第10話

「…………おはよう、ござい、マス」

栄真と恵が共同で住むアパートの玄関は、ひどく狭い。

当たり前に一畳もなく、申し訳程度の高さの上がり框があるだけ。

靴箱などというものは存在しない。ゆえに靴はコンクリート剥き出しの床に散らばっている。それらが余計に狭さを強調している気がするのは、ショコラだけではなかろう。

その散らかり放題で狭い空間にひとりポツンと、ショコラ・ショコラトルが居心地悪げに立ち竦んでいる。なぜか片言の挨拶を添えて。

「……あがれば?」

インターホンが鳴って自室から出てきたばかりの栄真もまた、彼女との距離感に悩んでいた。

恵に、今日の誕生日会にショコラを呼んだから仲よくしなさい、と忠告を受けている。

————つっても、どうすりゃいいってんだよ……。

面倒くさいことを言われたものだ、と内心で頭を抱える。

とりあえず部屋に上がらせればいいだろう、ということでの返答。

栄真の対応は間違えではなかったようで、ショコラは靴がごった返している玄関で靴を脱ぐ。一足だけキチンと揃えられている様がまた、ミスマッチだった。

ショコラはこれまた狭いダイニングキッチンに足を踏み入れてきて、

「昨日、ごめんなさい」

聴き取りづらいほどのごく幽かな声を携えて、ショコラは頭を下げる。

「なにが?」

まだ出逢ったばかりだが、見るからにプライドの高そうな彼女が頭を下げる理由を、栄真は本気で思い当たらなかった。

するとショコラが、

「その……ちょっと、ちょっとだけっ!」

と言いながら顔を上げた。その顔は新鮮なトマトのように真っ赤に染まっている。

「言い過ぎ、だったかも……って」

そのやり取りでようやっと、彼女が話題にしているものが昨日のまさにこの場で繰り出された会話のことだと理解した。

「別に」

そう言いながら栄真は、恵に言いつけられたキャベツの千切りにチャレンジしている。

細さにばらつきのある千切りキャベツをボウルに移し、続いてトマトのカットへ。

「お前が言ったことは、ホントのことだし」

栄真はこの一年、恵に依存していると自覚している。

恵が拒めないと知っていながら、その理由を利用しておんぶにだっこし放題だ。

そうでもしなければ、穴のようにぽっかりと空いた喪失感が埋まらない。いまも————コユリとの思い出に浸れば、戻って来れなくなりそうだ。

「そ……」

ショコラがなにかを言いかけ、しかしすぐに首を振る。

そして間髪入れずに笑い飛ばした。

「そうよね! ワタシは悪くないわよね!」

「調子乗んな」

ぺしっと情けない音を立てて、栄真はショコラの頭を軽く叩いて反論した。

しかしショコラも負けず劣らず。

「なんですってぇ!?」

言い返すのはこれから……というときに限って、恵が自室から外出の支度を済ませて出てきた。

「じゃあ」と言いながら薄い上着を羽織り、

「オレは駅前のイタトマとヨーカドーまで行ってくるから、二人でサラダを三人前作っておいてくれ」

と指示を出す。

ショコラは黙って頷き、栄真は「へいへい」と適当に応じる。

すると恵は拳を振りかざして「『へい』は禁止!」とちょっと本気に叱った。

「うるせぇ早く行ってこいお願いします!」

怒りに任せて暴言でも吐こうものなら、それ以上のしっぺ返しが来る。黙って言われた通りにすべし、これ以上に反抗すればケーキはなくなる、という栄真の戦略的撤退だ。


恵が車に乗り込んだ途端、車内のダッシュボードに置いたばかりの携帯端末が着信の合図をした。相手はもちろん、黄蓮局長だ。

「……はい、椿」

『「なにを悠長に構えているのだね?」』

また面倒臭い応酬をしなくてはならないのか、と思うとひどく気が重い。

「運転中なのでね、手短にお願いします」

恵が苛立ちを込めて言うやいなや、黄蓮は口惜しそうにいつもより早く回答する。

『「《奴》が現れた」』

「!!」

黄蓮の指す《奴》は、言わずもがな。

『「狙いは当然————」』

恵の車は急旋回し、真っ直ぐに家へと向かった。

「栄真……っ!」


窓ガラスが外からの衝撃で弾け飛び、部屋に散乱する。

ガラスの粉で視界が煌めいているなか、声が聴こえた。

「やぁ弱虫栄真クン。昨日ぶりかな?」

聴き覚えのある声。

沼そのもののような、うろ暗さを現したような声だった。

赤薔薇の涙スウィートローズ・ラクリマ……っ!」

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