第2話 欲望
どうやったら、楽になれるんだろう。
照りつける太陽、駆けゆくまばゆい思い出。ユラユラと揺れる蜃気楼の中へと一歩、また一歩と歩みを進めていく。
・・・頭が痛い。
高いビルの隙間を抜けても、どこか虚脱感を感じずにはいられない。支えの糸をなくした操り人形みたいに、人通りが少ないのも相まって、その動きは、傍から見ればさぞかし滑稽に見えたのかな。
あぁ、何時からだろう。
空を見上げて夢を描いて、笑うことすらもなくなってしまったのは。それがたとえ、自分の所為だとしても。それでも、やっぱり。
ごくり、と音を立てて
「にが・・・」
苦しい。それが今の私にはぴったりの言葉なんだろう。
小さい頃に遊んだ川はコンクリートに埋め立てられ、今は無機質なものがその上を規則的に交差していく。・・・もう慣れてしまっているのかもしれない。耳障りだった笑い声さえ聞こえない。
「・・・ただいま」
こんなに外は暑いのに、家のドアは嫌に冷たい。熱に浮かされたはずのこの体には、全く心地よくない冷たさ。靴箱の上には枯れはてて、片付けられることもないアジサイが、頭を垂れて茶色の目で嘆いている。声は内側で響いて、消える。決して外に出ることはない。
階段を上る音が妙に耳に障る。
「・・・リム?」
部屋の中はまだほのかに暖かい。同居人はついさっき出かけたばかりなのだろう。早く帰ってこれればいいんだけど。カチリ、カチリと機械音が丁寧に時を刻んでいる。妙に身体が重い。
「お茶、」
ぐっとペットボトルを口に押しつける。汗がじっとりと手から腕に流れて、気持ち悪い。身体に流れる、生ぬるい液体は胸やけをいやすどころか、かえって煽ってくるように感じる。息苦しさに耐えられなくなり、窓を開けた。この時期には珍しく、ひんやりとした風が頬をなでる。
ふと、壁にかかっている時計を見た。針と文字が指し示す、お昼を少し過ぎたところ。
・・・うん、暗くなるまでにはまだ時間がある。たまにはこの部屋のもう一人の住人を探しに行くのも悪くない。外を歩けば胸やけもましになるかもしれない。
そんな、ほんの、気晴らしのつもりだった。
さっきとは違い、住宅街の方へと足を進める。周りに流れる空気もどこかゆったりとしていた。こっちの方には芝生の多い公園や浅めの川があって、とりあえずリムが好んで来そうな所を周って見る。・・・本人に直接聞いたことはないけれど。
だけど、見当違いだったようで、住宅街を抜けて、商店街、いくらなんでもと思った大通りの近くまで歩いてみても、リムの姿は見当たらない。
歩道橋の上で一休み。欄干に体を預けて、下をぐるっと見渡す。
「・・・居るわけないか。」
ふうっと息を吐く。昼もとっくに過ぎただろうに、未だに眼下では何台もの車が通り過ぎていく。
・・・疲れたなぁ。
歩道橋を降りて、少し細めの路地を歩いてみる。まだ太陽が出ているはずなのに、ここは何だか暗くて、湿っぽい。
まるで私みたいだな。
自慰的な笑顔も出てこなかった。思っていたよりこの体は疲れていたらしい。たまらずしゃがみこんだ。辛い、苦しい。忘れようとしても、ぐるぐるとおんなじ光景が頭をめぐる。
そっと、目を閉じた。こう静かだと逆効果かもしれないけれど、今は何も考えたくはなかった。
そのまま心地よい風に何処かへ誘われれるようにして、意識が闇に呑みこまれるまで、そう時間はかからなかった。
街にぽつり、ぽつりと灯りがともり始める。
生温かい風が首元をなでるようにして僕らを誘い込む。ここが、僕らの時間。
静かだ。不安や違和感が心を支配するよりも。暗く、冷たく、そして怖いくらいに静かだ。どこか見覚えのあるような、けれど、思い出したくないような、そんな感じ。歩き進めても、足音すら出ない。夢の中というのは目先の淡い光以外の情報を除くくらい、面倒くさがりなのだろうか。
そこは、駅と呼ぶにはあまりにも閑静で、錆びたベンチの上には誰かの忘れものだろうか、白い日記帳が置かれている。少し気になったけれど、人の日記を読むなんて、という思いが頭をよぎり、そのまま先へと進んだ。
ホームの近くには、この暗い雰囲気にはあんまり似合わない、のびのびとした雰囲気にあふれていた。よく見ると影は小さいものと少し大きめの二つで、それは子どもと、子猫のようだ。次第に、霧が晴れていくように、その姿が色づいていく。子どもは7、8歳くらいだろうか、蛍光灯の淡い光の下で、体をかがめてむこうを向いている。こちら向きの猫はのどを鳴らしながら嬉しそうに、「なぁお」とないた。その声に呼応するように、子供はこちらへと視線を向ける。
思いもしなかった。あまりにも無垢な瞳で、でもどこか、達観したような。
目が合った瞬間、動く事が出来なかった。
少年は立ち上がり、この背景にはあまり似つかわしくないような、少し変わった抑揚で話しかけてきた。
「やぁ、こんにちは!君も休んでいったら?ここにはいろんな猫がたくさんいるんだよ!」
