第3話 猫の国
花音は重たい瞼をゆっくりと開く。
少し寝ていたようだ。
時間を確認しようと辺りを見回す。部屋の壁に時計のようなものが確認できた。二本の針と円周に並べられた規則的な数字を見てそれを時計と認識する。短い針は11を指していた。
そもそも自分がいつ眠りについたか、時間を見ていない。
花音は行動の無意味さを悟り、上体を起こす。
起き上がるのが名残惜しいほど心地よいベッドだった。
「私……違う世界にいるんだよね」
花音はまだ少し痛む頭を気にかけ手をやる。
この世界へきて起きたことを簡単に整理する。
だがいまいち実感が湧かない。
自分は本当に異世界へきたのかと疑うほど、見るもの全てが元の世界のものと類似していたのだ。
相違点と言えば、マナと呼ばれる魔法のようなものの存在。それだけだ。
花音はおもむろに部屋の窓を開ける。
風が気持ちいい。天気も良く、日差しもいい。
「本当、別世界にいるなんて思えない」
花音は机にある紙とペンに目を落とす。
眠りに落ちる前、自分が元の世界の記憶をそこに書き留めたことを思い出した。
「なに……書いたかな」
自分がどういう生活を送り、過ごしていたか。どんな人間であったか。いざ書き留めろと言われても、それは記しておかなければいけない価値があるものなのか。よくわからなかった。
花音はガイルと呼ばれていた男の言葉を思い出す。
「この世界に長くいればいるほど、記憶はなくなっていくんだよね」
そうなるとどうだ。果たして自分は元の世界に戻りたいと思えるのか。そもそも戻る理由、元の世界の存在すらも忘れてしまうのではないか。何のために、生きていくのか。
「彷徨うか……なるほどね」
ガイルの言っていた、転移した者の末路を花音は納得した。
部屋を出て、一階に繋がる階段を降りようと手すりに手をかける。吹き抜けの構造のおかげで、この位置からでも応接間にいるエデンとガイルの姿が確認できた。
「お、おかえり。気持ちの整理はできたかな」
先に気付いたのはエデン。後から続いてガイルも花音の姿を確認する。
「ごめんなさい、少し寝てしまって。結構お時間経ってました?」
「2時間」
ガイルははっきりと即答した。
「ご、ごめんなさい!」
花音も反射的に謝罪をする。やっぱりまだ怖い。
「問題ない。ガイルも怒ってないよ」
エデンはフォローを入れるが、花音はどうしてもガイルが怒っているようにしか見えなかった。
「ガイル、そんな顔するなよ。まだ慣れてないんだからさ」
「あぁ!? 怒ってねぇよ。元からこんな顔だ!」
花音はガイルに目線を合わせないよう応接間へと近づく。元がそんなに怖いからなら、怒った時はどうなるのだろう。想像もしたくなかった。
「お、着いたな」
「え?」
エデンの唐突な発言に花音は理解できなかった。
「お出かけだ。行くぞ花音」
そして唐突に名前を呼ばれてドキッとした。
初めて名前を呼ばれたのだ。一瞬の出来事で言葉を返せない。
「あぁ!? その女も連れていく気か?」
ガイルの発言に余韻に浸る間もなく花音は現実に戻された。
「もちろんだ。ここに居ても仕方ないだろ。ちょうどこの世界を知る良い経験だ」
「え?ちょっと、どこにいくんですか!?」
二人だけでどんどん会話を進めていくので花音も思わず割り込む。
「猫の国! 面白そうだろ?」
「え、ちょっ」
エデンは花音の言葉を遮るように手を取り、歩き出した。
「ったく、何かあっても知らねえぞ」
ガイルも面倒くさそうに立ち上がる。
「そのために守護者の君がいるんだろ?」
「あぁ!?」
扉を開けると、そこは見たことのない光景が広がっていた。
「!?」
花音は絶句した。
目の前に広がるは広大な草原と大きな石造の壁。ここは森の中ではなかったのか。
「驚いたかい?この家は空間を移動する。誰も見ることも、知ることもない。最高の隠れ家だ」
気づくと手は離されていた。まだ少し温もりが残っている。
「これも魔法?いや、マナというものですか?」
「そうだ」
「なんだ?マナの存在はもう教えたのか?」
ガイルはエデンを見下ろす。
「あ、はい! エデンさんが指から火を出して! この世界には魔法があるって。マナと呼ぶんですよね?」
目を合わせてないおかげか、花音はガイルに話しかけることができた。
ガイルの眉間にシワがよる。花音は反射的に耳を塞いだ。
「火だとぉ? おいエデン! てめぇ能力を見せたのか!」
エデンもうるさそうに目を細めていた。
「すまない。つい……」
「ついじゃねぇだろ! いい加減自覚しろよクソが」
ガイルは花音を気にかけてか、少し声のトーンを抑えた。
そして舌打ちをする。
「女。エデンは訳ありで能力は使わないことになっている。絶対に口外するな」
