第2話 訪問者
飲み終えたコーヒーカップをそっとテーブルに置き、花音は深くため息をついた。
状況の理解が追いつかない。突き付けられる情報の一つ一つの威力が高すぎて、もはや思考を放棄しそうである。
エデンに会話のペースを握られているのも理由の一つだ。質問のタイミングを与えられることもなく、ただ言葉のサンドバッグ状態であった花音に与えられた僅かなこのため息の間は非常に重要なものに感じられた。
たった今見せられた現実。魔法という非現実を目の前でいきなり証明されるという初めての経験。
しかし人間というものは素直ではなく、認めたくないという気持ちの抵抗は少なからず生じた。
だがその力は淡く脆い。非現実が現実だと証明された瞬間。もう頭ではわかっているのだ。
認めざるを得ない状況に、花音は諦めに似た感情で口を小さく開く。
「魔法……ですか」
静かに。自分に言い聞かせるように。
現実を受け止めようとする花音にエデンは補足する。
「いや、魔法というのは例え。人間界から来た人にはこう言った方が理解しやすいかなと思ってね。この世界ではそれをマナと呼ぶ」
正直呼び名なんてどうでも良かった。
花音は思い立ったようにエデンの顔に焦点を合わせる。
「あ……あの! それより人間界ってどういうことなんですか!? この世界って……ここはどこなんですか!?」
いきなりの花音のターンで、エデンは少し驚いたかのように目を見開いた。
だがそれも一瞬で、右手でコーヒーを手に取り一口。少し考えた素振りをして言葉をつなげる。
「えーと、なんて言えばいいのか。君がいた世界は恐らく人間が頂点に立つ生物で、この世界では……」
いや、とエデンは口を閉じた。
花音の目をじっと見つめ、またゆっくりと口を開く。
「こういう説明は後でいいか」
エデンは言葉を取り消し、すぐに口を開く。
「まず、ここは君が思っている世界とは違う、言わば異世界だ。元いた世界からこちらへ、君は転移をしたのだろう」
「そこからもうよくわからないんですけど」
「……」
エデンは凄く困った表情をしていた。
いや、これは哀れみの顔か。
そんな顔で見ないでほしい。
「転移と言うのは別世界へ移動してしまうことなんだ」
「なんで私は転移したのですか!?」
「……」
また困った。私か? 私が悪いのか!?
「すまない、理由はわからない。だが転移したのは事実だろう。この場所は僕が教えない限り、誰も見ることも入ることもできない特別な空間なんだ。なのに君は突然ここに現れた。これは転移以外に説明がつかない」
花音は表情を曇らせた。
そんなよくわからない事実を突きつけられたって。
「わ、私これからどうすればいいんですか!? 元の世界に戻れるんですか!? 昨日の記憶どころか最近のことも思い出せないし、ほんとわけがわからなくて」
「まあ、実際転移をしてきたのだから、元の世界へ戻る方法もあるんだろうな」
エデンは表情も声色も変えることなく淡々と言う。
「その他人事のような感じやめてください。この世界の人なのに」
いや、とエデンは続ける。
「他人事というわけではないんだ。転移なんてこちらの世界でもイレギュラーな現象だ。どうして起こるのかも何も解明されていない」
なるほど。て済むような済まないような。
「じゃあ私はどうしたらいいのですか!?」
「そう言われてもな……」
エデンはまた顔を困らせる。
当たり前だ。
花音は頭ではわかっていた。
こんなのただの八つ当たりだ。
「す、すみません! 私……」
我に帰った花音は謝罪をした。
いきなり知らない世界に放り出されて気が立っていたのだ。
他人事で当然だ。彼もよくわかっていないんだ。
お互いにイレギュラーな事態。
私だけが彼を責めるのは間違っている。
勝手に人の家に入り込んで苛々をぶつけられて、一番困ってるのはこの人ではないか。
私はただ、何でもいいから安心が欲しかった。
「いきなり知らない世界へきて不安やストレスを感じるのはわかる。無理もないさ。僕も君を見捨てるつもりなんてない、元の世界へ戻る方法を一緒に探すくらいなら手伝うよ」
花音は俯いていた顔を僅かに上げた。
気を遣ってくれたのだろう、エデンの優しさに花音は自分が段々と恥ずかしくなってきた。
「あ、ありがとうございます」
花音は恥ずかしさでまた俯きながらも感謝の意を伝えた。
欲しかった安心が少し貰えた気がする。
「さて」
エデンは一呼吸置いて立ち上がる。
「トカゲのコーヒー、もう一杯いる?」
「その言い方やめてください」
エデンはゆっくりと席を立つ。
花音の顔には少しの笑みが浮かんでいた。
その時、扉の方からベルの音が鳴り響いた。
「きゃっ! なに!? びっくりした」
音の鳴る方向へ目を向けると、扉に飾り付けられてあるベルが揺れて音を奏でていた。
そして花音は違和感に気付く。
「扉が開いてないのに、ベルが揺れてる……」
全身に鳥肌が立つのを感じた。
こ、これも魔法?