一気に肩の力が抜ける。足元の三毛猫はしれっとした様子で大きく欠伸をした。この空気は嫌いじゃない、と思えた。
「・・・リムは、・・・白猫は居ない?小さくて、目が翡翠色をした猫を探しているの。」
何故だろうか、夢の中だというのに、思いがけず現実味のある言葉が不思議と口から零れていた。妙に冷静な思考は、少し寒いせいなのだろう、きっと。
「うーん、白猫は見てないなあ。僕が探してたのはこの黒猫だし。ごめんね。」
そう言うと、いつの間にか少年は胸に大きめの猫を抱いていた。少し苦しそうだ。少年も重かったのか、猫を足元に下ろすと先ほどの猫と同じように撫ではじめる。黒猫は気持ちよさそうに目を細め、少年もまた、猫に負けないくらい目元と頬を緩ませる。改めて少年の姿を見ると、少し古めかした、面妖な衣服を身につけているのに気づく。夢の中と考えてしまえばどうってことはないのだけれど。
「とりあえず座ったら?君の探しているその白猫も、きっとそのうちひょっこり出てくるよ。ここにはよくいろんな猫が集まってくるんだ。」
僕の秘密の場所だからね。そう言いながら近くにある古びたベンチに腰掛ける。先ほどの黒猫もよっこらしょ、と言わんばかりの動きでゆったりと少年の横へと体を丸める。立っていても、不思議といつものように疲労感はなかったけれど、そこにもまた、決まっているかのように腰をおろした。夢というより、映像の一部になったような気分だった。
「・・・わ」
餌もお菓子も何にも持っていないのに、何処から出てきたのか、たくさんの猫が足元に寄ってくる。
ある猫は甘い声を出しながら喉を鳴らし、ある猫は足やベンチに顔をこすりつけている。その様子は自然とあるものと重なってしまい、若干ながら眉間にしわが寄ってしまう。
「可愛いでしょ。僕が飼っているわけじゃないけど。・・・だから愛着がわくのかなあ。」
少年はかすかながら、悲しそうに視線を落とす。
せっかくの夢の中まで暗いのは嫌だな。おもむろに足元に居る茶色の猫を抱え、膝に乗せてみる。そうっと触ると、背中を撫でても嫌がる様子はない。よほど人に慣れているのだろうか、それとも。
「いいね、お前たちは自由で。」
何とはなしに零れた言葉だった。
「そうかな、君達も十分自由だと思うけど。」
「・・・どこが。」
顔が歪み、苦いものが胸にじんわりと広がる。
気楽で、自由気ままに街を歩く。お腹が空けば自分の力で餌を手に入れて、好きな場所で眠る。そんな姿にいつしか羨み、嫉妬していた部分もあったのだろう。猫が少し鼻を揺らした。
「ねぇ、君は自由になりたい?」
「別に。」
バッサリと言い放った。
甘い匂いなんてしない、なんてありふれた問いかけだろう。
「あれ、そうなの? ・・・めずらしいね。」
少年はニヤニヤとした表情でこちらを向く。猫を撫でている手がピタリ、と止まった。
「私たちの【自由】なんて、言葉でしかないもの。繋がれたレールの上を、他人に作られた人生の方がよっぽど気楽で、幸せだよ。」
「ふーん。」
・・・どうして出会ったばかりの子供にこんなことを言うのだろう。猫を撫でていた時の少年の、無邪気な表情がそうさせたのだろうか。
とにかく、夢の中でも私の独白癖は治らないらしい。
私の家は両親と、私と、3つ下の妹の4人暮らしだった。両親は共働きで、家を開けることも多かった。・・・だからなのだろうか。親と接する時間が短い分、私たち姉妹が親に認められるのに最も妥当な方法は、学校での成績や真面目に振る舞うことでいかに親に手がかからないかという【良い子】を演じることだった。
成績は、とれた。書いたことをそのまま覚えて、書き写す。それだけで良かった。親は笑顔でほめてくれる。それだけで、幸せだった。私立はお金がかかるから、と公立校を受けて、なんの問題もなく就職も決まって、順調な人生を歩むはずだった、のに。
妹は絵が好きだった。高校から美術部に入って、その分成績が落ち込み始めた。両親は落胆する。私には、どうしてあいつはあんなことをするのだろうと不思議でならなかった。馬鹿だな、と。
妹の絵は何度も見た。決して上手くはない。出したコンクールにだって一度も受かったことはなかったし、どうしてあいつは絵を描き続けるのか。
妹の出来が悪い分、私は両親により可愛がられた。明らかに私と妹に対する扱いが違っていた。
優越感、というものはわかなかった。
妹は「生きて」いた。絵を描くということで、苦しみながらも光を見続けて、私なんかよりもずっと、【いい子】だったと思う。
「確かに夢は儚くて、辛いけれど。ほんとはね、考えている時が一番楽しいんだ。わくわくするの。何にもないけれど、そこには全部があるの。だから、私は絵を描いていられるの。だからお姉ちゃんもさ、色んなものを見てさ、たくさん望んだ方がいいと思うんだ」
・・・何を?私の心は何を望むのか、頭の中の四角いテンプレートは答えてはくれなかった。
それらはただの道具で、私の道じゃない。
空っぽで、羽虫が飛んでいるような感覚が残る。
それが私の心なのだろうか?・・・違う?