花音は恐怖で顔を縦に何度も振った。
「そういうとこあるぜお前。気ぃつけろ」
「悪かった。自覚する。すまん」
エデンは冷静な顔に戻っていた。本当にそう思っているのか全くわからない。
花音も怖くて訳ありの説明を聞けなかった。
「ま、とにかく行こう」
エデンは何事もなかったかのように歩き出した。
「おっと、危ない」
何かを思い出したかのように。
「ガイル、その服」
エデンはガイルが肩に羽織っている白い装束を指差し、次いで花音に指を向けて何か合図を送っていた。
「あぁ!? 俺かよ」
「仕方ないだろ。それが丁度いい」
ガイルはその合図で何かわかったようだが、声からして気が進まないことであると花音は察した。
そして花音の体に何かが覆いかぶさった。
「え!?」
困惑する花音にエデンが補足する。
「少しこの世界について説明する。単刀直入に言うと、人間の身分は低い。獣人がいる猫の国ではなおさらだ」
花音はさっきまでガイルが羽織っていたものが今自分を覆い隠しているものだと気付いた。
「身分?じゅうじん??」
詳しく説明を求める。
「この世界では様々な人種が共存している。王国に入ればわかると思うが、獣が人と同じように生活している。人間と同じ顔をしているのもいるが、それも獣人だ。耳や尻尾など、どこか獣の特徴がある」
花音は少し理解できた。
ガイルが貸してくれたこの装束も、自分が人間であることを隠すためのものだったのだ。地面すれすれまで垂れるそれを見て、花音は改めてガイルが背丈のデカさを実感した。というか重い。
「あ、あの。貸してもらって言うのも何ですけど、これで大丈夫なんですか?」
花音は素直に思ったことを述べた。
この程度で自分が人間だと隠し通せるのか、いささか不安ではあった。と言うより、余計に怪しくないか。
「まあ、気休め程度だけどな」
ガイルがぽつんと放ったその一言で花音の不安が増す。
「さっきも言った通り、人間の顔をした獣人もいる。顔を見せても耳や尻尾が見えなければ大丈夫だ」
エデンの冷静な顔は逆に言葉を軽く感じる時がある。
花音はまだ納得がいかず、続けて質問する。
「もし人間だとバレたら、どうなるんです?」
「死ぬ」
ガイルがまたぽつんと放つ。
その言葉をこの人からは聞きたくなかった。
「やめろガイル。お前が言うと冗談に聞こえない」
本当に冗談に聞こえなかった。
泣きそうだった。
「少し行動が不便になるだけだ。人間の入国は禁止されてはいない。だが獣人のプライドは高い。人間に向ける目は冷ややかなものだろう。君にあまりストレスは与えたくない」
花音は何となく理解できた。
元いた世界ではあまり聞き慣れない言葉ではあったが、様々な人種が存在するこちらの世界ではやはり身分という差別問題が出てくるのだ。
「さ、行こうか」
花音はずっと気になってはいたが聞き出せずにいたある胸の内の思いを打ち明けるべく、先へと歩みを進めようとするエデンとガイルを呼び止めた。
「すみません! あの、あなたたちも人間じゃないのですか?」
エデンとガイルは互いに視線を交わして。
「俺たちは大丈夫だ。強いから」
2人揃って同じ返答をする。それが可笑しかったのかどうかはわからない。
「なんですかそれ」
花音は少しの笑みを浮かべ、置いていかれないよう二人に歩み寄った。
視界の遥か先まで連なる石造の大きな壁はその王国の規模のデカさを象徴する。
検問所のような場所で三人は立ち止まる。
恐らくここで入国審査があるのだと花音は容易に予想できた。
「何も喋らなくていい。顔だけ少し見えるようにして」
エデンは私の耳元で小声でアドバイスをくれた。
「ようこそ、猫の国マウサーへ。入国は三人ですか?」
花音は審査官を見て驚いた。事前に聞いてはいても、やはり実際に目の当たりにすると非常に興味深い。毛や髭、耳、鋭い眼光まさに獣のそれである。獣が人間と同じように服を着て、言葉を喋っている。これが獣人というものか。
「三人だ。身分証明はこれでいいか」
ガイルが先に身を乗り出し、審査官に手帳のようなものを提示した。
「はっ! 守護者の方でしたか。御勤務、お疲れ様です! どうぞ、お連れの方も入国ください」
何をしたかよくわからないが、入国はできたようだ。こんなに怪しい格好をしているというのに。花音は入国の緩さに突っ込みを入れながら二人の後をついて行く。
壁内に入ると、そこは賑やかな街が広がっていた。
行き交う人の話し声。地を踏む音。商売をする声。美味しそうな匂い。それら全てが花音の五感を刺激した。みんな獣人だが。
「すごい……」
花音は思わず感嘆する。
「城下町、と言ったところだな」
エデンが補足する。
「あそこを見てみな。あれがお城。この国を治める王がいるところだ」