「やばいな」
冷静に、真顔でエデンは言葉を漏らす。
「え? ちょ、どういうやばいなんですか!?」
感情が全く伝わらないため説明を急いで求める。
ひとりでに奏でるベルの音が不気味さを増幅させる。
「このタイミングかよ。めんどくせーな。かなり」
「あ、あの私どうしたら!?」
刹那、扉は破壊されるかのような轟音とともに開かれた。
「よぉー、いるかー? エデンー」
太い低音が響く声とともに、頭上をぶつけないよう上体を低く保って身を乗り出してきた大男。
「いちいちうるせーんだよお前。普通に入ってこれねーのかよこのデカブツが」
呆れたようにエデンはその大男に言う。
身長は2メートルを超えているような高さ。さらに体躯もガッチリしたまさに大男という表現が相応しい巨体が入場してきた。
「おう、わりぃ。ん?」
大男は悪びれる様子の一切ない謝罪とともにすぐに花音に目を向ける。
「おいおい、客人か? しかも人間じゃねえか」
太く低い声。巨体。顔に刻まれた痛々しい傷痕。鋭い目つき。その全てが凄まじいほどの威圧を放っていた。
エデンは視線を花音に移す。
案の定、完全に怯え切った小動物のようになっていた。
「ガイル。お前の登場と面は初見にはキツすぎる。せっかく落ち着いてきたというのに」
「あ? 俺がわりぃのかよ」
ガイルと呼ばれた大男はまた悪びれる様子もなく大きく足踏みをしてエデンが座っていたソファーに身を投げ出した。
ポケットからタバコを取り出して、指先から火を灯して着火する。
この人も火を出せるんだ。
ガイルは豪快に口から煙を吐いた。
「で? 誰だよこの人間」
エデンは愛想笑いで返事をしていた。
どれくらい時間が経ったか、エデンは三人分のコーヒーを入れて席に戻ってくると、花音はまだ目の前のガイルに目線を合わせず怯えていた。
「失礼するよ」
エデンは気を遣って花音の隣に腰を落とす。返事は返ってこない。
「おい、早く説明しろエデン。ここにいるってことはお前が呼んだんだろ?誰だこの人間」
さっきから人間人間って、あなたたちも人間じゃないの!?
「それが聞いてくれよガイル。僕が呼んだわけでも、この子が望んできたわけでもない。彼女は突然、ここに転移をしてきたんだ」
ガイルはコーヒーを鷲掴んで口に運ぼうとしていた手を止めた。
「なんだと?冗談言ってんじゃねぇぞエデン」
その声に花音はまた神経を尖らせる。
ただでさえ怖い顔をした男の表情がより一層怖くなる。
これ以上この人を怒らせないでと花音は強く願った。
「お前に嘘をつくつもりはない。はっきり言おう。彼女は恐らく人間界から転移をしてきた」
「ふざけんじゃねぇぞ。お前それじゃまるで」
声を荒げる寸前までいってガイルは言葉を止めた。
どちらに気を遣ってかわからないが、今大声を出されたら間違いなく心臓が止まっていたと花音は確信した。
「すまんなガイル。僕とお前の仲だ。
「ちっ」
ガイルは大きな舌打ちをして掴んでいたコーヒーを一気に口へ流した。
「驚かせてすまない。こいつは悪いやつじゃないんだ。僕の唯一信頼できる仲間だ」
花音は自分に声をかけられていることに気付くまで数秒かかった。
「え!? あ、はい!」
変な声が出た。正直今までの会話はあまり頭に入っていなかった。
「わ、私は江橋花音です!よろしくお願いします。気付いたらこの世界にいて、最近の記憶もなくて、エデンさんと今お会いして、それで」
「おいエデン。どこまで話した?」
ガイルは何事もなかったかのように花音の言葉を切る。
実に堂々とした無視だった。
花音は状況が飲み込めずフリーズしていた。
恐らく今起きた事象を頭で必死に整理しているのだろう。
「ごめん、こういうやつなんだ。慣れてくれ」
エデンはガイルに目を向け、続ける。
「まだ詳しくは何も話せてはいない。人間界からここへ転移したという事実くらいだ。この世界のことはまだ何も」
「そうか……。おい女」
え? 私? 呼ばれていることを理解するのにまた数秒要した。
「私ですか?」
「他に誰がいるんだよ」
ガイルは眉間にシワを寄せて睨みつける。
