第一回:徒然なるままに
京に吉田神社という社がある。元亀四(一五七三)年というから、織田信長が甲斐の武田信玄による西上作戦に胆を冷やしていた頃になる。
突然の信玄の死に命拾いした信長は、怒りの矛先を時の室町将軍足利義昭に向けた。
信玄を始めとした多くの反信長派を扇動した首謀者だったからだ。
それでも信長にも多少のためらいがある。将軍家に拳を振り下ろすことが益か害かと。
社の主である吉田兼和を呼び寄せ、都における義昭の評判を問い質した。
「よろしくありません。天皇、公家はおろか、万民に至るまで将軍家を良くは思っておりませぬ」
この返答に信長はさもあらんと満足げにうなずいた。なにしろ二年前に比叡山を焼き討ちにしたほどの気性の激しさだ。
兼和も気に入られようと話を虚飾したかもしれない。いずれにせよ、将軍家を攻める正当性ができたとばかりに信長が自信を得たのはたしかだ。
足利義昭が京から追放され、室町幕府が事実上滅ぶのはこれより僅か三ヶ月後のこととなる。
もしも太平記の作者がタイムスリップして、このありさまを眺めていたら、
「先祖(尊氏)の因果が子孫(義昭)に報いたのじゃ」
としたり顔でつぶやき、道義的視点の濃い書物に書き加えたかもしれない。無論、埒もない余談、空想ではあるが。
余談、空想ついでにもう一つ。吉田神社はこれより溯ること三百年近く前、一人の人物を輩出している。
俗名卜部兼好(うらべかねよし)、三十歳で出家後は、吉田兼好(けんこう)、兼好法師と称した。
随筆「徒然草(つれづれぐさ)」の作者である。"徒然なるままに……"という書き出しで始まるこの随筆は、日常生活において見られる公家の雅やかさ武家のつつましさを描いている。
同時に、悲喜こもごもとした人間のおかしさ、みっともなさにも言及し、そのさまを苦笑しつつもどこか愛しさを覚えている温かみさえある。
兼好がこれを著したのは元弘元(一三三一)年、鎌倉幕府滅亡のきっかけになったいわゆる元弘の変が起きた頃である。
ふと、想像を巡らせる。
複数の作者の手によるものといわれている太平記に、もしも兼好が加わっていたとしたら、彼はどのような人物描写を書き加えたであろうか。
「徒然草」だが、その一節に日野資朝(すけとも)なる公家に関する記述がいくつか見られる。
当時、変人とか奇矯の主とされた彼に、作者は深い思い入れをもっていたらしい。
世の中で平凡素直なるものこそが美しいと思い至った資朝が、それまで大事にしていた鉢の植木をことごとく打ち捨てたという話を紹介し、「さもありぬべきなり」と感嘆したように話を結んでいる。
兼好から見たら、この公家はそれまでの慣習に囚われることのない合理的な考えの持ち主と見えたのだろう。
事実、日野資朝は他の誰もが夢想だにしなかったことに手を染めていた。
倒幕運動の立役者、それがこの男に他ならなかった。
以下、次号。
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