁ、もうすぐ電車も来るだろうし、いっか。


…しかしあいつ、あれだけの切符、どうやって片づける気なんだ。駅員に怒られても知らないぞ。

もう見ていられないな。そう思い少年から視線を外した。

…あれ、いつもの所に時計がない。ボロくて遅れがちだったから、外したんだろうか。


 ふと、聞きなれない音楽が流れ始めた。線路の向こうをのぞき込むと、いつもは鈍行のはずなのに、こっちの方に眩しい光が随分と速く近づいてくる。

瞬間、鉛色の車体が猛スピードで目の前を通り過ぎて行った。流れていく視界には人が何人か見えて、どうやら満員に近いようだ。


次に、目の前には季節外れの花びらが・・・違う。これは切符だ!

無数の紙吹雪は電車の後に着いていくように、共に暗闇の向こう側へ、ヒュウッと吸い込まれてしまった。


「あ。」

と、不意に握りしめていた肩掛けリュックの感覚が、ようやく戻ってきた。向かいのホームの少年は、ベンチからいつの間にか立ち上がっていた。・・・やっぱりあの切符は。少年の足元には一枚、だけが残っている。一番飛んでいきやすそうな位置にいるのに、どうしても行けなさそうな。それを少年が拾い上げると、まるで逃げるように、電車が去っていった方へなよなよと流されていった。


「残念だね。」


「・・・え?」

「ここでおしまい、だなんてさ。」

先ほどとは違い、驚くほど冷たい目と声をしていた。一瞬こっちを見て、目が赤く光った、ような気がした。けれど、少年の目線はすでに向こうの線路へと戻っていた。

あ、やばい。次の電車の時間、いつだろう。今のを逃しちゃったから、次のやつは・・・っと。


 ホームの左側にある時刻表の方へと向かった。時刻表が貼ってある壁の前に立ち、息をのんだ。ゲコっとくぐもった音、それが、自分の喉から発されたものだと気づくのには、数秒かかった。


 黒、黒、黒・・・墨、大きな筆で何度も塗り潰されたような。確かにここに、時刻表があったのに。震える手を濃緑色の壁に近づけた。よく見ると、黒いしぶきのようなものが大きく広がっていた。少し湿り気を帯びていて、とっさに手のひらを確認する。・・・大丈夫、少し震えているけれど、いつもの頼りない手だ。

 ひたり。所々剥げたり、ひび割れたりした、深緑の背景は変わらないけれど、これは・・・墨の端を指の腹で軽くこすってみる。どうやっても取れなさそうだ。


「そう簡単に書き直せないよ。乗る電車も、走る本数だって元から決まってるんだ。・・・降りる場所は選べないけどね。」

まるでこっちを見ているかのように少年は言葉を発した。けれど、そうじゃない。今のはどっちかっていうと見られたっていうより、心を見透かされたような。それに、向こうのホームにいるはずなのに、声は真横から聞こえてきたような。

 右手がまだ壁についていた。自然と下がった指先に、一つだけ残った時刻があった。今から数分後。もう、あと少しだ。


ガア


「え。」

横に、いつの間にかさっき飛び立ったのと思われる烏がいた。こっちを見て、くちばしをモゴモゴさせている。…何かあるのか?怖いもの見たさからか、そのまま目を離せずにいた。

ふと、その口元が歪んで、笑った気がした。


「さとる」

突然、母さんの呼ぶ声が聞こえた。ぎゅるるっと胸がねじれて、喉の奥に苦いものが広がる。

「あ…」

首元にかかる生ぬるい風と、ひんやりとした空気が足元をさまよっている。なのに、胸の所だけが妙に熱い。違う・・・こんなんじゃない。ぐっと両腕を掻き握って、ホームの出口、改札の方へと向かった。

とにかくここにいたくない。嫌だ。まだ、



「どうしてかなんて、分かってるんでしょ?」


踏切の向こう、そこに向かって薄ら笑いを浮かべている。僕が。

「違う!!こんなのじゃない!」

後ろからの声を振り切ろうとして、ついに駆け出した。いくばくもしないうちに視界が濁った虹色でぐらつく。耳鳴りも、どこか遠くなっていく。こんな感じのこと、前にもどこかであったような気がする。


「僕は、ただ……」





 数日前、僕は珍しく夢を見た。

広いはずなのに、居心地が悪い空間。そこにいる昼間だけの見知った顔が、僕に向かって笑顔を振り巻いている。向かうのは風通しのいい特等席。そこから、皆が、大空に向かって落ちていく。押しあい、かけあいの姿が視界の端に影のように流れて、

夢の中なのに、唇がゆがんでいくのがはっきりと分かった。

誘う手と光を背に、黒い影が伸びてくる

『こっちだよ』

身がすくむ

目がくらんで

『みんなで渡れば 怖くない。』



ごぼごぼっ 

なまぬるい、作り物の温もりをそっと肺の中に溜めこんでいく。苦しい、けれどその度に、母さんの顔が、友達の顔が、君の顔が、まぶたの裏にちらついた。

けれど皆の顔は決して泣いてなんかいなくて、いつかの眩しい笑顔で僕の方を向いていた。


・・・僕が消えたら、その笑顔もなくなってしまう?

ただ、そばにいてほしい。一番贅沢な悩みだろうけど、だからこそ、欲してしまう。


こんな僕を叱ってください。見てください。

どうかその目で。この手を、握ってください。


ここで終わる。

そんな、夢だった気がする。



「夢で終わっていれば、幸せだったのかもしれない。」

「けれど、これはどうしようもなく、現実だった。」





電車の後に続いて、空っ風が建物の中を静かに通り抜ける。

 いつも見慣れた小さな駅の風景。いつもと同じ人たち。


「事故」「踏切」「少年」「一

改札に向かう途中、待合室のテレビ画面が、そんな文字を淡々と並べていた。

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