エデンに指差された方を見ると確かに遠く先の方に城のような建造物が確認できた。
一つ一つの景色に目を奪われる。城下町、というものを花音は生まれて初めて経験した。まるで絵本の世界に入ったような感覚に花音は無意識に胸を躍らせていた。
「お腹空いてるだろ?何か食べるか」
「エデン、遊びにきたわけじゃねぇぞ」
「いいじゃないか。僕らまだ何も食べてないだろ?」
確かに。花音は自分が空腹だったことを言われるまで気付かなかった。忘れていた。
「食べたいです。お腹空きました!」
「決まりだな」
ガイルは舌打ちをする。
「俺は朝飯は食べてきた」
三人は最寄りのレストランへ入り、昼食を取る。
「ところで」
最初に話を切り出したのは花音。
「さっきから聞こうと思ってたんですけど、守護者って何ですか?」
花音の質問に、エデンは頬張っていたパンを飲み込み、口を開く。
「んー、なんて言おう。この世界を守る者?中立者?」
ガイルは気にせず魚を丸呑みして骨を噛み砕いている。
正直、三人の中で一番食べていた。
「依頼者から仕事を受けるんだ。その業務は様々で、誰かの護衛だったり人探しをしたり、犯罪者を捕まえたり討伐したり。一概には言えないな」
「へぇ〜。警察官みたいなものなんですね」
「けいさつ?よくわからないけど」
「あ、すみません何でもないです」
そうだった。ここは自分のいた世界ではないことを花音は自覚した。あまりにも類似しすぎていて忘れてしまう。あまりこちらの世界で例えるのはやめておこうと言い聞かせる。
ガイルはまだ手を止めることなく食べていた。
「ここへ来たのも実は守護者の仕事の一つだ」
ガイルは一瞬手を止め、激しくエデンを睨みつけた。
口の中がいっぱいで恐らく喋れないのだろう。
「あぁ、わかってる。ここでは少し話しにくいな。また後にしよう」
ガイルの意図を察したエデンは話を切り上げた。
花音はスープを一口すする。それは自分に対してなのか、周りの獣人に聞かれてはいけないことなのか、また両方か。花音にはわからなかった。
「まあさっきの入国の時にわかったかもしれないけど、守護者は何かと優遇される。中立者の権利というものがあって、上下関係が基本ない。仕事だと言えば、誰もそれを止める権利はない」
「なるほど……」
花音は先の入国審査は決して甘かったわけではないと気付いた。守護者たる所以の優遇だったのだ。彼らに守護者の業務を邪魔する権利はなかったのである。
スープをまた一口。しかしこの世界の食べ物は本当に美味しい。口にする全てのものが花音の舌を唸らせた。
「おい聞いたか」
花音の聴覚は偶然その声を拾った。奥の席の方か。
「また一人、連れていかれたらしいぜ」
「なに?またかよ。国外のやつか?」
「ああ。それもまた人間だ。獣人の連れと一緒に入国したらしいが、一晩で姿を消したとよ」
「おっかねぇな。かわいそうに。ま、人間だから仕方ねぇかゲハハ」
その笑い声に花音は嫌悪感を抱く。
ふとエデンの方を見ると、同じく会話を聞いていたらしく、花音に視線を合わせてきた。
ガイルは……。
「あれ」
花音はそこに、さっきまで食べ物を食い散らかしていた存在が消えていることに気付いた。あるのは大量に積み上げられた空のお皿。
エデンは顎で花音に方向を指し示した。
「おい、その話詳しく聞かせろよ」
「なんだこいつ!? でけぇ!」
ガイルはいた。彼もまた同じくして会話を聞いていたのだろう。奥の席の獣人らをもう問い詰めていた。
なんて危ない人なんだろう。花音は冷や冷やとガイルを見守ることしかできなかった。
「聞かせろってんだよ。おらっ」
まるで鬼のようだ。花音の感性は間違いではない。
獣人ですら、ガイルの形相に明らかにビビっていた。
「お、おお俺も噂で聞いただけだ! 詳しくはわからねぇよ」
ガイルは店内全ての客の視線を集めていた。
ここまでくると花音は恥ずかしさが芽生えてきた。
知り合いとは思われたくない。他人のフリをしよう。
そう心に誓ったその時。
外で大きな銃声が響いた。
「なに!?今の音」
花音は驚きながらもすぐにエデンの方を見やる。
エデンのいつもの平穏な表情はなく、険しい顔をしていた。
「いくぞ」
エデンはすぐに立ち上がり、花音の手を取った。
「ガイル!」
銃声はやはり店内に響き渡ったらしく、さっきまで注目の的だったガイルを他所にみんな外に視線をやっていた。
「おう! いくんだな」
エデンの呼びかけにガイルは応えた。
「いや、会計よろしく!!」
花音は手を取られ、エデンとともに店を出る間際のガイルの形相を忘れない。
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