もう泣きそう。
「死ぬ覚悟はあるか?」
泣いた。
「おいガイル」
エデンは少し強い口調でガイルを制止する。
「少し言葉を考えろ。相手は人間の女だ」
ガイルはフンっと鼻を鳴らす。
「覚悟を試しただけだ。俺はどうもこの女がこの世界で生きていけるとは思えねぇ」
「まだこちらに来て間もないんだ。精神も落ち着いてない。お前は刺激が強すぎる」
エデンのフォローが唯一の支えだったがそれ以上にガイルの恐怖が大きすぎて花音の心はもうほとんど折れていた。
「守護者になるわけでもない。そういう話はまだいいだろ。とりあえずこの子のケアが優先だ。話もできない」
ガイルはまた舌打ちをする。
「おい女」
花音は鬼を見るかのように恐る恐る目線だけをガイルに向ける。
「お前、元の世界に戻りたいのか?」
「え……」
唐突な質問に花音は思わず声が漏れた。
戻りたい。当たり前のことではないのか。
「直近の記憶がないと言ったな。この世界に長くいればいるほど元の世界の記憶は消えていくぞ」
ガイルは淡々と続ける。
「転移してきたやつらは最初こそ元の世界に戻ろうとはするが、やがて元いた世界の記憶は消え、戻る理由すら無くし、この世界を彷徨う」
「なんですかそれ……」
花音が抱き始めた小さな希望は今まさに消えようとしていた。隣で傍聴していたエデンを見やる。
「あぁ……ガイルの言う通りだ」
なにそれ。優雅にコーヒー飲んでる場合じゃないよね?
「今の君にどこまで記憶があるか知らないが、君が元の世界に戻りたいという意志は僕たちの記憶には残る。例え記憶が完全に消えても、僕たちは方法を探す手助けはするよ」
「おいエデン。俺も巻き込むのかよ」
「当たり前だ」
花音は記憶を辿っていた。元の世界に戻りたい理由。自分は一体何者で、どういう生活を送っていたのか。やり残したことはあるのか。自分が戻らなければいけないほどの理由が。
「心の整理が必要なら少し休むか? 客人用の部屋はある。案内しよう」
エデンは気持ちを察してか、時間をくれるみたいだ。
お言葉に甘えて花音は小さく頷く。
少し休む時間も欲しかった。
「部屋には紙とペンもある。残しておきたい記憶があるなら、そこに書き留めておくといい」
「ありがとうございます」
花音は残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと席を立った。
花音を案内し終え、エデンはガイルの対面の席へ腰を下ろす。
「ありがとうガイル。色々と気遣ってくれて」
ガイルは舌打ちをして、無造作に頭を掻きむしる。
「で?どうするつもりだあの女」
「とりあえず面倒を見るしかないだろう。人間界に転移する方法なんてすぐに見つかるわけでもない。しばらくはこの世界で生活することになるんだ。彼女一人では生きてはいけない」
「まあ、そうなるわな」
ガイルは大きなため息をついてエデンを見やる。
「お前、カレンと重ねてんだろ。あの女のこと」
エデンの体が止まる。
「何を言うかと思えば……」
「隠してたつもりか?バレバレなんだよ」
エデンは言葉を詰まらせた。隠していた感情がバレたからではない。少し、過去の記憶を辿っていたのだ。
「気持ちはわからねぇでもない。雰囲気や匂い。確かにあいつを感じさせるものがある。人間界から来たんだよな?同じじゃねえか」
沈黙が生まれる。二人にはある心当たりがあった。
花音と同じように、過去に人間界からこの世界へ転移してきた人間の記憶が蘇る。
「俺はもう、お前があんな思いを繰り返すのはごめんだぜ」
「まだそうなると決まったわけじゃない」
エデンは振り切るようにガイルの言葉を払う。
「すまない。この話は終わりにしよう。それよりガイル。ここへ来たってことは仕事があるんだろう?」
ガイルはどこか納得していない表情を見せたが、目の前の親友を労ってか深入りをやめ、懐に手を入れ書類を取り出した。
「あぁ、ある国の調査だ」
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