第5話
溜め込んでいたかのように、雨が降り出した。
この時期だから放っておけば止むかと思ったが、存外と雨脚が強まってきた。傘の持ち合わせがない栄真は仕方なく、椿と共同生活しているアパートの方角に足を向ける。
————嫌な予感のする雨だ。
その予感を、まさしく体現したかのように。
「ヤァヤァ、そこの青年」
ふいに声をかけられて驚き、栄真は声の主をあちこち見回して探した。するといつの間にか、すぐ後ろに奇怪な男が立っているではないか。————先ほどまでは、誰もいなかったはずなのに。
咄嗟に栄真は半歩下がり、謎の男と距離を開け始めた。まるで本能が逃げろ、と叫んでいるかのように。
不気味なほど赤い薔薇を二輪ばかり飾った白黒のシルクハットを小粋に被りこなし、同色の燕尾服をキザに着込んだ、下半身だけやけにひょろっとした男だ。
顔に機械仕掛けの仮面が当てられていて素顔はわからないが、締まった体と細かな仕草を見る限りではそう年寄りではなかろう。
栄真はいま一度、自分の感覚の正確さを確かめた。
————確かに人の気配はなかった。なかったはずだ。
なのにこの男は目の前にいる。
男の異常さと強さを再確認できたところで……栄真には戦う術がない。
「ご機嫌いかがかね?」
男は相変わらずのマイペースで、栄真へ話しかける。
栄真の警戒心が、第六感が、この男には関わってはいけないと必死に叫んでいる。
わずかでも男との距離を開かせようとジリジリ足を後方へをにじる栄真に対し、男は軽々しい慣れた態度で尋ねてきた。
仮面に変声機能でも付いているのだろうか。男の声は妙に甲高くて耳障りだ。
「……悪いがオヤジみたいなヤツに、知らないヒトと関わるなって教えられたんで」
くだらない会話に応じて男の気を逸らしつつ進み、路地の出口まであと、わずか三メートル。その三メートルが、とても長く感じられる。
だがその時間が、男の次の手で
「おやおやつれないねぇ。でもその理屈だと知っているヒトなら、問題ないだろう?」
と笑い、男の手袋に包まれた形のいい手のひらが仮面に伸びる。いかにも重そうな機械の仮面が苦もなく外され、男の素顔が晒された。
「…………っ!! お前……っ!?」
男の素顔に、栄真の息が詰まる。心臓が跳ね上がり、背筋に電気が走ったようにビリビリと震えた。
男の顔は口裂け女のように裂かれて、歯と歯茎が丸出しになった大きな口。その口をにたりと、不気味な三日月型に歪めた。元の顔はおそらく、とても美形だったに違いない。
狼のように限界まで尖った八重歯が、ついさっき点灯したガス灯風にあしらわれた街路灯の光を受けて、ギラギラと危険を主張する。
仮面を外したおかげで変声が解けて、栄真もよく覚えている声に戻った。美しく整った手の形とよく合っている、本場の歌手もかくやのテノールが辺りに響く。
「お久しぶりだね、栄真クン。あの可愛らしいお人形さんはお元気かな?」
男の通称は《レザークラフト08》、またの名を
それ以外の個人情報は、現在の日本政府では把握していない。本名や出身地、血液型……その一切が不明だが、不気味な強さとその残忍性は折り紙付き。
『08』のナンバーは伊達じゃなく、存在が日本政府に確認されている〈レザークラフト〉の中では間違いなく最強の部類だ。栄真が実際に遭遇した中で、もっとも恐ろしい相手。
そして同時に————世界でもっとも憎い存在。
怒りと憎しみだけで、栄真の拳が色をなくすほどきつく握られる。目は充血し、皮膚は赤く染まっている。震える全身でいまなお立っているだけでも、奇跡のようにすら見えてしまう。
「……っと失敬」
栄真の戦慄をわざとらしく話の腰を折って、男は優雅な動作で自らのシルクハットに手を伸ばす。丁寧に活けられた三本の薔薇を一本だけ抜き取り、路地の隅にそっと供えた。
「あのお人形さんは、もういないんだったね」
コユリへの弔いのつもりなのか、男はその場で大きな身体を折って手を合わせ、しばし沈黙を守る。その間の栄真の煮えくり返るような心情など、男は気にする素振りをまるで見せない。
————お前が殺したんだろ……っ!!
声高に糾弾して、殴りつけて、あわよくば殺してやりたい。張り裂けそうなほどに思うのに、身体は思うように動いてくれない。
それどころか、手足はがくがく震えて、情けなくだれている始末。背筋や首に汗が伝う感触がして、呼吸が逸る。
恐怖。
ただその感情だけが、栄真の身体を支配していた。
忘れようもない、忘れるはずがない。————この男への憎しみ、恐怖、恐れだけは。
————動け。動け動け動け! コイツを殺すんだ……っ!殺せ! いまここで、コユリの仇を討つんだ!
うるさく叫んで殴りつけるこころを裏切って、栄真の身体は、指一本すらまともに動けない。
栄真が羽織っているパーカーのポケットには、いつも無骨なサバイバルナイフが入れてある。いつどこでこの男と出くわして、殺してもいいように。恵ご自慢の、キャンプグッズコレクションの中から失敬したものである。
だがいまは、そのナイフを手に取ることさえ叶わない。万一ナイフを手に取れたとしても、汗で滑ってまともに操れないだろう。
コイツを殺せない。その怒りと焦りとそしてコユリへの罪悪感が、栄真を追い詰めていく。
その様子をしげしげと見つめてなお、男————
「変わらないね、弱虫栄真クン。反吐が出るほどだよ」
栄真の全身の震えを、感情を、すべて読み取ったからこその素直な感想なのだろう。他人の傷を抉るのは得意らしい。
「まぁ無理もないか、いまのキミには身を挺して守ってくれるお人形さんが、いないからね」
栄真の神経をわざと逆なでするような言葉を投げつけて、
赤薔薇の手に握られていたのは、丸みを帯びた独特のフォルムが目立つ小ぶりの拳銃。
レミントン・モデル95・デリンジャー。
人類の歴史に残る拳銃の中でも最小を詠う、わずか三インチの銃身長。口径も四十一とあってリコイルショックが小さいために、小柄で非力な女性にもやすやすと扱える拳銃の代表格である。
主な用途も護身用で、決して一般的な拳銃が持つような殺傷能力は期待できない。
だが。
《レザークラフト08》は裂けた大きな口を残忍に歪め、照準を栄真の胸にぴたりと合わせる。それは獅子が兎に狙いを定めるように、ごく自然に。
「こんな小さな銃でも、ウサギのようなキミを殺すにはあまりある威力を誇る」
銃身が短いので、射程距離が一メートルにも満たないのがデリンジャーだ。だから本来では、人をじかに殺すに至るほどのダメージを負わせられるはずがない。
だが、いまのか弱いとさえ表現できる栄真には、充分すぎるほどの効果をもたらした。
指の腹が徐々にトリガーを押し込んでいくさまは、死神の鎌が頭をもたげるに等しい。
「good night,little boy.」
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