「ねぇ、君の好きな物って、何?」
急に意識が身体に戻る。耳鳴りが消えた。足下の猫たちの毛が肌に擦れてくすぐったい。
「・・・好きな、物?」
「僕はやっぱり猫かな!柔らかくて気持ちいいし。犬ももちろん柔らかいけど、でも猫は気ままでそこがまた・・・」
好きな、もの。くり返してみても、その言葉はどこにも引っ掛らない。
自分の中で「好き」という感情すら、あいまいになっていることに気付く。
・・・不便な事は、今のところないのだけれど。
「ひょっとして、好きな物、無いの?・・・だったらなんだかさみしいな。
凄いんだよ、好きな物って。心がふわぁって、あったかくなるんだよ!」
そう言いながら少年は、胸のあたりでわざとらしく手を広げる。
あたたかく、か。膝の上の猫はいつの間にか寝てしまったようだ。生き物独特の温かさはどうしてか感じられない。そっと、その背中を撫でる。もっと柔らかい筈なのに。
昔、猫を拾った。とても小さくって、道端で今にも消えそうなくらい儚くて。同情や好奇心といった感情が心をくすぐり、気づいた時には駆けだしていた。
その猫は、こっそり家の裏で飼っていた。両親はあまり動物が好きでなかったし、妹もアレルギーを持っていたから。
子猫は少しずつ元気に、大きくなっていった。
「にぁお」と翡翠色の目に青空を映して、こちらを見つめながら、鳴く。冬の終わりごろだっただろうか。今思えば、その白い体毛が、残り少なかった雪を思い出させたのかもしれない。
ふうっと、目の端に、記憶の中にあったはずの白い影が映る。独特の甘い香りと、聞き覚えのある鈴の音が、静かな駅のホームにはやけに大きく響いた。
「・・・リム?」
駅の入り口の黒い影を背景にして、リムは確かにそこに佇んでいた。目があったかと思うと、不意に影の向こう側へと駆けてしまう。
「リム!」
膝の上の猫は驚いて、ベンチの上から飛び降りると、どこかへ行ってしまった。リムの後を追おうと、リムが行ってしまった闇へと飛び込む。
闇の中は、不思議と怖くはなかった。目の前に確かに輝く白い体がある。自分の荒い息が暗闇に響いていく。こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
「もう、リムったら!」
ようやく追いつくと、リムも観念したのか、大人しく腕に収まった。綺麗な毛が鼻をくすぐって、じんわりとした温かさが伝わってくる。
不意に、冷たく、強い風が一瞬、体の外を吹き抜けて行った。体の内から何かが、抜けていくような感覚。
「・・・電車の音?」
ふと、後ろを振り返る。先ほど抜けた暗闇は徐々に晴れ、そこには狭い路地が続いていた。
一羽の烏がなにか思い立ったかのように、どこからか飛び立っていく。何とはなしにそれを見つめてみた。
「・・・にぁお」
あ、と口から零れたのは何とも間抜けな声だった。
「帰ろっか、リム。」
細く、薄暗い路地を抜けると、見慣れた通りに出た。家の明かりはまだまばらだ。朱色に染まった夕日が、空を紫色に染め始める。夕日に反射して、リムの翡翠の目がきらり、と光った。
歩き始めると、硬いヒールの音がなる。そういえば、まだ着替えてもいなかったっけ。
「まぶしいなぁ」
明日も、良い天気だといいね。
静かで、暗い場所。
茶色毛のシマ猫が、億劫そうに体を揺らしながら、電車に乗り込んでいく。ドアが閉まり、車内はふっと暗くなる。
「・・・珍しいこともあるんだね。やっぱり一人じゃ駄目ってことなのかな、人間は。」
なぁお、と腕の中の黒猫が鳴く。
「はいはい、分かってるってば。直ぐに戻るよ。全く君はせっかちなんだから。」
暗闇は好きだけれど、どうも通る気にはなれない。「向こう」は苦手なんだ。なんとなくだけれどね。
黒猫を抱き直すと、ずっしりとその重さが伝わる。けれどまだ、温かくはない。
「賭けてみるのも、悪くはないかな。」
少年が歩みを進めると、まもなく闇の向こうへとその姿が消え、すべての音が、ひっそりとその場から立ち去っていく。
ベンチの上には猫が顔を座面にすりよせながら、
なぁお、と鳴いて、消えた。
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